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第一話 カレーライスは甘口で

 打ち捨てられた廃屋は、夕日に晒されていた。

 何か出そうといった雰囲気の、今は誰も住んでいない古びた家屋。その崩れた玄関の前に、男性が立っている。

 青年と言うには貫録があり、老獪と言うには纏う雰囲気の柔らかな、長身の男性。

 彼は地面の上に転がった瓦を見下ろし、それから禿げた屋根を見上げた。

「――ここか」

 視線を正面に戻す。

 瓦を跨いで、彼は玄関をくぐった。

 土間には砕けたガラスの破片が散らばっており、上がってすぐの廊下は板が腐り、所々床が抜けている。

「お邪魔するよ」

 一応挨拶をして、彼は土足のまま家に上がった。

 カビ臭く埃っぽい、世辞にも居心地が良いとは言えない空間。

 一歩進む度に盛大に音を鳴らす廊下を、淡々と歩いていく。

「ん?」

 破れた襖の前で、彼は足を止めた。

 人の良さそうな顔から、感情が削げ落ちていく。切れ長の瞳が、妖しく輝いた。

「この部屋、かな」

 呼吸を整え、迷いなく、彼は戸を引いた。

 十畳程の色褪せた畳が敷かれた室内に――異形があった。

 和室の天井を打ち抜き、二階の天井にまで達する巨体。プリンに釘を幾本も出鱈目に刺してできた物に、墨汁をぶちまけて巨大化させたような――そんな気持ちの悪い姿をしている。

 体から無数に生える腕は、若い女性のものや、筋肉質な男性の物、はたまた電信柱のようなものまであり、統一性はない。

 頭――に当たる部分だろう、天井に擦りつけられた部位にはギョロリと大きな瞳が一つあり、濁った瞳が男性を見下ろしていた。

 悲鳴を上げて逃げだしてしまいたくなる――生理的嫌悪感を催す其れを、彼は眉ひとつ動かさずに眺める。

「こんにちは、ご機嫌いかがかな」

 声だけは気さくに話しかける。反応は――返ってこない。

「自我のない妖怪に言葉が通じるわけもないか」

 妖怪。

 其れは、人間の負の感情が混ざり合い溶け合い干渉し合って生まれた――妖怪だった。

「それにしても不運だ。語られるべき物語も、象られるべき感情も、成すべき姿もなく、生まれてしまった」

 ――科学の発展した現代じゃ、仕方のないことだけどね。

 彼は呟き、其れを見上げた。夕焼け空よりも紅い瞳で。

 其れは蠢く。感情の伺い知れない大きな瞳が彼を見下ろす。

 其れが――子どもの泣き叫ぶ声が、女性の悲鳴が、獅子の咆哮が、車のエンジン音が、混ざり合った奇妙な声で――唸った。

 其れは恐らく、彼の瞳から感じとったのだろう。自身に向けられる殺意を。

 自我がなく、考えることのできない其れであっても、防衛本能はある。この世に生まれた以上、生きていたいと願うのが生き物の常。それは人間であれ動物であれ、植物であれ、妖怪であれ変わらない。

