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12.「エプスタイン・バール・ウイルス」

 それから、しばらく馬車に揺られ、かなりの距離を移動した。

 すでにエーネルスホルン領ではないようだが、ではどこかと言われても、僕に分かるはずもない。

 あるとき、ティアは馬車を停め、弓矢を持って、どこかへ出かけた。

 僕は、相変わらず手足を縛られて転がされている。

 いつまでこのままなんだろう、もしかして忘れられたんじゃないかと不安に思っていると、ティアが仕留めた魔獣を料理して持ってきてくれた。

 料理と言っても、単純に丸焼きにしたとしか思えないものであったけど。

 

「はい、カナン。あーんして」


 ティアが、良く焼けた魔獣の肉を、にっこりとほほ笑みながら僕の口元に持ってきてくれる。

 僕は少しためらったが、空腹には勝てず、その肉にかじりついた。

 何の肉なのか聞かなかったが、悪くない味だった。

 ティアの話によれば、毒矢で仕留めたということだった。

 ――食べさせる前に言ってくれと本気で思った。


 その後、僕は、ティアが使用した毒の詳細を聞き、初めて毒がクラーレの一種であることを確信した。

 ティアの仲間たちは、普段から、この毒を使用して狩った獣たちを普通に食べているらしい。

 実は、クラーレは消化管から吸収されない。

 このため、毒によって死んだ魔獣の肉を食べても、食べた人間が中毒になることはない。

 狩人にとって、非常に都合のいい毒なのである。


「わざわざ、そんなことをしてもらわなくても、これを外してもらえれば、自分で食べるよ?」


 僕は、控えめに、そう提案してみた。

 猿轡に関しては免除されていたが、まだ信用してもらえていないのは明らかだ。


「えー。だって、せっかく拉致してきたんだし、逃げられたら、もったいないじゃん」


 ティアは、持っている魔獣の肉を、豪快にかじりながら言った。

 もったいないって……。


「僕は、さっき話した通り異世界人だし、こんなところで逃げても生きていけない。

 残念ながら戦闘能力も皆無だし、君みたいに、そうやって食べ物を獲ることすらできない。

 むしろ安全な所に連れてってと、お願いしたいくらいなんだ」


 僕は必死に説得した。

 ティアのようなタイプには、理由をきちんと説明すれば、分かってもらえると踏んだ結果だった。

 暗黒教団は合理的。

 教会は理想論的。

 そんな区別が、僕の中に既に出来ていた。


「確かにカナンは弱っちそうだけど、まあ、もうそろそろ町に着くから、それまで我慢してよ。

 そこで、カナンの処遇を決めてもらうからさ。

 どうなるかわからないけど、生命だけは助けてもらえるようにお願いしてあげるって。

 感謝しなよ?」


 ティアは、さらっと酷いことを言った。

 本気で逃げることを考えた方がいいかもしれない。

 まあ、僕も結構、腹を括っている。

 たとえば、先程、ティアから差し出された肉を食べるのに、ためらったのには、いくつかの理由がある。

 矢毒の問題はクリアしたのでよいだろう。

 どんな魔獣の肉なのかは、気にした方が負けだ。

 問題は、ティアが口を付けたものを、僕が口を付けて大丈夫かということだ。

 間接キスがどうとか、そんな小学生みたいなことが言いたい訳ではない。


 皆さんは、エプスタイン・バール・ウイルスというウイルスをご存じだろうか?

 一般の方には馴染みのないウイルスかもしれないが、実はこのウイルス、我々の実に9割以上に感染を認めるウイルスだ。

 僕自身、大学の研究室で血清検査をしてもらってIgG抗体やEBNA抗体が陽性だったため、体内には潜伏感染していると考えられる。

 潜伏しているだけなら問題ないと思われるかもしれないが、一部の人にバーキットリンパ腫や上咽頭癌などを起こす怖いウイルスでもあり、最近では胃癌の10%にこのウイルスを認めたとする報告もある。


 僕が、こちらの世界に来て思ったのは、このエプスタイン・バール・ウイルスが、この世界にも存在するのか、ということだ。

 だから、ミューズに人工呼吸をする際にも、少しためらった。

 僕が人工呼吸をすることで、ミューズにエプスタイン・バール・ウイルスを感染させてしまうのではないかと思ったのだ。

 エプスタイン・バール・ウイルスは、今まで感染したことのない成人に感染すると、伝染性単核球症と呼ばれる、発熱、咽頭痛、リンパ節腫脹を特徴とする病態を引き起こす。

 感染機会のなかった成人が初めてキスをして発症したりするので、俗に「キス病」と呼ばれる病気だ。

 ミューズの場合は、人工呼吸を行わなければ救命できなかったので仕方がないと考えていたが、その後、ミューズを観察していても伝染性単核球症をきたしているようには見えなかった。

 これは、この世界でもエプスタイン・バール・ウイルスが蔓延していることを意味しているのではないかと考えられる。

 たまたま感染しなかったということも考えられなくはないが、あれだけ濃厚に接触をして、感染しないということはあまりないのではないだろうか。


 まあ、エプスタイン・バール・ウイルスは置いておこう。

 問題は、もうひとつある。

 それは、エプスタイン・バール・ウイルスのように不顕性感染を起こしている病原体がミューズやティアに感染していて、それが僕に感染するのではないかということだ。

 僕の知る限りでは、問題になるような病原体はないと考える。

 B型肝炎ウイルスに関しては、僕はワクチンを打っているので問題ないだろう。

 HIVでは唾液からでは感染の可能性は低いし、ミューズはAIDSの症状を呈していない。

 問題は、未知の病原体がいる可能性だ。

 今のところ、僕の体調に大きな変化はない。

 こちらの世界にきてから、しばらく下痢が続いたが、旅行者下痢症として許容できる範囲だと思う。

 僕の仮説としては、ウイルスなどの環境は日本とそんなに変化はないのではないかと考えているが、これは僕のそうであってほしいという願望によるところが非常に大きい。

 もしかしたら、この世界には普通に蔓延していて、既にこの世界の住人には免疫機構が発達しているけれども、僕のような異世界の人間が感染したら致死的になるウイルスなどがいるかもしれない。

 ウイルスや細菌は宿主である人間と共に進化するとする説もあるほどで、むしろ、環境が変わればウイルスも変化すると考えた方が自然なような気もしてくる。

 しかし、こんなことを考え出したら、きりがないし、夜も眠れない。

 天然痘ウイルスやペストなどの流行もあるかもしれないし。

 だから、腹を括った。

 まあ、経口感染するような病原体は、加熱により死滅することが多いので、僕は加熱されたものだけを食べるようにはしている。

 日本では寿司とか刺身とか大好きだったので、淋しい限りだが仕方がない。

 え、腹を括ったとか言ってそれかよ、ビビりすぎじゃん、と思われるかもしれない。

 そうかもしれない。

 僕は、ティアから差し出される肉を眺めながら、そんなことを考えていた。

 異世界で不用意に他人の体液を摂取するのは危険だ、ということがあまり伝わっていないので、修正。これでも伝わっていないかも。

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