005
尾崎蒔良の昔話を語ったところで、それはあくまでも昔の話。今の尾崎蒔良にとってはどうってことのないこどもの頃の過ちというだけの話ではあるのだが、なぜ蒔良がそこまで頑なに自身の特技に対して正面から向き合えずにいるのか、胸を張れずにいるのか。蒔良の姉、尾崎明里はそのように感じることが多々ある。
どうしたって尾崎蒔良の『自己流特技』は尾崎蒔良だけのもので、それは他にはない才能の象徴たる象徴であり、それを否定してしまえば自分自身を否定することになり兼ねないというのに。
だから明里は、蒔良と手合わせをすることにした。蒔良も明里もこれまでの人生で幾度となく互いの力量を知るための試合を数多く行ってきた。正確にはもう一人、蒔良の悪友である和久井和彦も一緒に試合をしていたのだが、彼は現在蒔良とは別のクラスであり、最近付き合いが薄い。三年に上がり、彼は夢美里高等学校の治安維持の双璧の一人と同じクラスになり、日々互いを磨き合っているのだという。
ちなみに和久井は『特技持ち』であり、喧嘩の腕なら夢美里高等学校最強の称号を欲しいままにしている。
努力の天才尾崎明里。最強こと和久井和彦。蒔良の力量は二人には足元程度しか及ばないが、二人と手合わせを重ねるうちに、蒔良の実力は徐々に上がってきている。蒔良は自覚していないが、夢美里高等学校に蔓延るある程度の不良くらいなら相手にはならない程である。
今回明里の申し出による手合わせも、蒔良にとっては当たり前のいつも通りのごくごく普通の手合わせであると思っていた。明里相手に手加減をすることなどないが、いつもは明里が本気で手加減しているため、そこそこの鍛錬になった。
だが今回は違う。
明里は手加減することを手加減した。
「姉……さん」
「もう終わりなの? 蒔良。忠告だけしてあげるけど、今日のあたしはいつものあたしじゃないと思いなさい。今まで見たいに手加減はしていないのだろうけれど、本気を出せなきゃまた病院送りにされるわよ」
手合わせというのは本来、力の近い者同士で行うのが定石である。自分よりも上の人間に無理やりに引き上げてもらうという方法は荒っぽくそれでいて効果の期待度は薄い。今回のような明里と蒔良との間にある力量の差では全く鍛錬にはならない。
「……本気さ」
「嘘を言いなさい。ほら」
明里は木刀を一本、蒔良の元に投げてよこす。蒔良に『道具武装』の使用を促し、本気の出し方を思い出させるために。
しかし蒔良は受け取れない。
「いつまで過去を引きずっているつもりなのよ。あんた、鈴木正時との戦いでそれが仇を為したこと、まさか忘れてはいないわよね」
飲む麻薬『吟醸豆』を服用し、人間の限界の力を引き出した鈴木正時。常人の力ではその凶暴的な力に打ち勝つことなど叶わないが、或いは蒔良の『道具武装』なら圧倒しえただろう。
「あたしが来なければ、みすみす奈々実ちゃんを受け渡すつもりだったの?」
「……そもそも瀬川は僕の所有物じゃあないよ」
「あんな狂気の薬に手を出した男に渡せたのかって言っているのよ。もう自覚しているのでしょう? 奈々実ちゃんはあんたにとってそれなりに大きな存在になっている筈よ」
瀬川にとっての蒔良も、同様に。
「もちろんさ。けれどあの時はそうじゃなかった」
「今がそうなら戦いなさい、蒔良。奈々実ちゃんを蒔良の手で守ってあげなさい。あなたの力はそのためにある。人を傷つけるための力じゃなくて、人を守るための力」
「瀬川を守るだなんてそんな大層なこと。四月の時みたいなことなんてそうそうあるもんじゃないだろう? それとも誰かが瀬川の命でも狙っているって言うのかい?」
明里は溜息を吐く。我が弟ながら情けない。人を守るというのはそれだけで意味のあることだということに気付いていない。
「……五月の『特技合わせ』のこと聞いたわよ。響と戦えるみたいね」