 だから、其れの腕の一つが大きくしなる。彼を目がけて、豪速で振り下ろされた。

 人間など一瞬で骨まで砕けてしまう鈍重な一撃。しかし、当たらなければ致命傷は致命傷足り得ない。

 彼は流れるような動作でその攻撃を避けた。空振った腕は襖を打ち抜き、床板を砕き、壁を抉る。

 続けざまに、別の腕が彼の息の根を止めんと襲いかかってくる。しかし――当たらない。

 彼はかすり傷一つ負うことなく、一歩、また一歩と其れに近づいていく。

「名すらない雑兵の妖怪のことを纏めて、何て言ったんだったかな。語られることすらない、ただ迷惑なだけの妖怪を――」

 三方から、逃げる隙間を与えずに腕が襲いかかってくる。

 彼は体の正面で、斜め上から手を振り下ろした。それだけで、人間の図体よりも太い腕が逸らされる。

「邪悪、じゃないな。鬼――は今は物語も姿もあるか。ええと――」

 彼は其れの傍まで辿りついた。弾力のある其れの体に、掌をかざす。

「そんなこと、思い出しても仕方がないか」

 其れの表面が硬くなっていく。干からび、大きな亀裂が入った。あまりにも呆気なく、断末魔を挙げることすらできず――其れは崩れ落ちた。

 パラパラと其れの残骸が宙を舞う。

 肩に振りかかった其れを手で払いながら、彼は踵を返した。瓦礫を踏みつけ、和室を後にする。

 廊下を注意深く歩き、玄関から外へと出た。

 何回か深呼吸をすると、済んだ空気が体の中を駆け巡る。纏わりついていた気持ち悪さが抜けていく。

 落ち着いた風貌の、気優しそうな雰囲気を漂わせる彼は、一度大きく伸びをした。

 ――バイブレーションの振動が着信を告げる。

 胸元から携帯電話を取り出す。通話ボタンを押して、耳に当てた。

「今、依頼が終わったところだよ」

「ええ。こちらでも確認いたしましたわ」

 通話口から聞こえてきたのは、冷たい吐息が聞こえてきそうな、上品な女性の声。

「ご苦労様でした。貴方様のことですから、心配はしていませんでしたけれど」

「そりゃ、この程度ならね」

 彼の言葉尻に含まれた不満を、電話の向こう側の女性は目ざとく感じとる。

「そこの地区――とその隣の地区、ですわね。二つの地区間で小競り合いが起きてますの。互いに大した規模の組織ではありませんけれど――実力が拮抗しているが故に、手を抜くこともできないようで」

