003
結論を言ってしまえばたやすくよくある展開ではあるのだがどうだろう。恋人がさらわれ、監禁されているという展開には好みが分かれるところではあろうが、現時点で尾崎蒔良と瀬川奈々実にもたらされた状況というのはそういう状況であると、言葉にしてみれば確かにたやすい。それでいてシンプルで分かりやすく、故にそんな状況をいとも簡単に作り上げた彼の動機もまた単純明快にして簡潔。
尾崎蒔良に嫉妬したからである。
尾崎蒔良に嫉妬したから、尾崎蒔良に想い人をとられぬよう拉致と監禁を施したと。
安いドラマである。
そんな状況に陥ってしまったことの経緯をあえて語るのも悪くはない。時を遡ることおよそ七時間前。蒔良が学校に登校し、いつになっても瀬川が姿を現さないので不審に思っていたが、瀬川が無断で学校を欠席するのはいつもの事なのだという結論に至り深くは考えなかった。それが仇をなし、放課後になって美術室を訪れた菊池綾子が見つけた彼の痕跡を蒔良に伝えるまで事態を把握できなかったのである。
結果。瀬川奈々実は拉致監禁され、尾崎蒔良は現在もろもろの経緯と事情により、彼が瀬川を監禁していると思われる旧校舎に訪れていた。
「ここに瀬川が……」
「油断をするなよ、蒔良くん。彼は今、通常ならば考えられないほどの異常な力を得ている。それがどのようなものなのか、おれには判断できないが……」
蒔良と共に旧校舎に足を踏み入れるは、もろもろの経緯と事情により蒔良と共に瀬川奪還作戦に参加することとなった夢美里学園高等学校生徒会会長、立川響である。夢美里学園高等学校においては瀬川奈々実をはじめとした、様々な理由で名を知らしめている生徒たちとは比べ物にならないほどに彼は絶対的な存在である。それは彼が習得している『自己流特技』に由来するのだが、今はその話は置いておこう。
菊池綾子は美術室においてきた。今の彼に菊池は会わせられない、危険だと尾崎と響が判断したためだ。
「随分と古い校舎だな。ところどころ床も壁も塗装が剥げてしまっている。これでは慎重に進んだところで相手には丸聞こえだろうな」
「そうだね。そうなった彼がどんなことをするのかは分からないけれど」
「瀬川本人を傷つけることは恐らくないだろう。これは心理的なもので確証などないが、彼は今自分が持つ力に溺れている。いや、自分が与えられた偽りの力に酔いしれている。その力でおれや蒔良くんをことごとく蹴散らすことを考えているのだろう。今の自分ならばそれができるとうぬぼれているのだろう」
響は自分に絶対的な自信を持っている。それが彼の本質でもあり、そしてそれが彼を生徒会長足らしめるゆえんであるのだが、彼自身にその自覚はない。
「このおれを本気で倒せるとでも思っているのか? いや、あるいは今の彼ならば可能なのかもしれないが。おれを倒したところで彼は負けているよ。他でもない自分自身に」
「それにしても大胆なことをするもんだね。瀬川を拉致し、僕たちを挑発してまでこんなところに誘い出してまで」
僕を倒したいのか。と、尾崎は思う。
思いながら結論を見いだす。
ああ――下らない。
「響くん。彼の相手は僕がするよ。本当は二人で、いや、響くんなら一人でも彼を倒すことができるだろう。けれどそれではだめな気がするよ。本来響くんはこの場に居ないはずなんだ。彼は僕にこだわっている。ライバルとしての僕にね。だから僕が彼の暴走を止めてやろう。なにより、瀬川の気持ちを考えずにこんな真似をしでかした彼を、たった数週間だけだけれど瀬川と一緒に居た僕が許せるはずがないんだ」
響にとってそれは至極当然のことと思えた。蒔良が何も言わなくとも響は手を出すつもりは始めからないし、例え蒔良が彼に一方的に痛めつけられる展開になろうとも傍観を決めつけている。その姿勢を非情と言ってしまえばそれまでだが、響にしてみれば大切な人間の一人や二人守って見せろということでもある。
