004
この物語を完結させるに至ってとりあえず尾崎明里という人物について解説をしておこう。尾崎明里は尾崎蒔良の実姉であり、現尾崎家の生活にかかる費用のすべてを負担しているのは明里である。母を早くに亡くした尾崎家は、明里が高校に入学した時点で父親も出稼ぎで家には帰ってきてはおらず、父が帰ってくるのは年に一度、母の命日のみである。明里が高校を卒業するまでは父が稼いだ金で生活をしていたが、高校を卒業した明里が自分で金を稼ぐようになるとその金は使わなくなった。
明里も夢美里に暮らしている以上、遠出をして他の学校に行く気概がなければ夢美里学園高等学校に通うことになる。明里は無論例外ではなく夢美里学園高等学校の卒業生である。特技開発カリキュラムを受講していた『特技持ち』であり(特技自体は入学当時から習得済みであった)、明里が在籍していた三年間、夢美里学園高等学校は大変に平和だったと言われている。現在の夢美里学園高等学校は立川響および他の力のある生徒によって治安は保たれているが、そういった強者がいない時代の夢美里学園高等学校は、力ある者の恐怖政治、頂点の奪い合いが活発に行われていて混沌としていたのだという。明里や響のような頂点に立つ者の資質を持つ生徒でなければ夢美里学園高等学校の治安維持は務まらない。
とにかく明里は『特技持ち』である。それも二つの『自己流特技』を有するいわゆる天才である。偽りの力を持たなければ蒔良を圧倒できないような鈴木正時がかなう道理もない相手である。無論、一般生徒は必ずしも『特技持ち』に勝てないというわけではないが、こと今回に関しては勝てなくて当たり前である。一般生徒では、まず明里には勝てない。
「正時くん。君はもう終わりだよ。明里さんが相手じゃあ君は何もできずして彼女に屈することだろう」
「女じゃないか。尾崎くんの姉だかなんだか知らないが、そんなやつに今の僕が負けるとは思えないけどなあ」
「性別で人を判断すると痛い目をみるよ少年。あたしはそこな蒔良の姉であり、そして姉であり、さらには姉であり、最終的に行きつくところは姉であるというそれ一点のみを君は覚えておくといい」
「何を訳の分からないことを言っているんだ?」
「弟を傷つけられて黙っているような姉はいないということだよ!」
明里は跳躍した。戦闘に置いてはむやみやたらに跳ぶものではない。空中では自由が利かず、そんなところをねらい撃ちにでもされたらたまったものではないからだ。それでも明里は跳躍した。鈴木正時の真上から全体重を乗せた渾身の一撃を加えるためだ。
「そんなもの!」
体をねじってこぶしを全力で構え、相手の脳天を目がけて振り下ろした右腕は宙を殴りつける。あまりにも動作が分かりやすすぎて、正時は最小限の動きのみでそれを回避する。
宙を殴る明里もまた、やはり隙だらけであり、正時は明里の胴を目がけてストレートを繰り出す。
明里は正時の攻撃を避けることができず、空中ではじかれる。だがそのまま体勢を立て直し、両の足で着地する。
「な!」
これには正時も驚きを隠せない。今打ち込んだパンチは蒔良の肩を外した程度の非力なパンチではない。確実に骨が折られる程の強烈なパンチである。
「ふうん。少しは力もあるみたいだけれど、そんなの全然あたしには通じないよ」
「……今のをくらって無事だなんて、変なやつだな」
「今のは単にわざとすきを作って、わざとあんたの攻撃をくらって力をみたかっただけの準備運動よ。ま、今のあんたの攻撃力はまともにくらえばやばいからね、そこだけは衝撃を殺させてもらったりもしたけれど」
準備運動。確かにそのとおりである。例え空中だろうと明里の『自己流特技』の前では馬鹿正直な物理攻撃などすべていなされて当然である。
「姉さん……ちっとは手加減してあげなよ、僕じゃないんだから」
「何言っているのよ、弟くん。あんたを傷つけたやつ無事に帰すわけないっての。まあでも安心しなさい。全力で手は抜いてあげるし、多分、あたしがやらなくても勝手に自滅してくれるだろうからね」
「聞き捨てならないねえお姉さん……。今の僕をして手を抜くって……? ふざけるのも大概にしろよ!」
豪! という響きと共に正時は激高し、瞬時に明里の目の前に到達する。全身全霊を込めたこぶしが明里を目がけて放たれる。
「怖いねえ、少年」
しかし、その拳は威力を失い、返しの明里の一撃を受けた正時は背中から倒れ込む。
