第三話 満月の下で
後頭部から流れるように垂らしてある長い黒髪が、朝日を受けて艶やかに輝いている。
日照雨が歩く度にその髪が波打ち、シャンプーの甘い匂いが漂う。
彼女は今、土手を歩いていた。傍らには彼が居て、指を絡ませて手を繋いでいる。
長身の彼に比べて背の低い彼女は、もちろん歩幅も狭い。けれど彼に置いて行かれることはなく、二人は同じ歩幅で肩を並べていた。
「この街ではな、ある噂話が流行ってるんだ」
落ち着いた低い声で、彼は話し始めた。
「噂話どすか」
「そう。満月の夜に、可愛らしい女の子が――誘拐されてしまうっていう内容なんだけどさ」
「誘拐……」
「あー、誘拐の意味分からないんだったか。えっと――」
ぎゅっ、と日照雨が彼の手を強く握る。
自慢げな不服そうな、感情の混じり合った表情で彼女は言う。
「だまして、人を連れ去ることどすよな」
誘拐という単語の意味として、それは十二分に正しい回答である。
「意味、知らないんじゃなかったか?」
「辞書引いて調べたんどす」
「へえ」
彼は感心した様子で、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「へぅ……」
気の抜けた声が、日照雨の口からこぼれた。
「それでな、雨子にはこの噂話を覚えていて欲しいんだ」
「覚えとればええんどすか?」
少し乱れた髪を手で押さえながら、日照雨は彼を見上げる。
「頼めるかい?」
穏やかな表情で見つめられ、頬を微かに赤らめて頷いた。
「満月の夜に女の子が誘拐されてしまう、でええんどすよな」
「そうだね」
「がんばって覚えときます」
「ありがとう。でもって、実を言うともう一つやってもらいたいことがあるんだ」
彼が緩やかに足を止めた。日照雨は彼の隣に立つ。
「雨子には今日一日、ここで過ごしてもらいたい」
そう言って彼は、土手を下った先を指した。
サッカーや野球のできそうな、黄土色の地面が剥き出しになった広々とした空間。錆びついたサッカーゴールが二台と青々と葉を茂らせる一本の大樹、その木陰に設置されたベンチ、申し訳程度に作られたお手洗いと水飲み場くらいしかない。
この場所を端的に表現するとすれば――
「広場、どすか?」
「広場だね」
「ここで、旦那さまとのんびり過ごすんどすか?」
「ああいや、俺は一緒じゃないんだ」
「えっ」
日照雨の表情が、不安げに翳る。
「今夜、ここに妖怪を――退治すべき妖怪を呼び出そうと考えているんだ。そのための、仕掛けをしないといけなくてね」
「だ、旦那さまについて行くんは駄目なんどすか?」
「ごめんな。仕掛けのためには、雨子がここに居ることが必要なんだ」
「そう、どすか」
そう言われてしまっては、無下にできない。
そもそも、彼の仕事のお手伝いをするためについてきたのに、彼の邪魔をしてしまっては本末転倒だ。
けれど、一人というのは……。
日照雨は押し黙る。自分の想いを優先したい衝動を振り払うように、小さく、かぶりを振った。
潤んだ瞳で彼を見つめる。
「旦那さまは、会いに来てくれはりますか?」
「飯時にはちょろっと顔を出すよ」
「……わかりました」
頷く。
「旦那さまのお役に立てるんやったら、さびしいけど、うちこの広場で過ごしとります」
「ありがとう。そんじゃ、これをあげよう」
彼は手を解き、おもむろに懐から何かを取り出した。
そしてそれを、日照雨の首に提げる。
鮮やかな藍色の長方形をしたそれは、袋のようになっているのか上部を紐で絞ってある。そして、金糸で「家内安全」と刺繍してあった。
「お守りどすか?」
「俺がそばにいない間、妖怪に襲われたら大変だからね。護符――みたいなもんだよ」
「おお、この子が妖怪から守ってくれはるんやね」
手に取る。彼のぬくもりが残っているのか、少し温かい。
「強度はあまりないから、一回程度しか防げないだろうけど。でも、それだけの時間が稼げれば駆けつけられる」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それじゃ、木陰のベンチにでも座ってのんびり過ごしててくれ。昼過ぎくらいに、飯買って持ってくるから」