それに。
響にはどうしても蒔良が本気を出せるとは思ってはいなかった。それは蒔良自身も自覚している。本気さえ出せれば、確かに響の力など借りる必要がない。偽りの力を得ている彼のことをいとも簡単にねじ伏せられるだろうが、蒔良は本気を出すことをためらっている。
本気を出したくないと思っている。
できるならば瀬川に自分の本気を見せたくないと思っている。
四年前、大切な友人にたった一度だけ見せた本気を瀬川には見せたくないと思っている。
「できるのか……僕に」
つい口に出てしまった呟きを、響は聞き逃さなかった。
旧校舎二階の大会議室。通常の教室二つ分ほどの広さを持つ部屋で彼は二人を待ち受けていた。机を二つ並べてこしらえられた簡易ベッドに瀬川が寝かされている。
「鈴木くん」
「よく来たねえ尾崎くん。わざわざ僕に殺されに来てくれたのかなあ」
立ちはだかりし美術部部長、鈴木正時。痩身蒼白で体力がなく、学校前の坂道さえ満足に上ることができないほどの非力な生徒が、女子とはいえ一人の人間を抱えて美術室の窓から飛び降り去っていくのを見たときは驚いたものだった。その時は挑発に現れただけだったのだが、その身のこなしは異常をして異質であった。
「おや、生徒会長様もお越しでございますか。この案件はやはり、学校の治安を乱す行為とみなされてしまったのでしょうか」
「治安を乱す行為か。確かにその通りだがな、正時くん。おれはただの見届け役としてここにいるだけだ、気に咎めるな」
「見届け役?」
「愉快な話ではないか、二人の男が一人の女を奪い合う様というのは。しかし安っぽいが、安っぽいドラマというのは実はおれ好みで退屈しない話ではある。そこをして、ただの通行人Aであるところのこのおれが手を出すというのは王道ではないだろう」
だからおれは単なる視聴者さ、と、響は結んで口を閉じる。その挑発めいた言動に正時は多少なりとも頭に血がのぼる感覚を覚えたものだが、すぐに冷静になった。
響の言動には意味はない。響がどれだけ意味のありそうなことを口走っていたとしても、それが真に意味を成したことはない。どれだけ温厚なことを話していても次の瞬間には相手を微塵に切り裂く刃になりかねないし、どれだけ恐慌なことを話していてもそれが相手を傷つける結果には必ずしもならないことを正時は理解していた。
さわらぬ神にたたりなし。
自分の標的はやはり蒔良なのだから、響が大人しくしている間はそっちに集中しておけばいい。
「瀬川を返してもらおうか、鈴木くん」
「返す、か。もとより瀬川さんは君のモノではないのだろう? 僕は瀬川さんを君から解放してあげたんだよ。君という存在が、実は瀬川さんにとってどれだけ苦痛だったのか君は知らないだろう」
「何を言っているんだ」
「瀬川さんが抱える悪癖の事だよ尾崎くん」
自傷行為。新学期になってから瀬川のそれに回数の減少が見受けられた。蒔良が瀬川に初めて声をかけた時、彼女は蒔良の目の前で自傷行為をし損じた。蒔良が彼女が携帯しているカッターナイフをとりあげその行為を中断させたからなのだが(ちなみにカッターナイフは新しいものを翌日から持ってきていた)、それ以来瀬川は蒔良の前で自傷行為をすることは無くなった。それが瀬川にとってはいいことだと、蒔良は思っていた。
「だけどねえ。彼女が自傷行為をするというのは日々溜まるストレスを解消するためというのは知っているだろう。それができないというのはどれだけストレスをため込むか、君は考えたことがないのかい」
「…………」
「発散したいストレスが発散されない、発散できないというのはどれだけ苦痛なことなのだろうね。君は瀬川さんの事を助けていたつもりになっていたのかもしれないがそうじゃない。君は瀬川さんにとって邪魔者以外の何者でもなかったのだよ」
「そうだったのか……?」