「自身の領土のゴミ掃除にも手が回らないと」

「有体に言えば、そうですわね」

 彼は、ため息をつく。

「妖怪同士仲良くとはいかないものかね」

「人間でも不可能なことを、それを真似ている妖怪ができるわけないと思いますけれど」

「真似てる、ね」

 彼は携帯電話を耳に当てたまま、歩き出す。

「確かに、組織を作ってその土地の食糧を占有したり、会社を作って商売をしてみたり、あまつさえ妖怪社会の通貨なんてものもあって」

「人間社会に馴染んでいる組織もありますわね」

「ある程度力のある妖怪なら、人間に化けることは造作でもないからね」

 呼吸を置く。

「それじゃあま、無駄話はこれくらいにして。また何か依頼でも入ったら連絡をしてくれ」

 彼は声を一段明るくして、通話を早々に終わらせようとする。

 しかし、彼の耳に――

「次の依頼なら、既にありますわ」

 予想外の言葉が飛び込んできた。

「へ、もう?」

「ええ、もう」

 思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。足を止め、通話に集中する。

「どうしてまた。――まさか、対抗馬の組織のゴミ掃除までさせようって魂胆じゃ」

「そちらの依頼はお断りしましたわ。対立しているのですから、両方の依頼を――と言うのは得策ではありませんもの」

「……そりゃごもっともで。じゃあ、何の依頼を受けたんだ?」

「前に、報酬に関して揉めていた依頼があったのを覚えておいでです?」

 彼の視線が宙を泳ぐ。記憶の引き出しを開けて、取り出した。

「あれか、覚えているよ」

「交渉の末、先方がこちらの出した条件を呑みましたの」

「流石敏腕」

 彼が茶化すと、満更でもなさそうに女性の声が和らぐ。

「それで、早期解決が好ましい案件ではありますし、直ぐにでも貴方様に動いて頂こうかと」

「なるほどね。了解した」

「ですけれど、問題が一つ」

 申し訳なさそうに、女性の声のトーンが落ちる。

「おびき寄せる餌を――こちらで手配するのは難しそうですわ」

「そりゃ、ね。仕方がないか。……俺の方で、なんとかするよ」

「そうしていただけると助かりますわ。明日にでも依頼に関する詳しい資料を届けさせますから、よろしくお願いしますわね」

「わかった。何から何までありがとうな」

「いえいえ。それでは失礼いたしますわ」

 通話が切られる。彼は携帯電話を胸元に仕舞うと、再び歩き出した。

 日は既に沈み、道端の街灯が道を照らしている。

 ふと――空を見上げた。

 縮れた雲の狭間、煌めく星々に混じって、上弦から数日過ぎた月が静かに佇んていた。


  ◇     ◆     ◇     ◆     ◇     


 座布団の上に、少女はペタンと座っていた。

 華奢な体つきに楚々とした顔立ちの、十歳かそこらの女の子。黒髪は艶があって長く、毛先は畳の上で健やかに寝ている。

 眉の高さで切り揃えられた前髪の下には、小動物のようなクリクリとした紅色の瞳がある。

 彼女の視線の先――約二メートル先の壁際――には、32インチ程の薄型テレビが木目調の簡素な台座の上に置かれていた。

 その長方形の画面の中では、白髪交じりの男性と茶髪に染めた女性が、何やら日本地図の前で話をしている。

「全国的に、今週末まで晴れ模様です」

「次の日曜日は満月ですよね。綺麗なお月様が見れると良いですね」

「そうですね。雲の様子次第ですが、恐らく見えるとは思います」

 少女は画面内の男女のやり取りを聞いて、小さく首を傾げた。

「晴れ模様って、どんな模様なんやろ。晴れ言うくらいやから――空に関係するはずよな」

 試しに、青空を思い浮かべてみた。

 空気は澄んでいて、風は心地よく。白い雲が、静かに流れていく。太陽が、輝いていた。

「丸書いてちょんちょんちょん、のおひさまかな」

 そう予想してみたものの、いまいち納得が行かないのか、眉をひそめる。

 彼女は思案しながら体を傾かせ――そのまま畳の上に転がった。服が捲れ、ほっそりとした太ももが露わになる。