「はい、旦那さま」
彼は彼女の頭を今一度くしゃくしゃ撫でると、背を向けて歩きだした。
乱れた髪を嬉しそうに手櫛で直しながら、日照雨は遠ざかる彼の後姿を見送る。
彼の姿が見えなくなって、ようやく動き出した。
近くの階段を探し、土手を下りる。
今日一日過ごすことになった広場の土を、その小さな足で踏んだ。
うつらうつらと、ベンチに座ったまま日照雨は舟を漕いでいた。
木漏れ日が心地よく、風に揺れる葉の音が心に平穏をもたらしてくれる。弛緩し切った表情で、だらり、口の端から涎が垂れている。
土を踏む音が近づいてきた。その気配で、日照雨は薄らと目を開く。
「旦那さま……?」
そう呟いて、かぶりを振った。
少し前に彼と昼食を食べたばかりだ。夕食の時間にまた来ると言っていたが、それにはまだ早い。
では、誰だろうか。
口元を手の甲で拭いながら、顔を上げる。
「こんにちは」
深い赤色の髪を無造作に伸ばした女性。見覚えのあるその顔を、ジッと見つめる。
頭の中が段々と明瞭になってきて、思い出した。
「……アカサカはん?」
「うん。名前覚えててくれたか」
昨日訪れた玩具屋――「おもちゃのヤマト」で出会った店員。店内を案内してくれた、あの女性店員だ。
今日はエプロンをしていない。昨日と変わらず派手さの無い、むしろ地味な服装をしている。
「こんにちはどす」
「こんにちは、日照雨ちゃん」
「どないされたんどすか? こないなとこに」
「今日は非番なんだよね。でもって散歩してたら、可愛い女の子がいたから来てみたんだ」
日照雨は周囲を見回す。
日曜日の昼過ぎという時間帯で、子どもの遊び場になっていてよさそうな広場は――閑散としている。
彼女とアカサカを除けば、誰の姿も見えない。
「いやいや、可愛い女の子っていうのは日照雨ちゃんのことで……って、なんか恥ずかしくなってくるからいいや」
「んい?」
「お隣、座ってもいい?」
「構いまへんけど」
「じゃあ遠慮なく」
日照雨は少し左に移動して、アカサカの座る場所を空ける。
そこに、アカサカは腰を下ろした。
「日照雨ちゃんこそ、どうしてこんなとこに?」
「どうしてなんやろな」
「うん?」
「旦那さまが、今日一日はこの広場で過ごしいて仰ったんどす」
「へえ。理由は訊いてみたの?」
「今夜のために必要なことやて」
「今夜……ってああ、店長が出した依頼の話かな」
「店長はん――玩具屋はんの店長はんどすか?」
「そそ、うちの店長」
「せやったら、そうどすな」
「じゃあ、日照雨ちゃんの旦那様は依頼達成の為に何か準備してるってとこかな」
「そう仰っとりました」
「案外私の勘も当たるもんだ。でもさ――」
日照雨はチラッとアカサカを窺う。何かを思いついたような表情をしていた。
「もし、今夜じゃなくて――真昼間に現れて日照雨ちゃんを襲うってこともあり得ないわけじゃないよね」
「どゆことどすか?」
「アイツが夜にしか活動しないとは限らないってこと」
「あいつ?」
「あっ、えっと……。依頼で、退治して欲しいって店長が言ってた妖怪のことね。ほら、名前とか分かってないしさ?」
「そゆことどすか。旦那さまが間違うことはないと思いますけど、もしそないなことになっても大丈夫どす」
日照雨は自信満々に告げると、襟元から服の中へ腕を突っ込んだ。まさぐり、取り出す。
「それは、お守り? へえ、こりゃまた手が込んでる」
アカサカの目の色が変わる。
「見ただけで分かるんどすか?」
「そりゃ、これでも外見の二倍以上は生きてるからね。反射に重点を置いた結界術が施されてる――と見た」
「答え求められても、うちは旦那さまに頂いただけやし」
「そりゃそうだ。いやあ、日照雨ちゃんの旦那様は人間のくせに凄いねえ」
「えへへ」
自分のことでもないのに、日照雨は頬に朱を差して照れ笑いを浮かべた。
「これじゃあ策も無しに襲いかかったら、自分の力でもって反撃されちゃうわけだ。あ、でも。もし妖怪じゃなくて不埒な人間がやってきた場合はどうするの?」
「……ふぁ?」