蒔良は思い返していた。瀬川と過ごしたこの数週間を。瀬川と一緒に過ごし、瀬川が自身に見せてくれた悪魔的な微笑を。この数週間、彼女は蒔良にあらゆるいたずらしてきたが、それが自傷行為に代わるストレス発散だったのだろうか。
……いや違う。
瀬川は純粋な心で楽しんでいた。ストレスを解消させるためではなく友だちとして、あるいはそれ以上の存在として蒔良と一緒に遊ぶことを楽しんでいたのだ。
「僕にはそれが分かる。たったの数週間だ。たったの数週間だけだけれど、瀬川がどれだけ楽しんできたのかが僕にはわかる。もちろん絶対そうだなんて言えないけれど、僕はそう思い込むことにした」
「思い込む? それが瀬川さんを苦しめる結果になろうともかい?」
「ならないさ。なぜなら僕は、これから先も瀬川に苦しませない生き方をさせると今ここで誓ったのだから」
「君になにができると言うんだ。二年間孤独に生きてきた彼女のために、たった数週間過ごしただけの君が」
「さあね。先の事は僕にはわからない。ただ一つ言えることはね、鈴木くん」
蒔良は正時に対して構えをとる。
「それだけ考えられる君が瀬川に対して何もしてやれなかったのなら鈴木くん、君に瀬川は渡せない」
言葉などもう必要ない。正時から瀬川を取り戻すことだけを蒔良は考えた。
「ふん。いいだろう尾崎くん。君がその気ならどっちがより瀬川さんにふさわしい人間なのか決着をつけようじゃあないか」
正時はポケットから一粒の錠剤を取り出した。茶色い球体で構成されたそれは、蒔良がこれまでに見たことのない種類の薬に思えた。正時はそれを口に含み、そして飲み込んだ。
「そんなものを飲んでいる暇があるならちゃんと構えた方がいいよ、鈴木くん」
尾崎は先手必勝、とばかりに踏み込み、真正面からの右ストレートを繰り出す。一見愚直に見えるこの攻撃はしかし、相手の力量を図るのには適した攻撃だ。
相手が格下ならこのストレート一発が決まって終わりだ。相手が同格かそれ以上ならいとも簡単に防いで反撃に転じることができるだろう。そのカウンターを避けられるだけの態勢をあらかじめしてある。
尾崎の戦闘能力は決して高くはないが、それでも常識はずれの姉と、けんか好きの悪友に鍛えられてそれなりに戦える自信はある。特に普段の鈴木正時ならば右手一本だけでも圧勝できる自信はあるし、落ちこぼれた不良程度なら数人でも相手できるだけの力量もある。
だから油断していた。いくら偽りの力を得ている正時が相手でも、右ストレートに対する反撃くらい簡単に防げるだろうと高をくくっていた。
今の鈴木正時は異常な力の持ち主であるということを忘れていた。
「っが!」
結果として右ストレートは決まった。避けられると思っていた右ストレートが決まったという信じられない現実と、決まったにもかかわらず平然としている正時が目の前で不敵な笑みを浮かべているという信じられない現実が重なり反応が鈍った。そもそも蒔良が敷いていたカウンター対策は、相手が自分の右ストレートを避けることを前提とした対策だ。それが予想外の展開に崩され、正時が軽く振り下ろした右腕が蒔良の左肩に直撃した。
肩が外れる嫌な音が聞こえた。激しい痛みを蒔良が襲う。肩を抱えてうずくまる蒔良を、正時は腕を回し笑みを浮かべながら見下ろしている。
「おやおや。まずはあいさつ代わりにと思ったんだけどなあ。君の体ってそんなにもろかったんだね。僕のような非力な人間の一発でそこまでダメージが出るわけはないだろう。どうせ本当は痛くなんてないんだろう。さあ、立って、本気を見せてよ尾崎くん」
そう。軽く振り下ろしただけ。今の鈴木正時はそれだけで人間の肩を脱臼させることが可能なのである。鈴木正時が服用した薬によって。
「蒔良くん。本気を出したまえよ。今の一撃で、もうなりふり構ってはいられないのだと理解しただろう?」
黙っているつもりだったが響は蒔良に声をかける。
「……それができたらいくらか楽なんだけれどね」
