19.「奇跡」
ティアの言葉通り、マーテル先生のハニーパイは絶品だった。
日本でも、これほどの物は食べたことがないかもしれない。
ハニーパイだけではない。
ストロガノフのように良く煮込まれた肉と温野菜の煮物があれば、色々な食材が裏ごしされたと感じさせるポタージュスープ、色とりどりの食材が使われたテリーヌに、青椒肉絲のような炒め物もあった。
キツネ色をしたパンは焼きたてホカホカで柔らかかく、一緒に食べると、また味が引き立った。
出される料理は手の込んだものばかりで、ガスコンロや電子レンジもないのに、よくここまで作れるものだと感心した。
グレッグのところにいた時も、それなりの食事が出てはいたが、ここでの食事は何となく家族の温かみのようなものを感じさせ、別格だった。
そして、この大家族。
全員で18人。
こんなに大人数で食事したのは、久しぶりだ。
学生時代以来かもしれない。
「うまいだろ?
美味しい料理は、毒殺の基本なんだぞ?」
ティアが意地悪い顔で、そう囁いてきたので、僕は危うく食べ物を吹くところだった。
美味そうに見えるし、実際に美味いのだが、一点気になるところがあり、それは、食材が見当もつかないところだった。
だから、そういう怖いことを言うのはやめてほしい。
むせる僕を、ティアが指差して笑う。
それにつられて、食卓の皆が笑った。
「ティア! ごめんなさいね、カナンさん」
マーテル先生が、申し訳なさそうにタオルと水を渡してくれる。
僕は、お礼を言って受け取る。
あれ?
この人、いつの間に用意したのだろう?
さっきまで、持っていなかったはずなのに。
僕は、元暗殺者の一端を見た気がした。
リックも、端っこで遠慮がちに食事をしていた。
元々、小食なのかもしれない。
薄く切ったパンに料理を乗せると、それを口に運んでいた。
ああいう食べ方も美味しそうだ。
水分制限をしているので、あの方が喉を通りやすいのだろう。
ティアは終始ニコニコしながら、幼い子供たちに料理を取ってあげたり、食べさせてあげたりしていた。
子供たちも、わいわいニコニコしながら、それぞれに料理を手にしていく。
久々の家族の団欒を見た気がした。
さすがに、こんなに豪勢な食事は毎日は続かなかったけど、それでも、それと劣らない食事が、毎回出てきた。
僕も、オーブンでパンを焼くくらいのことは手伝った。
料理の準備を手伝わなかったのは、自分があまり料理が得意でなかったこともあるが、材料を見るのが少し怖かったからだった。
そうそう、僕は火打石で火を熾せるようになった。
グレッグのところにいた時は熾したこともなかったし、初めは熾すまでに時間がかかりすぎてティアに馬鹿にされたけど、今ではかなり手際よく熾せるようになったと自負している。
あと、僕がしたことは、商人のハマスさんや、職人のドージさんに頼んで、リックの車椅子を作ってもらったことだ。
細かい設計までしなくても、椅子の後ろの2本の脚を車輪にして、後ろに取っ手をつけて押せるようにしてほしいと頼んだら、すぐできた。
なかなかやるものだ。
リックには、かなり喜ばれた。
アルデンの町どころか、マーテル孤児院すら、あまり出たことがなかったらしい。
僕たちは、アルデンの町を散歩するのが日課になった。
そこでは、色々な話をした。
リックは、人と話すのが大好きのようで、僕が一つを喋ると十のことで返すかのように喋ってくれた。
僕は、一番興味のある魔法の話を、まず聞いた。
「魔法とは、人外の者に力を借りて、強大な力を行使する方法の総称です。
魔法は大きく分けて、神聖魔法、暗黒魔法、精霊魔法、古代魔法に分かれます。
神聖魔法は、光の教会の信者の人たちが使う魔法で、神様の力を借りることで行使される魔法です。
暗黒魔法は、ぼくたちの教会の信者が使う魔法で、同じく神様の力を借りることで行使される魔法です。
精霊魔法は、自然界にどこにでもいる、地水火風の四精霊に力を借りることによって行使される魔法です。
そして古代魔法は、今は失われて原理が分からない魔法のことです」
「神聖魔法と暗黒魔法の違いがよく分からないんだけど?」
信じている宗教の違いというだけなのか?
でも、暗黒教団の崇める神は光の教会と同一だというのが、暗黒教団の主張だったはずだ。
だったら、光の教会の信者は暗黒魔法を、暗黒教団の信者は神聖魔法を使えてもいい気がする。
「それには、光の教会とぼくたちの教会の関係を理解する必要があります。
二つの教会は、元々一つの組織だったというのはご存知ですよね?」
僕は頷いた。
信仰上の理由により、二つに分かれたという話だったはずだ。
「神聖魔法も暗黒魔法も、それぞれの聖典である聖書を使用する必要があります。
その聖書の内容が、二つの教会の間で違うのです。
いずれも、同じ神の言葉をまとめたものという意味では一緒で、今は失われたQ資料なるものを基にして作られたとも言われていますが、その内容はかなり異なったものとなっています」
ん?
「聖書なんて、リゲル長老もティアも使ってなかったぞ?」
ミューズも使っていなかった。
リックは頷いた。
「いちいち『神聖魔法と暗黒魔法』というのが面倒くさいので、併せて『奇跡』と呼ぶことにしますね?
奇跡とは、神の起こし給うた超常現象を再現することです。
神の起こした超常現象の具体的な内容は、それぞれの聖書に書いてあります。
奇跡を使う初心者は、その超常現象について記載されたページを開き、祈りの言葉を捧げることで、奇跡を実現することが出来ます。
リゲル長老やティア姉さんのような上級者は、頭の中に聖書の内容を思い浮かべることで、聖書のページを開くことを省略できるのです」
「じゃあ、僕でも聖書があれば、奇跡を使えるってこと?」
僕の当然の問いに、リックは首を振った。
「多分、無理だと思います」
「なんで? 異世界人だから?」
リックは、また首を振る。
「カナンさんは、原罪という考えをご存知でしょうか?
人間は、生まれながらにして罪深い存在だ、という考えです。
原初の人間が罪を犯してしまったために、その人が何も悪いことをしていなくても、罪を背負って生きていかなければならない、とする考えです」
僕は頷いた。
アダムが蛇にそそのかされて、神の言いつけを破ってリンゴを食べた、というやつだろう。
この世界の罪が何なのかは知らないが。
「この罪を背負っている状態では、奇跡は使えないのです。
奇跡とは、神との契約を順守している者だけに、神が授ける恩恵とも言い換えることが出来ます。
つまり、罪のある人間は、契約を順守していないことになるので、奇跡を使えないのです。
ですから、奇跡を使うためには、まず神に、この罪を許してもらう必要があります。
そのために行われるのが、洗礼と呼ばれる儀式です。
神に赦しを乞いながら身体を祓い清めることで、人は罪から解放されることができます。
しかし、人間は罪深いので、このままでは、また罪を犯してしまいます。
そうすれば、また奇跡を使うことが出来なくなってしまいます。
罪とは、神の言いつけに背くことです。
聖書とは、神の言いつけをまとめた書物でもあり、言い換えれば、神との契約の書とも言えます。
罪を犯さないように生きる、すなわち、神の言いつけを守り続ける、神との契約を順守し続ければ、奇跡を使い続けることが出来ます。
それは、聖書の言葉通りに生きる、ということです。
光の教会とぼくたちの教会の聖書は別、内容も別ですから……」
「それぞれ、別の教会の奇跡は使えない、ということか」
「そういうことです」