沈黙。
広場は土手から見下ろせることもあって、見晴らしが悪いわけではない。だが、広場自体に人はおらず――土手も人通りは多くない。
「それは、困りますな」
「そっかあ……」
再び沈黙。
日照雨は体を伸ばし、両の脚を投げだして深く息を吐いた。
「せや、アカサカはんも妖怪なんどすよな?」
「話変わっちゃうのっ? ……まあ、そうだけど」
「何の妖怪なんどすか?」
「私が?」
「アカサカはんが」
言いにくそうな表情を浮かべる。
「んー。人間社会に溶け込んでる妖怪ってのは、あんまり自分の正体を明かすもんじゃないんだよ」
「内緒いうことどすか」
「そゆこと。機会があれば、教えてあげる」
「楽しみにしときます」
アカサカは二カッと笑う。日照雨も、控えめに笑い返した。
プルルルルル――
突然、電子音が鳴り響いた。アカサカはポケットから携帯電話を取り出すと、液晶画面を見る。
「うわ、店長からだ。お店で何かあったのかも」
立ち上がる。
「お仕事どすか?」
「今日は休みなのにねえ。それじゃ日照雨ちゃん、また今夜ね」
「あ、はい」
手をヒラヒラと振りながら、アカサカは日照雨に背を向けて歩き出した。携帯電話を耳に当て、何事やら話しだす。
「また一人になってしもうた」
日照雨は足をバタバタと揺らす。内ももに両手を滑らせて、青空を見上げた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
日が暮れてきた。
まばらに通り過ぎていく自動車を眺めながら、彼は肩の力を抜く。
彼は今、日照雨の過ごしている広場から程近い橋梁に居た。依頼対象の出現する気配を感じてから移動を開始して、十分間に合う距離に位置している。
今しがた最後の仕掛けを施し終え、彼自身の準備は整った。
日照雨に対しても、最終的な段取りを夕食のコンビニ弁当を突きながら伝えた。
後は――
携帯電話が着信を告げる。液晶画面には、おもちゃのヤマトと書かれていた。
昨日のことだ。
おもちゃのヤマトの事務室――ダンボールが所狭しと並んでいる――に案内された彼は、パイプ椅子に腰を下ろした。
テーブルの対面に同じく座った店長に、今回の依頼を出すに至った経緯を尋ねた。
一つ話が進めば泣き言を述べ、一つ話が進めばふさぎ込み、思い出すのが億劫になるほどウダウダグダグダと話をされた。
店長の話を一言に纏めると、子どもたちが自由に外で遊べなくなってしまったから。
人間の仕業ではないと分かっていたから、自分たちで対処をしようとも試みたらしい。けれど、元々荒事に長けた妖怪組織ではなく、また対象が神出鬼没で対峙するにも至らなかった。
一通り話を聞いてから、彼は口を開いた。
「今回、貴方が退治して欲しいと依頼された妖怪は――殺人に対する恐怖心から生まれたと俺は考えている。自分たちに危害を及ぼす何者かを恐怖するあまり、自分たちに危害を及ぼす存在を生み出してしまった。とんだ笑い話だ」
「殺人に対する恐怖心から……」
「貴方も知っているだろうが、妖怪は人間の感情の蓄積によってこの世に誕生する。貴方自身も、そうだろう?」
「ええ、まあ。ですが、そのような感情は人間誰しも多少なり抱いているものです。しかも、無意識が大半で――何かきっかけでもない限りは意識することはないのではありませんか」
「そうだな、その通りだ。きっかけはあった」
店長が訝しげな表情を浮かべる。そして、ハッとして彼を見た。
「もしかして、きっかけとは十年前の女児誘拐殺人事件ですか?」
「そう、全国的にも報道され、その残忍さ理不尽さから物議を醸し出した事件だ。もっとも、数ヵ月後には忘れ去られたがな」
「ですが、事件の発生したこの街では忘れられなかった。その際に住民の方々が、居るかもしれない凶悪犯への恐怖心を抱いてしまった、意識してしまったわけですね」
「理解が早いな。勿論、これらは俺の推測でしかない。だが、同様の現象は全国各地で確認されている」
「妖怪による誘拐事件や殺人事件が、全国で起こっているということですか?」