「尾崎くん。君は今の僕に対して手を抜いているというのかい。そんなのってないよねえ、屈辱だよ尾崎くん!」
正時が右足で蒔良を蹴りあげる。今度は軽くなどではなく、ちゃんと力を込めた一撃だ。脱臼の痛みでまともな反応ができなかった蒔良はそれを防ぐことができず、まとも喰らってしまった。
「がぁ!」
激痛。
体の中心がえぐられるように痛い。
これでは本当に、ただなぶられるだけなぶられてしまう。
「ほら蒔良くん。君にぴったりのモノを拾ってきてあげたよ」
響はそこらに散らばっていた掃除用具から箒を拾い、蒔良に投げ渡す。
「君にとってはそれが最大の武器になるんだろう? そんなチンケなものでも、君が握ればどれだけ強固な武器になるのか、おれは知っているぞ」
「姉さんから聞いたのか……。ま、仕方ない。僕も黙ってやられるだけじゃあないってことを見せてあげるよ」
息も絶え絶えに、蒔良は響が寄越した箒を手にする。
「なんだ、やっぱりまだ立てるんじゃあないか尾崎くん。それで、そんなぼろっちい箒なんかで僕と戦おうって言うのかい?」
蒔良は箒を構え、正時と対峙する。……この感覚、懐かしい。
懐かしいけれど、怖い。恐ろしい。誰かを傷つける為だけのこんな力なんて。
「……ぐふぅっ」
しかと正時を見据えていた筈の蒔良は正時の追撃を防ぐことも避けることもできずにそのまま吹き飛ばされた。
「……? どうしたんだよ尾崎くん。その箒を持てば僕と戦えるんじゃなかったのかい?」
戦えなかった。
蒔良が抱える心的外傷によって、体は少しも反応しなかった。
道具は人を傷つけるためのものじゃあない。そう言い聞かせて中学二年のあの時から封印してきた自分の技術。
やっぱりそう簡単には乗り越えられるものじゃあないよなあ。
蒔良はそう考えながら床に伏していた。今の一撃でもう体は動かない。多分骨が何本か折れている。体中が痛い。こんな状態にまで痛めつけられていたら、たとえ本気を出せたとしても動けない。
瀬川の事を守りたい。けれど、昔の事をいつまでも引きずっている自分がどうして今、彼女の事を守れると思うのか。
それこそ自分の役目じゃない。この場には響もいる。響の絶対的な力で正時をねじ伏せてくれないだろうか。
蒔良の脳裏にはもうあきらめしか残されていなかった。響にはいまだ、自らが手を出そうという考えはない。
「なんだ、もう終わりか。つまらないなあ尾崎くん。僕がこの力を手に入れてから学校中の才能たちをぶちのめしてやろうというのに、君がそこまで手ごたえがないのならお先真っ暗だよ。……生徒会長さん、次は君が僕の相手をしてくれるのかな?」
「いいや。言っただろう。おれは今回の件に関しては傍観を決め込んでいると。おれが相手をしても構わないのだがな、このような安いドラマにはやはりお似合いのヒーローというものを呼びつけてある。お前の相手はその人だよ」
「いやっほう! 呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん! 救世主のご登場だよ皆々様方! 待ちわびたのならごめんね!」
突如、派手に窓を破って乗り込んできた女性は尾崎蒔良の姉、尾崎明里である。ちなみにここは二階であり、外までバイクに乗ってジャンプし、さらにバイクから飛び降りそのままの勢いで突っ込んできたのである。
「……姉さん」
「おや弟くん。なにかもうボロボロじゃないのよ。でも大丈夫、この私が駆けつけたからにはこの戦い、決着よ」
蒔良は、どうして姉がこの場に居るのか、という疑問など最初から浮かばなかった。立川響が呼んだのだろうし、そうでなくとも弟の窮地には必ず駆けつける姉であると蒔良は知っていたからだ。そして、姉の力を借りるということは、もう自分の出る幕は終わっている。自分ができなかったことは姉がしてくれる。
響とは違う意味で絶対的な存在、尾崎明里。
鈴木正時の命運は、もう決まった。