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16.「精気論」

 ティアは俯く。

 普段は、はっきりと喋る彼女の声が、今は呟くようにしか聞こえない。

 僕は、聞き漏らさないように耳を澄ませた。


「あたしが初めてリックに会ったのは、あたしが3歳の時だったらしい。

 その時リックは、まだ赤ん坊だった。

 どこかの偉い人の息子だったらしい。

 だけど、何らかの理由で、親に捨てられた。

 理由は知らない。

 弱々しいリックの身体が理由だったのかもしれないし、全く関係ないことが理由だったのかもしれない。

 いずれにしても、マーテル孤児院に預けられることになった。

 偉い人の息子だったから無下にすることもできず、マーテル先生は丁重に扱ったと言っていたよ。

 実際、お蔭でリックは生き長らえた。

 あんなに弱っちいのに、おかしいよな?

 リックと同い年だったマークは、3年前、せっかく暗殺者になったのに、初任務で失敗して殺されてしまった。

 ティムとアイリスなんて、今のリックと同じ歳で、隠密任務中に光の教会の奴らに捕縛されてしまって、拷問の末に処刑されたよ。

 そんな話、挙げだしたら、きりがない。

 あたしだって何度も死にかけたし、リックより年下の標的を、何人か手に掛けたりもした」


 ティアが言うように、リックのような子が、この世界に存在するのは奇跡だった。

 リックは、他人の助けなしには生きられない。

 しかし、見返りもなく他人を助けられるほど、この世界は甘くない。

 頭が良さそうな子だから、子供たちに勉強を教えてあげたりしているのかもしれない。

 けど、それだけだ。

 それ以外のことなど、できそうもない。

 調子が良くて、食卓に歩いていける程度なのだ。


 さらに、病気そのものによっても、命を落とす可能性もあった。

 逆に言えば、リックの病気は、今まで生き長らえることが出来るほどには軽かったと言い換えることが出来る。

 リックは、見た目、中学生くらいの年齢だ。

 無治療で十数年間も生きることが出来る程の病気だということだ。


「なあ、カナン。聞かせてくれ。

 リックは、普通の生活が送れるようになるのか?」


 ティアが、僕の目を見て言った。

 彼女のルビーの瞳には、先程とは異なり、光が宿っている。

 僕は、その問いの難しさにめまいがしそうになりながらも、何とか口を開いた。


「リックは、心臓の病気だ」


 慢性心不全。

 これが、僕の見立てたリックの診断名だ。

 起坐呼吸を認め、手足がむくんでいるのは、循環血漿量に心拍出が追い付いていない結果だ。

 喘鳴が聞こえるのも、心臓喘息として矛盾しない。

 もしかしたら、気管支喘息の気があるのかもしれないが、病態の主体は心不全によるものだろう。

 完全な血痰ではなく、水っぽいピンク色の痰が出てくるのも合致する。


「心臓? 肺ではなくて?」


 ティアが意外そうに聞いてくる。

 僕は頷いた。

 ティアたち、この世界の住人達は、精気論に基づいて人体の解剖生理を理解しているようだ。

 精気論とは、食物に自然エネルギーと呼ばれるものが蓄えられていて、それにより人間は生きているという理論だ。

 具体的には、以下のようになる。

 食物は腸で自然エネルギーを取り出され、それは肝臓で加工された後に、心臓に送られる。

 肺で取り込まれた空気の一部は心臓に送られ、肝臓から送られてきた自然エネルギーと合成され、生命エネルギーとなる。

 生命エネルギーは心臓から、身体全体に送られ、全身のエネルギーの源となる。

 生命エネルギーの一部は脳に送られて精神エネルギーとなり、身体全体を動かす指令を出す、という風に考えられている。

 この理論で欠けているものは、血液循環の理論だ。

 つまり、心臓が悪いと肺に水が溜まるということが理解できないのだ。

 だが、それでも、裏切ることのできない僕は、病態を説明しないわけにはいかなかった。


「心臓は、全身に血液を送るポンプのような働きをしている臓器だ。

 血液が届かないと、全身の臓器は死んでしまうから、その働きは重大だ。

 心臓が機能不全を起こしているリックの病気の名前を、僕たちは心不全と呼んでいる。

 心臓が全身に血液を送れないために、体中が水浸しになってしまう病気だ」


 ティアは、頷きながら聞いている。

 本当に分かってもらえたのかは何とも言えない。

 僕自身もリックの病態を完全に理解しているわけではない。

 心不全の原因は、一体、何なのか?