「うっ……。……なぜ……」
「確かにパワーだけなら超人級だわね、今のあんた。でもあたしにとっては力なんて何の意味も成さないわ。ただ殴り飛ばすだけが戦いじゃあない。あんたってけんかとかまともにしたことないんでしょ。そんなやつじゃあ一生かかってもあたしは倒せないわよ」
正時は恐怖していた。この尾崎明里という目の前で立ちふさがる強者に。
「尾崎明里流『柔よく全を制す(オール・リ・オール)』ってね。あたしが持つ『自己流特技』なんだけれど、あたしなりの戦い方を模索した結果なのよ」
尾崎明里が自らを鍛え上げて会得した肉体の柔軟さによって開発された戦闘技術である。どんな高威力でもそれが物理的な衝撃を伴うものであればその柔軟さによって威力を殺され、またその柔軟さと持って生まれた高身長によってもたらされるリーチの長さが攻撃力を持って相手を襲う。この特技は尾崎明里の本質を現す特技によってもたらされる副産物的なものではあるが、これにより夢美里学園高等学校の治安を守ってきたと言っても過言ではない。
「さてあと何分持つかな、少年。君もあの薬を飲んで強化されているからあたしの攻撃なんてちっとも効いていなさそうだけれど、それは外見だけだね。あの薬の効力が切れるころには君の体力が失われているだろうね」
「……なんだっていつも、僕はこうしてだれからも認められないんだ」
「贖罪かい? 聞くだけなら聞くけれど、だからと言って君が愚かであることには変わりはないよ。いくら才能がなくとも、努力だけはするべきなのだからね」
鈴木正時は兄の事が嫌いだった。自分にはないすべてを持っている兄が。兄の芸術の腕にあこがれて始めた美術も、結局は兄と比べられるだけだった。兄が病で死んでもそれは変わらなかった。何をやっても兄と比べられ、凡人の自分は特技開発カリキュラムを受講していたって『自己流特技』の開発はおろか、芸術の腕も伸び悩んだ。
才能なんてくだらない。正時が瀬川奈々実から聞いた言葉だった。それを聞いてから正時は彼女に恋をした。彼女に恋をし、彼女をモチーフとした兄でも書けない作品を描こうと心に決めた。
しかし三年になってから瀬川奈々実はよく、知らない男子生徒と一緒に居ることが多くなった。それだけではなく、クラス内でも友だちができたようで、昼休みはいつもグループになって弁当をつまんでいる姿が確認できた。
嫌だ。
正時は心の中でそう呟いた。
才能なんてくだらない。その言葉を聞いてからは再び芸術の腕を磨く決意もできたし、いずれ瀬川奈々実に真っ向からモデルになってくれるよう申し込むつもりだった。
でも、今の瀬川は自分が知っていたころの瀬川ではない。
孤独に美しかった瀬川では。
だから独占しようと思った。孤独なまま独占してその美しさを自分だけのものにしようと思った。けれど自分のような非力な人間がそんなことできるわけがない。そんな時手に入ったのがあの薬だった。
飲めばまるでタガが外れたように開放的な気分になり、自分のモノとは思えないほどの力を引き出せた。これを使えば瀬川の周りにいる人間も、自分を馬鹿にしてくる才能の権化たちも蹴散らすことができる。
これさえあれば、自分は何にでも勝てる。
努力などしなくても、瀬川を独占できるだけの力が。
「そうやってお前らは僕の気持ちを踏みにじるんだ……非力で凡庸な僕の力をね」
「不幸自慢ならよそでやりなさいよ。あたしはそんなつまらない言葉を聞きに来たわけでも、努力することを怠けて良い訳しか言えない小僧を叱りに来たわけでもない。だいたい、最初から強い人間なんているわけがないだろう」
「あんたはどうなんだよ」
「あたしは努力しているさ。あたしは努力して、自分の特技を見いだせた」
「そんなせりふは結局、努力して成功しているやつだけが言えるのさ。僕みたいな努力しても報われない人間が吐けるせりふじゃあない」
「それは違うよ鈴木くん。それは単に努力が足りないだけだ。弟の僕から言わせてもらえば、姉さんは誰よりも努力をして生きている。それが姉さんの本来の特技、いや特性だ。姉さんも、いまでこそいろいろなことができるけれど、昔は泣き虫だったし喧嘩も弱かったし運動音痴だったし頭もよくなかった。けれど今の姉さんがあるのは努力の結果だ」