「いや、この手の妖怪はその土地の妖怪組織か――もしくは妖怪退治を専門とする人間によって即座に対処されるのが通例だ。放っておいて得をする者が居ないからな」
「我々が対処し切れなかったばかりに、被害が長引いてしまっているわけですね……」
店長の表情があからさまに暗くなる。
再びグズグズとされても困る。彼は無理矢理にでも話を進めることにした。
「今回の場合は特殊だった。満月の夜にしか出現せず、それ以外のタイミングでは対処することができなかったわけだからな。一方でそいつを恐怖する人間の感情は、継続的な被害によって自動的に膨れ上がっていく」
――依頼に関する背後関係は、以上だ。
では、実際にどのような方法で退治を行うか。短いやり取りの間で感じた店長の性格から、協力を仰ぎやすそうな案を告げる。
「今、店の方に俺の連れてきた少女が居るだろ。彼女を次の被害者として囮に仕立て、襲いかかってきた所を討つ」
「彼女をですか? そんな、囮なんてそんなこと」
「殺させはしない。ただ、彼女の元に奴が出現しなかった場合――新たな被害者が出てしまうことになる」
「協力できることはありますか」
乗ってきた。彼は告げる。
依頼対象の妖怪は、今まで目撃情報は皆無だった。つまり、人目があるところに姿を現すことができないのではないか。
そこで、人目につかない場所を極端に減らすことを目的として、市内の見回りを敢行したい。
その為には、ある程度の人員が必要になる。
「どこに出てくるか分からないのであれば、出てこれない場所を多く作れば良いと。わかりました、皆も動けるよう手配しておきましょう」
通話を切る。
店長から、準備は整ったとの連絡を受けた。
これで、事前に行えることは終わった。後は現れるのを待つだけだ。
茜色の空が蒼くなってきた。月は、雲に隠れてしまっているのかまだ見えない。
この時間帯のことを逢魔時と言う。妖怪やら幽霊やら、妖しい者共と出会いやすい時間と昔の人々は感じたようだ。
「さて」
彼は凝り固まった節々をほぐすために、軽くストレッチをする。
周囲に、何かの蠢く気配が漂っている。
通りを行く自動車がパッタリと止んだ。人の姿もない。本能的に何かを漢字、道を変えたのだろうか。
橋梁で一人、彼は頭を掻く。
「こりゃまた多いな」
おどろおどろしく、妖怪共は嗤う。
大きな蜂の姿をした、小さな子どもの姿をした、巨大な顎を持つ蟻の姿をした、大小様々な異形の妖怪。
その数は悠に百を越えている。この街に住みついていた自我無き妖怪共が、一同に会したとでも言うのだろうか。
――常識的に考えて、あり得んな。
そもそも、意志疎通ができない雑兵共が団体で行動することはない。よく見ると、集った妖怪の額には赤黒い紋様が刻まれていた。
「傀儡か」
依頼対象の妖怪に、このような芸当ができるとは思えない。とすれば――何者かが邪魔をしようとしている。
突然、巨大な文房具の妖怪が頭上から降ってきた。
思考を巡らせながらも、彼はその攻撃をかわす。表面に手を振れ、その身を崩壊させた。
――目的は何だ。
日が沈んでいく。満月の夜は、すぐそこまで迫ってきている。
「足止めか」
とすれば、真の目的は日照雨の身だろうか。それとも、依頼対象の妖怪だろうか。
不意に、おもちゃのヤマトに属する妖怪のことについて尋ねた時のことを思い出した。確か店長は、こう言っていた。
『店を出す、となった当時から共にやってきた者もおりますが、やはり成長していく過程で仲間に加わった者が多いですね。最近ですと、今貴方のお嬢さんを案内している女性でしょうか。確か、三年前くらいだったかな』
そして、夕食の時に日照雨も何か言っていなかったか。
『お昼すぎくらいに、アカサカはんが訪ねて来はったんどす。少しお話したら、帰られましたけど』
三年前と言えば、この街で月に一度の行方不明事件が起き始めた頃だ。
人を殺すことしかできない妖怪の存在を嗅ぎつけ、この街にやって来た? 何のためだ。
日照雨との会話は、彼女から断片を聞いた。何か、嫌な匂いがする。
しかし――
