八章 幸せ
八章 幸せ
モーター音のしない部屋。水槽が、無いんだ。
そこに、俺は居た。
ベッドの上に寝転がって、ぼんやり天井を眺めている。そして今にも家族で一緒に居られる時間の貴重さを知りながら、あえてトウキョウに出るという決断を下そうとしていた。
俺は段ボール箱から飛び出して、俺の身体に憑依した。
決めた。実家に残ろう!
夕ご飯は、焼き鮭だった。
「まったく、どうなる子なんだか。」
母さんがため息混じりに俺をにらんだ。
「うん、俺どこにも行かない。就職するよ。」
思わぬ答えに、母さんはしばらくぽかんとして、そして怪訝な顔をした。
「どこに?」
「うーん、さあ。そういう機関でさがせるっしょ?いいのあったらそこに勤めるよ。」
「お前はよくても、向こうにだって選ぶ権利があるんだぞ?」
父さんが言うと、なんか、重たい。
「それに、今の時代大学出たって就職難しいんだから。」
「だったらバイトすりゃあいいじゃない。父さんが以前勤めてたところでもいいし。そこらへんのスーパーでもいいしさ。」
「あんたが決めたんならそれでいいけど・・・。ほんとにそれでいいの?」
「うん!」
学校を卒業した後しばらく休んで、早速仕事探しをした。
なんていうんだろう。たとえるなら、ギルドっていうんだろうか。そこに行くと、いろんな仕事を紹介してくれる。そんなゲームみたいな場所が、現実に存在しているんだ。やっぱり、そこは現実で、なんていうか堅苦しい場所なんだけれど。
朝っぱらからすごい人だった。今、この辺では就職がとてつもなく困難で、人口と就職口がつりあっていないらしい。些細なバイトですら人が詰め掛けて、面接で順位を決められ上から何人って採用される。残りは問答無用でさよならバイバイもう来るな、だ。
「そうですね、まだ若いから。採ってもらえる可能性は高いですよ。」
相談口のお姉さんとおばさんの中間くらいの女性がそう言ってくれた。なるほど、俺には若さという武器がある。それでも、あと五年六年もすれば、いまよりもっと確立が下がるのだとか。
そんなこといわれても、危機感無いし。
まさかこんなに早く面接の日取りとか決められるとは思っても居なかった。印刷した紙をその女性に渡すと、そっこう電話かけて日取りを決めてしまった。こちらの心の準備なんて、お構い無しだ!
「どうだった?」
家に帰ると母さんがそう聞いてきた。
「うん、近くのスーパーでバイト募集してたからそこ行こうかなって。フルタイムで入ると、なんか待遇よくしてくれるみたいだし。」
「受かるといいわね!」
「そうだねー。」
このまま一生ここで暮らすんだろうか。母さんと、父さんの面倒を見て。最後は一人?そんなの嫌だ。嫁もらって新しい家庭を作って・・・。けど、俺はずっと働いて働いて働いて・・・。
「幸せって、なんなんだろうな?」
思わずため息を吐いた。
「何にも無いのが一番幸せなんだよ。」
「え、母さん!」
「ユエちゃんがここに居てくれて、お母さん幸せだよ!六十キロ!」
母さんの体重は、残念ながら本当に六十キロ以上ある。それでいて俺よりも身長が小さいとはこれいかに?女性は出るところが出るから・・・。それにしても、重い。できたら、いや即行ここからどいてくれ!
母さんをしっし!と追い払って、やっと俺は一人になった。
何も無いなんて、つまらないだけじゃないか。なにか、なにか刺激が欲しい。
かくして、おれはスーパーのフルタイムのバイトを始めた。朝から晩までレジを打つ。最悪誰かの変わりにもっと長い時間いなくちゃいけないこともあったけれど、家は家計的にいくらか余裕が出てきた。
たとえば、夕ご飯の後にイチゴが出てきたり。
「ユエちゃんお仕事のほうは順調?」
「ん?ああ、順調って言うか、単純作業の繰り返しだからね。ずっと立ちっぱでつかれるけどさ。」
「お疲れ様!それに比べてこの人は、」
「お父さんはもう退陣。」
「なんだそれ!友達のお父さんなんてお前より年上だぞ?」
「お姉さん達だってまだはたらいてるんでしょう?」
そう言って、父さんを困らせる。母さんは、どこかエスッ気があるらしかった。
「お風呂沸いたから入りなさい」
「はーい。」
なんでもない、日常。
なんでもない、日常。
コレが、幸せ?