尾崎明里の本質は努力することである。元々明里はすべてに対して結果を出すと平均以下の能力しか持っていなかった。それでも落ち込まず、自分より優れている人間を見ると必ずライバル意識を持ち、その人に勝てるようになるまで努力した。
「尾崎明里流『超特急努力』。姉さんの本質であり、姉さんの強さの秘密さ」
「その『超特急努力』にしたって結局は才能の産物じゃあないか。僕のような凡人は努力する才能もない」
「努力に才能なんて必要ないでしょうに。あたしの『超特急努力』は一応『自己流特技』と銘打ってはいるけれど、なにかするでもない、名前だけの特技よ。技とは到底呼べるものではないわ」
『自己流特技』にはいくつかのカテゴリーがある。明里の『超特急努力』は本質系特技と呼ばれ、その人の本質そのものを表す特技である。ただし本質を表すのみで特に何かに使えるわけではない場合も多いため、特技としてしまってよいのかどうかは議論の余地がある。『柔よく全を制す』は技術系特技と俗に言われている。
「最初はあたしだってなにもできないお子ちゃまだったわよ。けれど、あんたみたいに薬で体を強化して、努力することをやめた人間じゃあなかったとだけ言っておこうかしら。それがあんたとあたしの決定的な違いよ」
「そんなの……」
「悔しいなら努力して、あたしの上をいく芸術家にでもなってみせたら? 言っておくけれどあたしに芸術のセンスはないわよ。興味もなかったし、あたしの性には合わなかったから途中で止めたしね。だから芸術においてはあんたならあたしに勝てるかもしれない。あたしを基準にするのもよくはないけれど、とりあえずの目標を持っておくのもいいかもしれないわよ」
正時にはすでに明里と戦う気力も気概も失せていた。
「それでもというならこうしましょう。きみは蒔良を目標にしなさい。想い人をモノにしたいのなら、正々堂々戦ってその子の隣に居られるようがんばりなさい」
「それができたら……苦労はしないんだ」
「あたりまえじゃない。誰もそんなことできっこない。できないことをできるようにするのが努力ってもんでしょう。努力が報われたとき、きみはできないことができるようになったと胸を張って誇らしく、好きな人の隣に堂々と居座ることができるってもんよ」
正時は明里の言葉に耳を傾け、自分がどれだけ考えなしに動いていたのかを自覚した。確かに、瀬川の隣に蒔良という男子生徒がいたからと言って、それだけで蒔良に嫉妬をするなど……自分で負けを宣言していたようなものだ。
自分自身を貶めていたのは他でもない自分自身。
「欲しいものは自分で勝ち取りなさい。いいわね?」
「偉そうに……でもまあ分かった。僕は僕の為に、尾崎くんに挑み続けるよ」
「ということだから弟くん。きみもそこの女の子をとられないように頑張ってね」
「姉さんはいつだって勝手だよ。僕としては瀬川の保護者のつもりは全くないのだけれど。しかし鈴木くん。君みたいな危ない思考の持ち主に瀬川を渡すのはごめんかな。僕は瀬川のために、これからも君と戦っていくよ」
この時点で蒔良が瀬川に抱いている想いを蒔良自身は気付かない。それに気付いた時、蒔良はまた一歩成長を見せることになるのだろうが、それはもう少し先の出来事となりそうだ。
「さて一件落着かな、姉さん。今回はその、巻き込んで悪かったし、助けてもらって悪かったよ」
蒔良は胸をなでおろして明里に礼を述べる。だが明里はその言葉を受け取らず、
「まだ終わってないよ、弟くん。あたしはあんたに巻き込まれたとは微塵も思わないし、今回の件はあんたのことがなくともあたしは正時少年と戦う羽目になっていたのよ」
明里は構えこそ解いているものの、周囲を警戒している状態を保っていた。
「姉さん?」
「ぐ……うわああああああ!」
「鈴木くん?」
突如正時が苦しみ出す。体を両腕で抱え込むようにしてその場にうずくまり、そして悶えた。
「始まったわね。薬の副作用よ」
「副作用……? 鈴木くんが最初に飲んだあの薬……が?」
正時はひとしきり苦しんだのち、電池が切れたブリキの如く動かなくなった。
「気を失ったようだな。しかし明里さん。やはりというかなんというか」
「そうね」
蒔良には理解できないところで話が進んでいる。響には、正時がこうなることが分かっていたようだ。
「どういうことなんだよ姉さん」
「……それは彼女の口から説明してもらいましょう。出てきなさい!」
明里は教室の出口に向かって声をかける。くつくつと笑いながら教室に入ってきたのは男性用のスーツを着て、眼鏡をかけた女性だった。