彼の思考を遮るように、数匹の巨大な蜂が同時に針を尻から発射した。彼は咄嗟に横へ跳ぶ。着地点付近に居た妖怪の胴を蹴飛ばし、振り向きざまにもう一体回し蹴りを喰らわせる。
背中を狙って、稲妻のような何かが迫ってくる。彼は後方を見もせず体勢を低くした。稲妻は彼の頭上を過ぎ去り、別の妖怪の体を焦がす。
彼を取り囲む妖怪共は各々が攻撃を行ってくるだけで、連携が取れているとは言えない。
だが――血の滲む頬を手の甲で拭う――四方八方からの攻撃を全て避けることは難しい。対処し切れなかった攻撃が、体に傷を負わせる。
彼は息を大きく吸い、ゆっくりと吐いた。
「ひとまずは、この状況を打破してからか」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
聳える大樹が長い影を地面に落としている。
やがて影は、暮れてきた周囲の空気に紛れ――見えなくなった。
時折吹く風が妖しく葉音を立てる。
一寸先すら見えぬ闇は、しかして、晴れる。雲の陰に隠れていた満月が、静かに顔を覗かせた。
淡い月光に照らされ、華奢な少女の姿が広場の中央に浮かび上がる。
「…………」
胸の前でお守りを両手で握りしめ、口を一文字に結び、不安げに視線を伏せている。
半刻前に彼から言われた通り、日照雨は頭の中で思い浮かべる。
――満月の夜。
月明かりは、星の輝きを喰らい尽す。
今見上げる空はペンキをぶちまけたように藍一色で、そこにぽっかりと、青白い穴が空いていた。
――独り、外を出歩く女の子が。
青白い光は、丸く、大きく、地上を照らす。
自分自身の影が見えた。淡く、輪郭がぼんやりとしていて、今すぐにでも消えてしまいそう。
――突然現れた何者かによって。
手が汗ばんでいるのを感じる。頬を撫でる風が、髪を揺らす風が――湿っている。
影が揺らいだ。
――誘拐される。
でもそれは噂話。真実から目を背けて、けれど、真実を内包した噂話。
誘拐されたのは嘘。見つかっていないから、そう思っているだけで。本当は――
「……あ」
日照雨の口から言葉がこぼれ落ちる。
満月の夜に噂話を聞いて、恐怖して、人の居ない薄暗闇を漂うと、現れる陰。
彼の推察は正しく、計画通りに其れは現れた。
生唾を飲む。
其れは――陰。
成人男性の体躯を象った、陰。
月明かりに照らされた其の身体には幾人もの血が幾重にもぶちまけられ、赤黒く染まっている。
鉄の錆びたような匂いが、辺りに充満していく。
頭と思しき部位には暗闇が張り付いているが、其処から視線を――狂気、殺気のようなものを感じる。
「これが……」
人を――小学生や中学生の少女を襲い、殺す妖怪。
人間の恐怖心から生まれた、人間の噂話から生まれた、ただ殺し殺すことしかできない――妖怪。
陰が距離を詰めてくる。右手に握りしめたナイフが、月明かりに鈍く輝く。
日照雨は焦らず、ジリジリと後ずさる。
ここまでが彼女のお役目。後は彼が、全て事を成してくれるはずだ。
――だが、来ない。
現れたことに気がついていないのか、彼がやって来る気配はない。
唇を噛む。
怖くないと言えば嘘になってしまう。けれど、彼は必ず助けてくれる、守ってくれる。
陰との距離が詰まってきた。
あと一歩近づかれれば、ナイフが届いてしまうやもしれない。
ぬるり、陰の腕が持ち上がる。
そして――
「そうはさせぬ!」
声がした。
彼が来てくれた。そう安堵しかけた日照雨は、違和感を覚える。
今の声は――違う。
女性の声だ。
彼の声ではない。
陰が――その輪郭が、崩れていく。
体から黒い霧のような物を噴き出しながら、熱で雪だるまが溶けてしまうように、形が崩れ、醜く、小さくなっていく。
陰の陰に、なにかが見えた。
赤い、赤黒いマントを羽織った何者かの姿が。
為す術もなく陰は崩れ落ちた。残ったナイフが、重力に導かれて地面に突き刺さる。
陰の体を構成していた霧は渦を巻き、何者かに吸い込まれた。
よく見えなかったその輪郭がはっきりとしてくる。
「はあい日照雨ちゃん、愛しの旦那様ですよー。なんちゃって」
無造作に伸ばした、深い赤色をした髪。二十代前半のその顔立ちには、見覚えがある。