その夜、俺は夢を見た。母さんが死ぬ夢だった。それはどこかすごくリアルで、俺はその世界の現実の中で、どうすることもできないまま。ただ、ひたすらその顔を見下ろしているんだ。
紫色の、カエルのような。けれど、とても安らかな、どうしようもなくやさしい母さんの顔を・・・。
ぶっちゅ・・・っばっ!
「う・・・、うえええ・・・。かあさん、」
「おはよう、ユエちゃん。朝だよ起きてー!」
ぶっちゅ!ちゅ、ちゅ、ちゅばっ!
「起きてるよ、気持悪いなー!」
「いいじゃない?減るものじゃないんだし。」
「なんか生気を吸い取られてる気分だよ!思いっきり減ってる気分だよ!」
「はいはい、もう仕事遅れちゃうよー?」
いつもの、朝だった。
「嗚呼、唾液が付着してる。皮膚が溶けそうだ!」
「いいじゃない、うらやましい。」
「黙れハゲ!」
にやにやしながらこっちを見ていた父さんに罵声を浴びせて流しで顔を念入りに洗う。顔を洗いながら不意に今朝の夢を思い出した。
何も無い幸せ。母さんがこうして生きている。何気ない、このくだらない日常が明日も明後日もつづく。確かに、幸せな事だ・・・。
俺は、家族三人で幸せになりたい。それが夢だっていいじゃないか。ねがわくは、新しい家庭とかも持ちたい。孫を見せてあげたいじゃないか。それから・・・。うん、あげていくときりがない。けれど、そうか。要するに、コレが普通の幸せっていう奴なんだろうな。
そのまま、何も変らず二年が経過した。
その頃になると、母さんは妙に外に出たがっていた。
母さんの異常は俺が小学校の頃からだ。いや、本当はもっと昔からそうだったのかもしれないけれど、少なくとも俺が小学校四年生の頃、精神科の病院に入院した。父さんのなまけと暴力で、ついに幻覚や幻聴をおこし、被害妄想が膨らみ、手がつけられなくなってしまったんだ。
あの時の恐怖は、いいしれないものがあった。
それから父さんは頭を冷やして働くようになったのだが、結局いくらも続かないままこしを悪くしてこの様だ。母さんは、今も薬を飲んでいる。
湖に散歩に行ったり、農場に行ったり。公園にも言った。ただ、散歩するだけなのだが。一人で歩いている姿はさながら夢遊病者のようにも見える。どこか、ぼんやりと、小さな子供を見かけては愛おしそうに目で追いかけていた。
その日は、五月の終わりの日曜日だった。
仕事は無いから、のんびりできる。母さんも、店はお休みだし。今頃寝てるんだろう。そう思った。
トイレに起きると、寝室に母さんは居なかった。居間には今日の新聞があって、朝ごはんが台所の角においてある。
ちょっと豪華なサンドイッチと、コーヒーだ。
トイレにも居ない。風呂場にもいなかった。
「母さん?」
店に行ってみるが、シンと静まり返っている。外に出たのだろうか?
そして、俺は見てしまった。物陰の向こうに倒れている母さんを・・・。
「どうして・・・。」
ああ、なんて声をかけたらいいんだろう。
ユエは、その様をじっと見ていた。
「母さん、母さん!おきて!お母さん!」
もう一人のユエが、母親をゆすり起こそうとする。だが、起きない。クビには黄色いビニール紐が絡み付いていて、くっきりとおぞましい痕を残していた。母親の顔は、まるで紫のカエルのようにむくれて、目がとび出していた。その口からは、紫色の舌が飛び出して。不自然に足を折り曲げてそこに倒れている。
「父さん、父さん!母さんが、母さんが死んじゃう!」
父親が駆けつけたときには、ユエは救急車を呼んでいた。電話の指示に従って、何度も何度も心臓マッサージと人工呼吸を繰り返す。
げぇッ!
母親の肺にたまっていた空気が抜ける音。息を吹き返したと思ったのに、それっきり呼吸は再会されない。
「母さん、母さん!いやだ、こんなの嫌だ!母さん、
母さんッ・・・!」