 両腕を伸ばして寝返りを打ち、大の字になる。暇で暇で仕方がないという様子だ。

「……旦那さま、いつ帰ってくるんやろ」

 寂しそうに顔を歪めて、ため息をついた。

 テレビの音だけが、少女の居る和室に響く。伽藍とした室内。テレビの他にはギッシリと詰まった本棚と、年季の入ったちゃぶ台しかない。

 少女は、ムクリと体を起こした。

「何か本でも読もかな」

 ピョコンと立ち上がる。乱れた髪を手櫛で梳きながら、本棚の方へ向かおうとして――立ち止まった。

 勢いよく振り返る。

 そこには開いたままになっている襖があるだけ。その向こう側の部屋はダイニングキッチンで、通り過ぎると玄関に繋がる廊下がある。

 少女は表情を輝かせて駆け出した。廊下に出たところで――

「ただいま」

 低い、男性の声がした。

「おかりなさーいっ」

 喜色に満ち満ちた声を挙げながら、玄関へと辿りつく。

 満面の笑みを浮かべて、土間に立つ――清閑で柔和そうな雰囲気を漂わせる――長身の男性を迎えた。

「お帰りなさい、旦那さま」

「ただいま、日照雨」

 名前を呼ばれて少女は――日照雨は、嬉しそうに目を細めた。

「あっ」

 靴を脱いで上がってくる彼から距離を取るように、数歩後ろに下がる。

 体をクネクネとさせながら、上目遣いに彼を見つめた。

「旦那さま、ご飯にされますか? お風呂にされますか? それとも――」

 精一杯色気を出そうとしているようだが、父親におねだりをしている娘のようにしか見えない。

「た・わ・し?」

「流石に束子を食べたくはないかな」

「お背中を流すのに使うんどす」

「ああ、肌が刺激されて新陳代謝が良くなるとは聞いたことがある……気がする」

「しんちん?」

「代謝」

 ぽんぽんと頭を撫でられる。その大きな手を両手で掴み、自分の頬に寄せた。

「それで、どうなさいますか?」

「そうだな、腹が減ったし先に飯で頼むよ」

「はい、ご飯どすな」

 歩き出した彼に手を解かれる。遠のいていく彼の手を名残惜しそうに見つめながら、日照雨は彼の後ろをついていく。

 廊下を抜けて、ダイニングキッチンに入る。ダイニングテーブルの上にはラップのされたサラダが、コンロの上には底の深い鍋が置かれていた。

「良い匂いだな。……カレー?」

「旦那さまがいつ帰ってくるかわからんかったから、カレーどす」

「別に俺を待たずに食べてても良かったんだぞ」

 その言葉に、日照雨はあからさまに不機嫌そうな表情になる。わざとらしく彼の足を踏んでから、流し台へと向かった。

 横に置いてあった踏み台を移動させて上に立つと、蛇口を捻って手を洗う。

「ええっと……。飯は、一緒の方が美味いよな」

「当たり前どす」

「すまんな。待っててくれてありがとう」

 彼も彼女に倣い、手洗いうがいを済ませた。

 チラチラと、気遣ってくるような視線を感じる。

 日照雨はちょっとだけ得意になって、

「旦那さま」

「ん?」

 乾いた布巾を彼に差し出す。

「手数やけど、ちゃぶ台拭いとってもらえますか?」

 普段はしないお願いなんてものをしてみたりした。

 彼は驚いたように瞬きをして、それから芝居がかった所作で頭を垂らした。

「心得ましたとも」

「ぷふっ」

 それが面白くて、日照雨は思わず噴き出してしまった。

「雨子は笑顔の方がかわいいよ」

 布巾を受け取って、彼が隣の和室へと消えていく。

 残された日照雨は、頬を赤く染めて数歩よろけた。あわあわと視線を泳がせる。不意打ちは、ずるい。

「……気を、とり、なおして」

 深呼吸。

 日照雨は踏み台を片手に、コンロの前へと移動する。鍋の火を点けてから、鍋の蓋を取る。

 おたまで黄土色をしたカレーをかき混ぜると、熱気と共に香辛料の匂いが漂ってきた。

 踏み台から下りて、今度は食器棚の所まで移動する。別の踏み台をセッティングして、底が浅く平べったい皿を二枚取り出した。

 長い黒髪をハラリハラリと揺らしながら、日照雨は夕食の準備を進めていく。迷いなくちょこまかと動いているその姿は、毎日のように食事の支度を担っていることを体現していた。