それは昨日初めて出会った女性で。
今日も、お話をした女性で。
名前は――
「アカサカ、はん……」
「昼振りだね。元気してた?」
声の調子が、どこか違う。
彼女はもっと柔和で、心を落ち着かせてくれる優しい声だった。
今はそれどころか、雰囲気も大きく異なっていた。鋭く、冷徹な空気を纏っている。
笑顔を浮かべているが面を被っただけのようで、その内側の感情は伺い知れない。
「コイツは私のだからさ。横取りされたくなかったのよね」
「アカサカはん、の……?」
掠れた声で尋ねる。
「そう、私の。何年も美味しくなるのを待ってたんだよ? それなのにあの店長は全く、何がこのままじゃー、よ。ふざけんなっての」
アカサカはナイフを抜き取る。手の中で弄びながら、嗤う。
「でもま、結果オーライってことなのかな。コイツの出現場所を探る方法の目途が立たなくて、途方に暮れてたわけだし」
ヒュンッ――
血でべっとりと濡れたナイフが風を切る。
日照雨の顔を目がけて投擲された其れは、見えない何かに衝突し――粉々に砕け散った。
同時に、彼女の掌からお守りの感触が消える。
「そういやアンタ、私の姿見えてるんだ? 一応、変化は解いてるんだけどな」
日照雨の心臓が早鐘を打つ。
表情を引きつらせているのが、自分でも分かる。
「普通のガキンチョじゃないとは思ってたから、驚きはしないけど。食糧としては上玉だし、むしろ喜ばしいことか」
アカサカは陰を――依頼対象の妖怪を斃した。
彼が行うはずだったことを、彼女が行った。
計画に変更があった、とは考えられない。それだったら絶対、彼が教えてくれるはずだ。
何が起こっているのか。理解の範疇を越えた事態に、日照雨は息を飲んだ。
「アンタ、私が何の妖怪なのか気にしてたよね。冥土の土産に教えてあげよっか」
マントを翻しながら、アカサカが歩み寄ってきた。
良く見れば――マントの赤色は染料や生地の色ではなくて、あの陰と同じ――
日照雨の視界を何かが覆い隠した。
「赤マント、だろう? 此度の妖怪と同質の――か弱い人間を誘拐し殺すことを生き甲斐とする――妖怪の名だ」
トクン、心臓が大きく鳴る。
混乱してではない。恐怖してでもない。安心して、安堵して、歓喜して、鳴った。
「旦那さまっ」
「済まんな、雨子。少し遅くなった」
優しい声。優しい眼差し。優しい、匂い。
日照雨の中の不安は払拭され、笑顔がこぼれる。ああ、これでもう大丈夫だ。
「構いまへん、旦那さま。うちは、信じとりましたから」
チッ、とアカサカの――赤マントの舌を打つ音が聞こえた。
「あれ、来ちゃったか。余裕かまさずにちゃちゃっと喰らうのが正解だったのかもね」
「やはり貴様だったか」
「ん、何バレちゃってた感じ? やっぱ昼間にソイツ訪ねたの間違いだったかなあ」
「――妖怪喰らいだな」
「はいご名答。アンタが私の用意したゴミ虫共の相手をしてる間に、美味しく頂いちゃいましたとも」
日照雨は、彼の着ている服が所々破けていることに気がついた。傷だらけで、血も滲んでいる。
ここへ来るまでに、何かあったのだろうか。
「旦那さま、お体は大丈夫なんどすか?」
「大丈夫大丈夫。見える所にしか怪我はしていないよ」
「そ、そうどすか」
「イチャコラすんのはそこまで。ったく、身の程を知らない人間風情なら死んで当然ってくらいの量をかどわかした筈なんだけど……」
マントが、バサバサと耳障りな音を立ててはためく。
「ま、いいか。結構弱ってるみたいだし、食後の運動といかせてもらうよ」
腕を交差し、ニヤリと笑う。
「無残に死にやがれ」
腕が――地面から生えてくる。
闇に塗れた巨大な陰が二本。右の腕はナイフを、左の腕は斧を握っていた。
豪速で、二本の腕が振り下ろされる。
日照雨は迫りくる其れらを――呆然と見上げた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
妖怪の中には、同族であるはずの妖怪を喰らうことで妖力を付けようとする輩が居る。その行為を行う者を妖怪喰らいと呼ぶ。
しかし、どの妖怪を喰らっても妖力が得られるわけではない。