「?」
明里が急に『特技合わせ』のことに話題を変えた意味が分からなかったが、すぐに理解した。
「あんた自分の特技も使えないまま『特技合わせ』を勝ち残っていけると思っているの? そんなんじゃ生徒会チームと戦う前に和彦や他の『天才』たちに一方的にやられて予選敗退よ」
五月の『特技合わせ』には予選というものはないが、もしもそういったものがあるのならば確かに、今の蒔良では突破のしようがない。
「別に、勝ちたいと思っている訳でもないから」
「甘いわね。あんたが勝ちたいと思っていようがいまいが関係なく、響はあんたと戦いたくて今回のようなルールにしたのよ」
「……どういうこと?」
「もちろん別な意図もあるようだけれど。響は懸念しているのよ。彼の引退が近くなればなるほどに夢高は荒れ始める。その時、誰が学校の平和を守れるのかと」
絶対的な王者である立川響にもその玉座を誰かに明け渡す時が来る。生徒会という組織のメンバーは一旦その籍を離れるともう校内の治安維持には関われなくなる。彼が抜けた後で存分に暴れてやろうという勢力が校内で燻っているという情報は既に生徒会の耳には入っているのだが、迫る引退は免れることができない以上、乱れ始める治安を維持してくれる誰かを響は欲している。
「そんなの、『夢高の双璧』に任せてしまえば……」
『夢高の双璧』というのは校内の不良たちを制圧して治安維持を守っている校内最強の二人のことである。その一人が和久井和彦である。
「勿論。響が戦いたい相手はなにもあんただけじゃない。あんたはあたしの弟だし、響はあんたの特技を知っているから、あんたは新生徒会長が選出されるまでの治安維持実行部隊の候補生の一人に選ばれたということよ」
蒔良は察した。つまり、『夢高の双璧』では対処しきれない程に燻っている勢力が夢美里高等学校に入るということだ。……確かに考えてみればそうかもしれない。『夢高の双璧』である二人の『自己流特技』は確かに物理的な制圧には向いているが、特殊能力系の特技ならば簡単に突破される可能性がある。
「それでも僕は……。そんなの、僕の身には余るよ」
「あんたが本気さえ出せればあの『双璧』と肩を並べられる。響としてはそれ以上の戦力が欲しいところなのだろうけれど、あんたはあの響に認められているということなのよ。胸を張りなさい」
「……」
「治安が乱れ始めたら、奈々実ちゃんも危ない目に遭っちゃうかもね。それはあんたとしても非常にいただけない状況になるでしょう?」
もちろん瀬川が危機的な状況に陥るかという保証はなく、未来の話をいくら言われても蒔良にとっては理解の難しい問題である。
「どうして。どうして姉さんはそうまでして僕に本気を出させたいんだ?」
「決まりきったことを聞くもんじゃあないよ、蒔良」
明里は既に用意されていた答えを述べる。
「そんなもん、惚れた女くらい守れるようにならないと格好悪いじゃない」
その言葉を聞き、蒔良は心の中で瀬川の事を思い浮かべ、そして笑う。
惚れた女、か。そうかもしれないな。
「僕はとっくに瀬川に惚れていたのかもしれない。けれどそれは後付だろうね。僕は四月の時から瀬川の事を守り体だなんて大それたことを思っていた。鈴木くんと相対して、瀬川を守りきれない自分に嫌気を差した。けれどそれは僕が本気の出し方を忘れたからだなんて言い訳をして、逃げていただけなのかもしれない」
「そう。蒔良、あんたはただ逃げている。逃げる必要もない過去から逃げている。昔の事なんて全部忘れちゃいなよ」
「……忘れられるわけないじゃないか。けれど姉さん。僕は瀬川を守りたい。本気の出し方を、思い出してくるよ」
「行ってきなさい。あの子も待っているよ」
蒔良は木刀を手に、家を離れた。最愛の友人、大地獄沢雛に会うために。