 つまり、診断が分からなければ、治療は難しい。


 僕は、名医が出てくるタイプの医療モノの話が嫌いだった。

 なぜかと言えば、名医は簡単に患者に診断をして、治療をして、必ずと言っていいほど良くしてしまうからだ。

 そして必ず、名医は、その治療技術を称賛される。

 大いに間違っている。

 僕が内科医だからそう思うのかもしれないが、医療に最も重要なのは、治療ではなく診断なのだ。

 正確な診断ができなければ、どんなに素晴らしい治療も、患者さんの生命を縮めかねない。

 名医は診断技術を称賛されるべきなのだ。

 船の上で急性虫垂炎の手術をするような医者を褒めてはいけない。


 物語の中でのステレオタイプ的な名医が言う診断名は、もう、神の言葉と同じように絶対だ。

 それが、診療の過程で覆ることはない。

 そんなことは、ありえない。

 患者さんは生きている。

 治療を行うまでの間にも、そして、行っている最中にも、患者さんの病態は変化する。

 診断名は、その度に変化する。

 それだけじゃない。

 この世界のように、診察技術が限られている世界では、誤診も充分にあるだろう。

 心エコーの検査もできないし、BNPの計測もできない。

 聴診すら、ままならない。

 こんな状態で、正確な診断など、できるはずがない。

 この世界で、今まで僕の前に現れた患者さんたちは、いずれも原因がはっきりしていた。

 ミューズもグレッグもメリルも、刃物による受傷直後に起こった病態だ。

 しかし、リックは違う。

 限られた情報で、なるべく正確な診断を心掛けるしかない。


 リックは、生まれつき身体が弱いようだ。

 リウマチ熱や川崎病などのいくつかの後天的な疾患も完全には否定できないが、生まれつき身体が弱いということからは、リックが先天性心疾患である可能性が高いと考えられる。

 先天性心疾患と言うと、手術が必要な重症な病気であるというイメージがあるかもしれないが、実際にこの世界で手術が必要になるような先天性心疾患の子供は、悲しいことだが、生まれてすぐに死んでしまうのではないかと考えられる。

 つまり、リックは、ある程度、予後のいい先天性心疾患であることが予想される。

 さて、先天性心疾患として頻度が多いものには、心室中隔欠損とファロー四徴症がある。

 頻度が多いというのは、この病気であっても、ある程度、生きていられることを意味する。

 先天性心疾患の中には、胎児手術が必要になるものも含まれるからだ。

 リックは、青ざめている様子はなかった。

 このことからは、チアノーゼ性の心疾患は否定的で、以上から、ファロー四徴症ではなく、心室中隔欠損なのではないかと考えられる。

 心室中隔欠損であれば、左心不全を起こして今のような状態になるのは、矛盾しない。


 心室中隔欠損は、四つある心臓の部屋のうち、左心室と右心室という繋がっていないはずの二つの部屋が繋がっていることによって起こる病気のことだ。

 右心室よりも左心室の方が収縮力が強いために左心室から右心室へ血液の流出を認め、左心室から全身に送るべき血液が足りなくなり、心不全となる。

 左心室の心不全なので、左心不全と呼ばれる。

 日本では、手術により根治は可能だが、ある程度、自然閉鎖が期待できるので、自然閉鎖を待つ選択をするかもしれない。

 しかし、それは様々な検査できちんと評価した上で、内科的治療に反応しなかった場合の話だ。


 この世界では、自然閉鎖をする前に心不全が重篤化する可能性がある。

 リックが本当に心室中隔欠損であるかどうかは、死後に解剖してみるくらいしか確かめようがない。

 僕が取れる方法は、こうだ。

 リックは心室中隔欠損である可能性が高いが、他の先天性心疾患や心不全をおこしうる病態である可能性を完全には否定してはいけないため、原因検索は常に行えるような心構えはしておくけれども、とりあえず今の問題である心不全の治療をする。

 なんだか、まどろっこしいかもしれないが、これしか方法がない。

 そして、利尿薬のないこの世界で出来ることは限られている。


「どれだけ有効かは分からないけど、できることをやるしかないと思う」


 僕は、治療方針について話し始めた。

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