31.「ハニーパイ」
「それは、ティアにリックを殺させろ、ということですか?」
僕は、聞きにくいことであったが、あえて聞いた。
ティアにとって、リックは一番近しい家族のようなものだ。
そんなリックを殺すことが出来るのであれば、ティアは身も心も立派な暗殺者なのだろう。
暗殺者を作る立場の人間からすれば、それは願ってもないことだろう。
リックを殺すことが出来るティアには、もう、誰を殺すのにも、ためらわないだろうから。
「昔の私であれば、そうさせていたでしょう」
マーテル先生は、また、リックの方を見た。
リックは他の少年たちと、楽しそうに飛び跳ねている。
あんなに動いたら、心臓に悪いと言ったのに。
「私は、暗殺者に心は不要だと考えていました。
人を殺すのに、心があれば、邪魔になると考えていたのです。
ティアは、そうした私の指導を受けた最後の世代になります。
そして、それを変えたのは、他ならぬティアなのです。
ティアは、私たちの出す課題や仕事を、ことごとくクリアしてきました。
他の子供たちでは、クリアできなかった者も多いのにも関わらずです。
その理由は何なのだろうと考えました。
一つは、リックの存在があるでしょう。
ティアは、自分が失敗したら、リックの立場も危ういと考えていたようです。
実際に、私はリックを殺させるつもりでしたから、その予想は当たっています。
そんな、他人を守らなければならないという立場が、彼女を強くしたのは想像に難くありません」
人は、人を守ることで強くなる。
ティアに限らず、誰しも経験することだ。
それまで頼りなかった人間が、結婚を機に、急に頼もしくなるとか。
子供が出来たのを機に、急に落ち着きが出てくるとか。
それは、他人を守るという責任感からきたり、守ることで生きている実感が得られたり、色々だろう。
「そして、もう一つは、ティアが自分で考えて行動したからだと思います。
ティアの同期や、それまでの子供たちは、まるで機械のようでした。
私たちは、そう育ててきましたし、それが望ましいことだと思っていました。
実際、命令は一字一句、違わずに実行するし、命令する側にとっては本当に都合のいい子供たちでした。
恐らく、暗殺者としてなら、皆、ティアよりもずっと優秀だったと思います。
しかし、今まで生き残っている子供は、その中には一人もいません。
一人も、です。
みんな死んでしまいました。
恐らく、自分の命が危ないという状況でも、簡単に命を投げ出してしまうのでしょう。
命よりも命令を優先した例もあったかもしれません。
簡単に命を諦めてしまうのです。
そんな中、ティアは、こともなげに生還しました。
実際には大変だったんでしょうが、私には、そう見えました。
長い間、出来損ないだと思っていたティアのみが私のそばに残った事実に直面して、私は考えを改めるしか、ありませんでした」
マーテル先生の目には、リックの他に、彼と遊ぶ子供たちが映っている。
今の孤児院の子供たちは生き生きとしている。
機械のようには見えない。
僕は、これが自然だと思っていた。
確かに、この子供たちが皆、暗殺者になるのかと思うと、変な気分がする。
「きっかけは、ハニーパイでした。
それまで、子供たちには料理などさせてきませんでした。
料理など、無駄以外の何物でもない。
熱さえ通っていて、それなりのバランスがあれば、味や見た目など、どうでもいい。
ましてや、皆で集まってわいわい食べるなど、時間の無駄以外の何物でもない、そう思ってきました。
けど、ティアは、私の作るハニーパイを美味しいと言ってくれたのです。
そして、リックと一緒に食べたいと。
そのときの味なんて覚えていないですけど、とても楽しかったことは覚えています。
それから、孤児院では皆で食事をするようになりました。
食事だけじゃなく、皆で遊んだり、お昼寝したり、おしゃべりしたり。
それだけのことで、子供たちの顔に笑顔が戻って行ったのです。
それからの子供たちの仕事の成功率は、必ずしも良いとは言い難いものでしたが、生還率は格段に上がりました。
そして、子供たちが生還することに、私も喜びを感じるようになっていったのです」
マーテル先生は、僕の方に向き直り、僕の手を取った。
優しさに包まれていると思われた瞳には、憂いを帯びていた。
大切なものが無くなってしまうのではないかという悲しみのように見えた。
「カナンさん。ティアのことをお願いできないでしょうか?
あの子は、もう充分、殺しました。
私としては、暗殺者から足を洗っても、いいんじゃないかと考えているのです。
でも、あの子は、それを聞き容れません。
それどころか、最近はリックまで、修行をせがんでくるようになりました。
私は、人を殺すことしか教えることのできない人間です。
私だけではなく、この町の人間は皆そうなのです。
このままでは、ティアもリックも不幸になります。
殺すことだけが教会の教義ではありません。
ティアやリックには、そのことが分からないようです。
ふたりは、お互いを思いやるあまり、お互いを破滅に導いているように見えます。
私には、それを止めることが出来ない」
それは、リックを見ていても感じることだった。
リックが暗殺者を目指すのは、他ならぬティアのためなのだ。
お互いを救うために、お互いが破滅に向かって突き進んでいく。
この負の連鎖のような状況を、どうすれば解決できるというのだろう?
人を治療するということは、新たな問題も巻き起こす。
今回の件は、リックが良くならなければ起きなかった問題と言えた。
かといって、もう一度、リックの病態が悪くなれば解決する問題でもない。
もう問題の種は、撒かれてしまったのだ。
「少し、考えさせて下さい」
僕は、ようやくそう言って、マーテル先生の部屋を出た。
文字通りの意味だった。
難しい問題すぎて、すぐには答えが出てきそうにもなかった。
出てくるのかすら、本当は分からなかったのだ。