「元気かい青少年共。久しぶりだな、尾崎明里」
「黒槌吟醸。やはりこの少年にあの薬を渡していたのね」
黒槌吟醸と呼ばれた彼女は不敵な笑みを絶やさず、そして答える。
「ああそうさ。私が開発している覚醒剤『吟醸豆』のプロトタイプのひとつさ。効果はまあ見ての通りだが、常識では考えられない超人的な力を無理やり引き出すことができる。具体的には人間の脳が無意識にかけている人体へのリミッターを外すことによってそれを可能にしている」
「どうして正時くんに……」
「お坊ちゃま、ね。私が最近お世話させてもらっていたご主人なのだよ正時はね。正時は生まれつき体が弱く、両親が残した莫大な遺産を使って家政婦を雇っているのでね。私も一時的な隠れ蓑にさせてもらっていた。故に、正時には『吟醸豆』をいとも簡単に渡すことができたのさ。何の疑いも持たずにほいそれと飲んで力を得たときは歓喜していたぞ」
この外道が。
明里は心の中で吟醸をそう罵倒した。
「姉さん、この人は一体……」
「こいつは黒槌吟醸。夢美里の至る所で違法薬物をばら撒いている麻薬の密売人よ」
「密売とは聞き捨てならないがねえ。私は夢美里でお困りの青少年たちが元気いっぱいになれる薬を無料で配布しているのさ。これは善意だよ」
「何が善意なものか。それを飲んで身を滅ぼした連中がどれだけいると思っているの」
「さてね。私は興味がある事柄にしか興味を持たない主義でねえ。期待した結果が得られず破たんした連中などに興味など抱くものか」
蒔良は黒槌吟醸の瞳の奥に巨大な闇を見た気がした。あんなのに睨まれたらひとたまりもない。蛇ににらまれたカエルの如く動けなくなるのだろう。
「しかし安心したまえ。正時に対するアフターケアは約束してある。既に私の後に正時の家で働く家政婦は確保してあるし、正時の主治医にはもう連絡済みだ。もうすぐ救急車が到着するだろう」
「潔いわね。あんたはどうするつもりなの?」
「無論、逃げるさ。私がお前たちと戦って勝てるわけはないだろう」
「逃がさないぞ、吟醸」
響はあらかじめ、吟醸の背後にまわり廊下側の出口をふさぐ。正面には明里、背後には響。夢美里学園高等学校の治安を守ってきた二人の英雄が揃っていてもなお、吟醸は笑っていた。
「何がおかしい。既に宮さんにも連絡はしてある。逃げ場はない」
「あの優秀な刑事か。たしかに厄介ではあるがさて、今まで私がどうして捕まらないのか疑問に思わないわけはないだろう」
知っている。この女の最大の強さはその逃げ足の速さにある。だから明里、響という強者二人は全く油断をしていない。
「『自己流特技』というのは何も学生だけの専売特許じゃあない。……黒槌吟醸流『悪あがき(エスケープ)』」
団! と床を思い切り踏み、その衝撃で床が抜ける。それも黒槌吟醸がいた場所だけが。偶然そこだけ脆かったのか、意図してそこに居たのかは分からないが、大人一人分の穴を追っていけるはずもなく、明里は窓から外に飛び出した。
だがどこにも吟醸の姿はない。たった一瞬のうちに姿すらくらます。どんな状況でも絶対に逃げ切ることが可能な技術系特技『悪あがき』。逃げることただそれのみを追求した黒槌吟醸の『自己流特技』である。それでも明里は吟醸を追うために旧校舎を離れていった。
「やはり逃げられたな。蒔良くん、大丈夫か」
吟醸も明里もいなくなった教室で響は蒔良の身を案じる。
「……訳が分からないけれど、一応無事ともいえる。体中痛いけれどね。……瀬川は?」
「ただ眠っているだけの様だ、心配ない。きみは正時くんと共に病院に行くと良い。正時くんの主治医は腕の立つ医者だからな」
「そいつはありがたい」
この調子ではしばらく入院だろうなあ、と蒔良は不安になる。肩の脱臼はすぐにでも治せるとは言え、胴の方はダメージが大きい。一週間くらいは見積もっておかなくては。
「で、あの吟醸というのは一体」
「それはあとで説明してやる。今は体を休めることに専念したまえ。君にはぜひ、来月の『特技合わせ』に参加してもらいたいからな、本気で休め。奈々実くんにはあとで病院に見舞ってもらうよう言っておく」
「そう。それはありがたいね。じゃあ少しだけ休ませてもらうよ」
蒔良は痛みに耐えながら目を閉じた。全くめまぐるしい一日だった。
お先真っ暗だ。
蒔良はそんなことを考えながら眠りに落ちた。