妖怪を喰うという行為は、その妖怪そのものを体内に取り込むことである。
自分自身と性質の大きく異なった妖怪を喰らってしまえば、拒絶反応が起こり――自我が崩壊してしまう。
逆に、性質が似通っていればいるほど妖力の親和性が高く、自我を保ったまま容易に妖力を増大させることができる。
今回の場合で言えば、依頼対象は――陰の妖怪は、人間に恐れられ人間を襲うという性質を持っていた。
この手の性質を持つ妖怪は、近年多く存在している。とは言え、最近生まれたばかりの妖怪しかいないわけではない。
情報伝達の手段の乏しかった半世紀前に流行った都市伝説から生まれた妖怪がいる。その名は――赤マント。
オリジナルは赤いマントを羽織った男だったはずだ。もしかしたらこいつは、赤マントを喰らった別種の妖怪なのかもしれない。
そして、依頼対象である陰の妖怪をこの女は喰らった。日常的に妖怪喰らいを行っているのだとすれば、このまま対処するのは面倒くさい。
彼は、日照雨を胸に抱きながら走っていた。
満月の明かりに照らされた広場に幾つもの穴が穿たれ、土煙が舞い上がる。
赤マントの操る二本の腕は攻撃の手を一切緩めず、彼を狙ってくる。しかし彼はその攻撃を的確に避け、次の一手をどう打つべきか考えを巡らせていた。
先程の傷が痛む。良好とは言えないコンディションで、どこまで動けるだろうか。
「あ、あの旦那さま」
「喋ると舌を噛むぞ」
胸に収まる可憐な少女の体は軽く、重さをあまり感じない。抱えて走り回る分には何ら不都合はないが、攻撃に転じるのは難しい。
さあ、どうするか。
「そのお姿、もう限界なんやありまへんか?」
日照雨は言う。
「元の姿に戻られた方が、うちはええと思います」
彼のすぐ傍を、赤マントのナイフが掠める。
攻撃の精度が増してきている。もしくは、逃げる足が遅くなっているのか。どちらにせよ、このまま逃げ切るのは不可能だ。
土煙の向こう側に、赤マントの姿がチラリと見えた。手を組み、何やら唱えている。
彼は後ろへ跳んだ。
赤マントとの距離を空け、日照雨を下ろす。
襲い来る斧の一撃を、防ぐ。体重を乗せて、掌に力を込めて、その刃を横からぶん殴った。
「……そうかもしれんな」
体が軋む。握りしめた拳、その皮膚が裂けて血が噴き出した。
「破ッ!」
遠く、赤マントの叫び声がした。マントが――風もないのに大きくはためく。
赤黒い光が迸り、赤マントと二人を取り囲むように地面を走り抜ける。抉られた大地から、揺らめきながら陰が生えてくる。
陰の壁が、四方を隔てた。
赤マントが腕を振るうと、彼を襲っていた二本の腕が地面に溶け、消える。
「逃げ回るのはかっこ悪いよ、旦那様?」
天上に輝く月光を受けても、壁は暗く、深い闇を落としている。
広さは十分にあるが、敵の術に周囲を囲まれてしまっているわけだ。よい状況とは言えない。
「俺をそう呼ぶな。寒気がする」
「あら、ソイツはそう呼んでるじゃない。あ、もしかしてアレだった? 催眠してそんな感じのことさせてるとか。じゃないと囮なんて馬鹿馬鹿しいことするわけないもんね。ああ、人間ってこっわーい」
「饒舌だな」
彼は一歩、前へ出る。
赤マントの瞳が、鋭く光った。
「男を殺してもなんっにも面白くないけど――死ねよ」
陰の表面に、幾十幾百もの波紋が浮かび上がる。その瞬間、波紋が隆起し、鋭利な棘となって彼に襲いかかった。
避ける暇も空間も与えられず、彼は四方からめった刺しにされる。皮膚が破れ、肉が裂け、骨が穿たれる。
飛び散る鮮血に、赤マントは恍惚とした表情を浮かべた。
「久し振りだと、男でも案外いいかもしんない」
棘は霧となって消え、辛うじて人間の姿を保っている何かが、地面の上に転がった。
赤マントは勝利を自覚した。
自身の術によって無数の雑魚妖怪を操り、彼を葬るために使用した。予想外に彼は生き残ったが、傷を負っていた。
すばしっこく攻撃は当たらなかったが、一撃必殺の術を構築する時間は稼げた。串刺しにしてやって、息の根を止めた。
本調子ならばあるいは、防がれていたかもしれない。だが、そうはならなかった。傷は深く、彼の反応を鈍らせたのだろう。
