第8章 威力は私室で
婚約が公になってから、
アルジェリスは、これまで二日に一度は作ってくれていた澪との時間を、
忙しい合間を縫って、ほんの少しだけ増やしてくれるようになった。
とはいえ、人前での彼は、基本的に控えめだった。
――本人は、そう思っているらしい。
「段差があります」
そう言って差し出される手。
歩調を合わせるために、ほんの少しだけ近づく距離。
肩が触れそうで、触れない。
視線が合えば、すぐに逸らされる。
「……アルジェリス様、今日は随分と大人しいですね」
周囲から、そんな冗談を向けられることもあった。
「そうでしょうか」
本人は本気で首を傾げている。
――十分、近いです。
澪は内心でそう突っ込みながら、笑ってやり過ごす。
人前では、これが“控えめ”なのだろう。
* * *
問題は、
二人きりになったときだった。
澪の部屋で、扉が閉まった瞬間。
「……疲れていませんか」
そう言いながら、
距離が一気に縮まる。
気づけば、壁際。
逃げ道は、最初からない。
「だ、大丈夫です……」
答える間もなく、
額が近づく。
吐息が触れるほどの距離で、
金色の瞳が、じっと澪を見る。
「無理はしていませんか」
低い声。
人前では聞かない、静かな響き。
――近い。
近すぎる。
澪の背中に、そっと手が添えられる。
抱き寄せられているわけではない。
ただ、自然に逃げ道がなくなっているだけだ。
「……アルジェリス」
名前を呼ぶと、
彼はぴたりと動きを止めた。
「はい」
即答だった。
理性は、ちゃんとそこにある。
唇は、近づかない。
ぎりぎりのところで、必ず止まる。
「……触れていません」
念のため、というように告げられて、
澪は何も言えなくなった。
――知ってる。
でも、そういう問題じゃない。
腰に回された腕。
背に添えられた手。
額が触れそうな距離。
十分すぎる。
「……でも、近すぎます」
心臓の動悸がひどくなり、
澪はとうとう音を上げた。
アルジェリスは、少しだけ考えてから答える。
「二人きりですから」
全く、そこから動かない。
――だめだ、この人。
人前で抑えていた分を、
全部ここで使っている。
結果、
澪の心臓だけが、毎回限界を迎える。
* * *
夜。
部屋に戻り、
一人になると、澪はベッドに腰を下ろした。
人前での距離感。
さっきの近さ。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
――私は、代役だ。
本来、ここに立つ人は別にいる。
また、心の中で期限を刻む。
もう、婚約から数か月が過ぎている。
けれど、
何一つ、事態を正しく戻すための糸口は見えていなかった。
この世界の意思に、
どうやって触れればいいのか。
正直なところ、澪には何も分からない。
それでも。
――あと、もう少しなら。
この距離も、この甘さも、
許されるだろうかと、願ってしまう。
澪は、そっと息を吐いた。




