26.「心室中隔欠損」
「熱があるのと息が苦しい以外に、具合の悪い所はある?」
僕がそう聞くと、リックは少し考えて、
「少しだるいのと、ちょっと頭が痛いことがありますね」
と言った。
考えるくらいだから、自覚症状には乏しいということだ。
僕は、身体診察をするために、リックを寝室へと連れて行った。
発熱がある場合に、まず考えるのは、感染症の存在だ。
そして、今後の治療法を考える上で、それがどこの感染症かを判断する必要がある。
一般的に、急性の感染症をきたしやすいのは、身体の外との交通性がある部分である。
そういう臓器は、病原体の侵入門戸となる。
具体的には、呼吸器系(口と鼻で外と繋がっている)、消化器系(口や肛門で)、泌尿器系(尿道で)だ。
だから、まずはそれらの臓器に関連した症状がないかどうかを確認する。
「呼吸は苦しいだろうけど、吐き気や下痢をしたり、尿をするときに変な感じがしたりとかはない?」
リックは首を振った。
念のため、腹部を圧迫したり、左右の肋骨脊柱角部を叩いてみるが、痛みを誘発することはないという。
以上からは、呼吸器系の感染は否定できないが、消化器系、泌尿器系の感染は否定的だということだ。
僕は、次にリックをベッドに寝かせた。
初めて会った時ほどではないが、頸静脈が拍動性に怒張している。
心不全の増悪もあるということだろう。
その後、僕はリックの首を持ち上げ、痛みの有無を聞いた。
痛みはないという。
その後、首を振ってもらったが痛みはなく、ケルニッヒ徴候も陰性だった。
ジョルトアクセンチュエーションがなく、項部硬直もないため、髄膜炎は否定的と考えてよいだろう。
髄膜炎は、感染症の中で頻度は必ずしも高くないが、放置すると重篤な転帰を辿ることがあり、注意しなければならない病態のため、これを否定しておくことは重要だ。
頭痛があるとのことだが、頭痛は病気の場所を特定するための手助けとはならないことが多い。
呼吸苦や発熱で眠れないために睡眠不足で頭痛をきたすこともありうる。
今は消失しているとのことであるし、気にしすぎる必要はない。
一通り診察を終えた僕は、リックの症状が発熱以外は、はっきりしないことが分かった。
確かに、呼吸苦があるため、呼吸器系の感染症は否定できない。
上気道炎や肺炎を念頭に置く必要がある。
だが、診断できる程の根拠はない。
呼吸苦は心不全の増悪でも起こりえるからだ。
ただ、呼吸器系の感染をきたしているとすると、症状が軽すぎる気もする。
そして、リックはシックコンタクトに乏しい。
シックコンタクトとは、同じような症状の人が近くにいることだ。
これがある場合は、感染性の高い感染症をきたしている可能性が高い。
具体的には、インフルエンザなどの空気感染をきたす疾患である。
しかし、そのような様子もなく、リックが誰かから病原体をもらったというのは考えにくいだろう。
もうひとつ、念頭に置かなければならない重要な感染症がある。
感染性心内膜炎だ。
普通の人が、この疾患をきたすことは、まずない。
しかし、実際のところは確かめようがないが、僕はリックの病態の主体は心室中隔欠損にあると考えている。
この心室中隔欠損に、感染性心内膜炎が合併するのだ。
今のところ、オスラー結節などの特異的な症状や、塞栓を疑うような症状はない。
日本であれば、まず血液培養を行ったり、心エコーを行って疣贅の有無を確認するところであるが、そんなことを言っても仕方がない。
リックが感染性心内膜炎を起こしているかどうかは分からない。
「あまり、良くないですか?」
僕の顔を窺うように覗き込み、リックがおずおずと聞いてきた。
考え込んでしまったために、不安を与えてしまったのかもしれない。
僕は、隠しても仕方がないことだし、今の状況をありのままに話した。
「なるほど。
その、感染性心内膜炎って病気だと、良くないんですか?」
僕は曖昧に頷いた。
「感染性心内膜炎は、全身の塞栓症を起こすんだ。
塞栓症っていうのは、心臓に出来た血の塊が、全身に飛ぶと考えてもらうと分かりやすいと思う。
血の塊が飛んだ臓器では血流障害が起きて、それぞれの臓器の障害を起こすんだ。
そして、僕が知る限りでは、治療法はない」
僕は、これから起こすかもしれない、というような言い方をしたが、感染性心内膜炎であるとすれば、すでに塞栓症を起こしていてもおかしくない。
例えば、呼吸苦増悪の原因は肺塞栓の可能性もある。
そして、症状としては現れていないほどの微小な塞栓を、全身に起こしている可能性は否定できない。
治療法としては、日本であれば、抗生物質を長期間投与する。
血液検査で炎症反応の陰性化や、心エコーで疣贅の消失を確認して、抗生物質を終了することが多いだろう。
しかし、ここには抗生物質もなければ、血液検査もできないし、心エコーもない。
「その、感染性心内膜炎の原因は何なんですか?」
「血液の中に細菌などの病原微生物が混入し、それが心臓内部の組織に感染することにより感染巣をつくってしまうことによって起こる」
僕の返答に、リックはしばらく考えると、何かを思いついたように言った。
「カナンさん。
姉さんを呼んできてください。
いい方法を思いつきました」
僕は、思わず聞き返してしまったが、リックは連れてきたら説明すると言う。
僕は、ティアを連れにキッチンに向かった。
料理はあらかた終わっていたらしく、ティアと一緒にミューズも付いてきた。
「リックは、どんな病気なんだ?」
ミューズが聞いてきた。
「多分、心室中隔欠損っていう、心臓の中心に穴が開いている病気なんじゃないかって考えている」
僕がそう答えると、ミューズには意外そうな反応をされた。
「心臓の中心に穴って、開いてるんじゃないか?」
「いや、そもそも……」
心臓は2つの心室と2つの心房から出来ていて、みたいな説明をしようと思ったところで、僕は、ある事実に気が付いた。
ミューズたち中世の人間は、解剖生理学を精気論で理解している。
その精気論では、右心室の自然エネルギーを多く含む血液は、心室中隔にある「見えない孔」を通って左心室に滴り落ち、そこで肺静脈を通って吸い込まれた空気と混合して生命エネルギーを多く含む動脈血を作ると考えられていた。
実際には、そんなことはないのだが、中世のヨーロッパでは、そう信じられていたのである。
ミューズが、その説を信じ込んでいたとしても不思議でない。
僕は、後でミューズには解剖生理学について講義しなきゃいけないなと思いながら、リックの部屋に戻った。