――とでも、赤マントは考えているのだろうか。
「さってと、あとはアンタだ。その可愛い顔を恐怖に歪ませて、涙でぐしゃぐしゃにしてから殺してあ・げ・る」
赤マントは日照雨を見て、訝しげに眉を顰めた。
悲鳴を上げることすらできないほどに立ちつくしている――わけでもなく、彼女ははんなりと笑顔を浮かべていた。
「壊れた?」
「何がどすか?」
声は震えていない。ますます怪訝そうな表情を浮かべる。
「いや、アンタマジで頭いじくられてたわけ? うっわ、引くわー。目の前でアンタの大好きな旦那様が殺されたんだよ?」
「殺された? どなたがどすか」
「は?」
赤マントはため息をつく。あまりに可笑しい発言に、興が削がれてしまった。
「いいや、もう死んじゃえよ」
腕を構える。影の壁に、再び波紋が生まれた。
「アカサカはん――」
赤マントは彼女の言葉を無視する。構わず、日照雨は続けた。
「旦那さまは死んどられまへんよ」
「はいはい、心の中に生き続けてるってやつだよね。わかるわかる」
壁全体に生じた波紋から、一斉に陰が飛び出した。
先端が尖り、日照雨に襲いかかる。
しかしそれらは――彼女の肌に触れる寸前で止まった。
「それにどすな、アカサカはん」
赤マントは妖力を込める。それでも、棘はピクリとも動かない。ただ妖怪を視認できる程度の少女に可能な芸当ではない。赤マントの表情が引きつるのを――
「旦那様は人間やありまへんよ?」
彼は、確かに見た。
棘に亀裂が入る。黒い霧が噴き出し、音も立てずに瓦解していく。
亀裂は棘を伝って壁にまで遡り、四方を取り囲んでいた陰がひび割れる。闇が裂け、その向こう側が見えた。
崩れる。
赤マントの妖術は破られた。
「雨子、怪我はないか?」
「はい旦那さま」
満月が地上を照らす。
三角に尖った耳、スッと伸びた鼻、ピンと立つ髭。日照雨と同じ紅色の瞳は、妖しく、魅入られるほど美しい。
その体躯を覆う毛が、黄金色の輝きを放ちながら風に揺れている。そして、大きな尻尾が――九本。
赤マントの視線が串刺しにした元人間の転がっていた場所へ移る。そこには人間の死体も、血痕も、何も無かった。
「妖怪、だって? 待て待て待って、妖怪のこの私に、妖怪が化けた人間と普通の人間の違いが分からないわけないっしょ。例え妖怪だとしても、怪我一つ無いってのは――」
「化かし合いで儂を出し抜けると思うておることが、そもそもの間違いじゃよ」
日照雨の眼前に優雅な姿で佇むその獣――九尾の妖怪狐は、前脚で地面を叩いた。
紅い光が迸り、赤マントを中心とした円を地面に描く。抉られた大地から、揺らめきながら陰が生えてくる。
赤マントは慌ててその場から逃げだそうとするが、陰が触手のように絡みつき、動けない。
やがて陰の円柱が赤マントを覆い隠した。そして、絶叫が上がる。
「旦那さま、アカサカはんどうなさったんどすか?」
彼の背中に手を置いて、日照雨は不思議そうに尋ねてくる。
彼女の目には、赤マントが突然その場で慌て出し、何も無い空間でもがき、悲鳴を上げて膝をついた姿が見えていたはずだ。
と言うよりは――そちらの光景の方が正しい。
「さてな。狐に化かされでもしたんじゃろ」
「ふうん」
ギュッと日照雨が首に手を回して抱きついてくる。
「どうかしたか?」
「旦那さまのそのお声、久しぶりやからなんや嬉しゅうて」
確かに、人間の姿であったときに比べて幾段も声は渋く枯れていた。
「そうか」
この街を拠点としていた陰の妖怪は赤マントに喰われてしまったが、その赤マントを退治することで依頼は果たせた。
店長以下見回りを行ってくれた者たちに連絡と報告をしなければならない。そうだ、アカサカのことはどう説明したものだろうか。
いや、それよりもまず最初にすべきことがある。
「日照雨」
彼はゆっくりと彼女の名前を呼んだ。
円らな瞳が、彼を見つめてくる。
「囮役、御苦労じゃった。雨子のお陰で、無事に依頼を終えることができた」
そして、その目はキュッと細くなる。強く、抱きしめられた。
「……はいっ」