 日照雨は一人分のカレーとライスを皿に盛ると、両手でしっかりと持ち、隣の和室へと向かう。

 ちゃぶ台を挟むようにして配置された座布団の片方に、彼は胡坐をかいていた。役目を終えた布巾が、ちゃぶ台の端の方に畳まれて置いてある。

「…………」

 彼は手持ちぶさたな様子で、テレビを眺めていた。

 ちゃぶ台に皿を置いて、日照雨もテレビの方を見てみる。

 頭頂部が薄くなってきている男性と、化粧の厚い女性が隣り合っていて、その横には、恰幅の良い派手なご婦人とおじさんおじいさんが座っている。

 何かの話題について討論しているようだったが、いかんせん、日照雨にはよく内容が理解できなかった。

 自分の分のカレーを準備しにキッチンの方へ戻ろうと振り返ると、

「いや怖いね全く」

 彼が話しかけてきた。

「何がどすか?」

 是非ともゆっくり座って話をしたいところだが、夕飯の支度を優先する。なので、歩きながら返事をした。

「ここ十年で、小中学生の女の子を対象にした誘拐事件と殺人事件の発生件数が三倍だとさ」

「それは――怖いことなんどすか?」

 ダイニングテーブルの上に置いていた皿を手に取り、炊飯ジャーの前に向かう。

「んー、何のかかわりもなかった人間に、突然誘拐されたり殺されたりするのは怖いだろ?」

「……そう、なんかな」

 要領の得ない返答をしながら、日照雨はご飯をよそった皿を手に鍋の所まで向かう。

「誘拐と殺人の意味は理解してるか?」

「ゆうかい、てなんかなーって」

「じゃあ誘拐は意識せずに、だ。殺人だけを考えてみれば想像できると思うけど」

 カレーを注ぎながら話を聞く。

「ある日突然、知らない人間に襲われて――殺されてしまう」

 彼は雰囲気を出そうとしたのか、じっくりと溜めてそう言った。

「あー、それは怖いどすな」

 日照雨は、自分の座る座布団の前に皿を置く。

「いきなり殺されるのは困りますな。やっぱり、挨拶してからしてくれへんと」

「そう言う問題ではありません」

「せやけど、挨拶は大事やよ? 本に書いてあったもん」

「その通りだけどね」

 苦笑する彼に見送られて、今度はサラダを取りにキッチンへ戻る。

「でまあ、雨子も狙われやすそうな雰囲気あるし、気をつけろよとね」

「そうなんどすか」

「歩く日本人形みたいだろ、雨子は。持って帰りたいかわいさっていうかさ」

 軽くセクハラじみた発言ではあったが、日照雨は言葉を字面通りに受け取り、意味がわからず首を傾げた。

 サラダのラップを剥がす。

「んー。心配いりまへんよ」

「狙われる心配?」

「どれは、うちにはようわかりまへんけど。もし狙われたとしても、大丈夫いうことどす」

「それまたどうして」

「だってほら、うちが危ない目に遭うたら――旦那さまが助けてくれるやろ?」

「あー、うん。それはね、もちろん守るけどね」

 サラダをちゃぶ台に置いて、彼を見つめる。彼が見つめ返してきた。

「四六時中一緒にいるわけでもないからさ。雨子が一人の時とか、流石に助けるのは難しいだろ?」

「んぅ。助けてくれへんのは困る」

「だろうだろう。だからこう、自衛の策を何か――」

「あ、ええこと思いつきました」

 両手を合わせて、日照雨は満面の笑顔で、

「四六時中、うちと旦那さまが一緒におればええんよ」

 仮定をぶち壊した。

「……そうだね」

 彼は苦笑いを浮かべて、頬を掻いた。

「それよりも、お飲み物は何にされます?」

「麦茶で」

「わかりました」

 とてて、とキッチンに戻る。

 踏み台に乗ってガラスコップを取り出しながら、再度尋ねる。

「麦茶は、つめたいのとひやいのとひゃっこいのがありますけど」

「冷たいの」

「ちべたいのどすな」

 冷蔵庫から麦茶の入ったペットボトルを取り出して、両方のコップに注ぐ。急ぎ足で和室に向かった。

 日照雨が座布団に座ったのを見て、彼はテレビの電源を切る。

「そんじゃ、頂くとするか」

 彼が手を合わすのに倣って、日照雨も両手を合わせる。

「いただきます」

 二人の声が重なる。きちんと合掌をしてから、スプーンを手に取った。

 カレーは、甘口のカレールウを筆頭に、タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、牛肉というオーソドックスなビーフカレー。

 程良い刺激と具材の旨みが相まって、口に含むと思わず頬が緩んでしまう。

 特に凝ったことはしていないとは言え、基本に忠実なカレーライスは、それだけで美味しい。

 数口食べてから、日照雨はふと、彼にこのカレーの感想を聞きたいなと思った。

 手を止めて、上目遣いに彼を見つめてみる。

 穏やかな風貌に似合わず、彼の眼――日照雨と同じ紅色の瞳は、細く鋭い。けれど強気な印象を感じないのは、その瞳にギラギラとした覇気がなく――達観したような雰囲気があるからだろう。

 その彼は今、スプーンを片手に食事を採っている。

 ただ、その視線はどこか遠くを見ているような気がした。

 何か考え事をしているのかな。そう思い、日照雨は味の感想を尋ねるのを止めて、食事を再開する。目線だけは、ジッと彼に注ぎながら。

 数分経っただろうか、彼も流石に彼女の視線に気がつき手を止めた。

「どうかしたか?」

「あ、え、にゃん……なんでもありまへん」

「ん、ああ。カレー、美味しいよ。人参にも良く火が通ってるし、水っぽさもない。サラダの方も彩りが綺麗だし、味はまあ――野菜を見る目が良くなったねってことになるのかな」

