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28.「感染性心内膜炎」

 夕方、リックがしょげていた。

 急激に便意を催し、粗相をしてしまったらしい。

 しばらく下痢が続いたようだ。

 だが、あらかた出尽くして、今は止まったとのことだった。


 それは、僕にとって予想外の出来事ではあったが、《ヘーレム》の効果を確信させるものだった。

 恐らく、《ヘーレム》がリックの腸内細菌を殺し、その死骸が下痢となって出てきたのだ。

 元々、便の2割くらいは、腸内細菌の死骸だと言われている。

 また、抗生物質を飲むと下痢をする人がおり、そこからも連想される結果だった。

 まあ、抗生物質を飲むことで起こる下痢には、アレルギーなどの要因も絡んでくるために、一概に殺菌によるものとは断定できないのだが。


 僕は、リックの首元に手を当てた。

 熱も下がっていると思う。

 《ヘーレム》は、かなりの効果をもたらしたと言えた。

 それが、どの程度なのか、効果が減菌に止まるのか根絶であるのかは、判断のしようがない。

 それは、後で他の方法で実験することとしよう。

 少なくとも、《ヘーレム》には感染症を治療する効果がある。


「カナンさん。

 こんなに下痢をすることになるなんて、思わなかったです。

 それに、なんだか指の先に、黒い斑点が出てきてしまいました。

 これって、大丈夫なんでしょうか?」


 不安そうにするリックは、右手を差し出してきた。

 指の先に、赤黒い斑点が出来ている。


「これは、痛い?」


 僕が斑点を押しながら問うと、リックは首を振った。

 無痛性の点状紫斑。

 これは、おそらくジェーンウェイ病変と呼ばれるものだ。

 比較的、感染性心内膜炎に特異的で、これが出来るということは、リックが感染性心内膜炎であった可能性を高める。


 恐らく、心内膜にできた疣贅(いぼのようなもの)が、急激な殺菌により剥がれ落ちた結果だろう。

 僕は、その想像に身震いして、リックの診察を始める。

 あかんべをさせ、眼瞼結膜を観察するが、点状発赤は認めない。

 手足の動かしづらさを聞いたが、特にそのような様子はない。


 抗生物質による治療でも、治療により塞栓症が一時的に悪化するということはある。

 しかし、《ヘーレム》では、治療が効きすぎた可能性がある。

 このため、疣贅に急激な変化をもたらし、それが塞栓となって、指に飛んだのだろう。

 その部分の血流が阻害され、点状の紫斑となった。

 もし、この疣贅が脳に飛んでいれば脳塞栓だし、肺に飛んでいれば肺塞栓だ。

 自覚症状はないようだが、全身に微小塞栓が起こった可能性は充分にある。

 もしかしたら、重篤な麻痺症状なども起こったかもしれないのだ。

 この世界で感染性心内膜炎の患者さんになど会うことはもうないだろうが、次は少しづつ効かせるようにしようと内心で決める僕であった。


 念のためティアには、もう一度、リックに《ヘーレム》を掛けてもらった。

 腸内細菌は、ほとんど死んでいると考えられるため、もう一度も腸を含めて掛けてもらった。

 予想通り、2回目の《ヘーレム》では、ほとんど下痢は起こらなかった。

 まあ、リックの方でも予想してトイレでスタンバってもらっていたということが良かったのかもしれない。


 下痢や塞栓症の悪化という懸念材料があるとはいえ、《ヘーレム》の効果は絶大だった。

 この懸念材料も、《ヘーレム》の効果のためにきているものだ。

 そういう意味では、ほとんどリスクなしで細菌を殲滅できることを意味する。

 僕は、《ヘーレム》の効果に感動して打ち震えた。


 もう一人、《ヘーレム》の効果に感動する人間がいた。

 ティアだった。


「何かを殺すことが、誰かを生かすなんてことが、あるんだね。

 あたしも、それを信じて暗殺を繰り返してきた訳だけど、実際に、それを目の当たりにするのは初めてだ」


 ティアにも、迷いがあったのだ。

 僕は、そのことをすごく意外に感じた。

 迷いがあるような状況で、よく暗殺などできたものだと思った。


「細菌を殺したり、健康な部分の機能を犠牲にして、その人の生命を助ける。

 これが、僕たちの医療だ」


 僕たち医療者は魔法を使えない。

 医療を施すということは、リスクを冒すということだ。

 医療を施すことで、かえって病態が悪くなることは、常にありうることなのだ。


「あたしたちのやってきたことと、似ているところもあるんだね?」


 ティアは、そう言って、微かに笑った。


 違う。

 そう言いたかった。

 しかし、そう断言しきれない自分もいた。


 例えば、連続婦女暴行殺人犯が犯行中に銃撃されて目の前に運ばれてきたとしよう。

 この犯罪者は全然、犯行について反省していなくて、治療を施したら、また、レイプや殺人を繰り返すだろう。

 僕がこの犯罪者を治すことで、かえって不幸になる人間が増える可能性がある。

 この犯罪者を治すってことは、この犯罪者を殺せる状況で殺さないのと同じことじゃないのか?

 それは、この犯罪者が殺してしまう人間を、僕が殺したのと同じことじゃないのか?


 連続婦女暴行殺人犯ってのは極端な例かもしれないが、世の中には煮ても焼いても食えない人間は、確かにいるものだ。

 だが、僕は、きっと、そんな人間がやってきても、精一杯の治療を施すだろう。

 助けたことで犯罪が増え、助けたことを非難されながらも、同じような患者が来たら、再び治療を施す。

 それが医者という職業だ。


 ティアは、人を殺すことで、幸福な世の中がもたらされると信じている。

 信じなければ、殺人などできないだろう。

 世の中には、生きていても他人の害悪にしかならない人間も、いるのかもしれない。

 だが、例えそうであったとしても、人間は人間だ。

 そういう意味では、僕とティアは裏表の関係なのかもしれない。


 《ヘーレム》は、確かに偉大な魔法だった。

 その効果は、ティアの内面にも影響を与えつつあった。

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