「ほんま……どすか?」

「うん、日照雨の愛情がこもってる」

「仰山入れました」

「そりゃ美味しいわけだ」

 褒められたのが嬉しくて、日照雨は目を細めて喜びを噛み締める。

 カレーを一口頬張ると、グンと美味しく感じられた。

「あの、旦那さま?」

「ん?」

「何か、考え事されとったんどすか」

 彼は何か不味いものでも見られたかのように表情を歪めた。

「大したこと――か。次の依頼のことで、ちょっとね」

「もう新しいお仕事があるんどすな」

「珍しいだろう? しかも、急ぎの案件ときた」

「お留守番なら任せて下さい」

 日照雨が自信満々にそう言うと、彼は彼女から目を逸らした。

「うん――」

「旦那さま?」

「あーいやね、実はさ、次の依頼――雨子も連れて行こうかと考えてるんだ」

「うちも?」

 一緒に、行く。仕事に、旦那さまと、一緒に。

 特に依頼のない日は一緒に出かけたりすることも良くある。しかし、依頼に関しては彼一人で出向くことの方が多かった。むしろ、連れて行ってもらったことなど今まで一度もない。

 何が急に彼をそう思わせたのだろうか。彼女なりに思考を巡らせ、夕飯を準備している時の会話を思い出した。

「ずっと一緒におりたい言うんは本当やけど、旦那さまのお邪魔になってしまうから、そのえっと、魔が差さんでも!」

「間に受けなくても」

「そうそれ!」

 ビシッと指を指す。

 その指先を掌で包みながら、彼は言う。

「いや、邪魔とかじゃないんだ。そのなあ――危険な手伝いを、して貰いたくてさ」

「うちにどすか?」

 スポッと彼の掌から指を抜いた。

「そう、雨子に」

「うちが、旦那さまのお役に立てるんどすか?」

「――立てる」

「せやったら、うちは喜んで旦那さまのお手伝いさせてもらいます」

「だからさ、危ないんだって」

「さっきも言うたやないどすか」

 日照雨の純朴な笑顔に、彼は苦笑して頭を掻く。

「そうか、その通りだ」

 深く息を吐いた。

 しばしの沈黙があり――

「ッ!」

 日照雨は思わず背筋を伸ばしてしまった。

 彼の穏やかな瞳に、強い、確固たる意志が宿ったのを、幼いながらも、幼いからこそはっきりと感じる。

 彼女の笑顔は瓦解して、気圧されるように、目を伏せた。

「日照雨」

 名前を呼ばれて、恐る恐る、上目遣いに見つめる。

「曖昧な言い方は止めよう。次の依頼、日照雨には――囮役をしてもらいたいんだ」

「囮、どすか」

「危険な目に、怖い目に遭わせてしまうことになると思う」

「それは――怖いどすな」

 日照雨はゆっくりと伏せた顔を上げ、彼を正面に見据える。

「せやけど、うちが旦那さまのお役に立てるんやったら、怖いんはいくらでも我慢できます。それに――」

 彼がニッと笑う。

「日照雨が危ない時は、危険な時は――俺が助けるんだったよな」

「はい」

「そっか、そうだな。一緒に、来てくれるか?」

「はい、旦那さま」

 彼の瞳に、柔らかな色が戻る。その様子を確認して、日照雨は肩の力を抜いた。

「ああそうだ」

「まだあるんどすかっ!」

 思わずテーブルを叩いて彼を睨みつけてしまった。あまりの迫力に、彼は頬を引きつらせて仰け反る。

「いやいや、依頼の話は終わったよ。カレーのおかわりを貰おうかなどと思って」

 空になった皿を、傾けて見せてくる。

 日照雨は数度瞬きをして――それからにっこりと笑った。

「それやったら、たんまり残っとります」

 彼から皿を受け取ると、日照雨は嬉しそうな足取りでキッチンへと消えていく。

 視界の端で、何も映っていないテレビを――そののっぺりとした暗闇を、彼はジッと見つめていた。

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