第2章 世界の都合
落ちているはずだった。
そう思った次の瞬間、
山田澪は、身体が宙で止まっていることに気づいた。
「……?」
痛みはない。
風も、重力も感じない。
見渡しても、白とも灰色ともつかない空間が広がっているだけだった。
上下も、距離も、よく分からない。
「……ここは……どこですか?」
声が、やけに遠くに響いた。
返事はない。
――と思った、そのとき。
「やぁ」
すぐ近くで、声がした。
驚いて振り向いたが、そこには、誰の姿もなかった。
年齢も性別も分からない。
姿も、輪郭も存在しない。
ただ、声だけが、はっきりとそこにある。
「ごめんね、ちょっと急でさ」
「……?」
「説明する時間、あんまりないんだよ」
軽い。
冗談のような口調だった。
澪が状況を把握しようとしている間にも、
声は一方的に続く。
「今ね、世界がわりと本気でまずくて」
「……世界?」
「そうそう。アフィーリア」
聞いたことのない名前だった。
「本当は、ちゃんと呼びたい人がいたんだけど」
声が、少しだけ困ったようになる。
「うまくいかなくてさ。
魂が向こうの世界で、がっちり結びついちゃってて」
「……?」
「でね、代わりって言うと語弊があるんだけど」
えへへ、という気配がした。
「魂の形が、すごく似てたから」
胸の奥が、ひやりとする。
「……それは……」
「うん、君」
即答だった。
「タイミングも、ちょうどよかったし」
「ちょうど……?」
「生と死の境目に、落ちてきてたでしょ」
心臓が、嫌な音を立てた。
「だから、拾っちゃった」
あまりにも簡単な言い方だった。
「ちょっと、待ってください」
「うん、待ってあげたいんだけど」
声は、澪の言葉を軽く遮る。
「本当に時間がなくて」
「この世界、危機なんだけど」
「……え?」
「君を呼べば、たぶん回る」
意味が分からない。
「説明は後でね。
あ、あと一応言っておくと」
ほんの一瞬、声の調子が変わる。
「君は、正式な人じゃない」
胸の奥が、すっと冷えた。
「本来の人は、別にいる。
でも、今はどうにもならない」
すぐに、軽い調子に戻る。
「だから、お願い」
「ちょっとだけ、付き合って」
澪が返事をする前に、視界が反転した。
――熱。
――轟音。
――金属音と、耳を裂くような咆哮。
「――っ!?」
次の瞬間、
澪は硬い地面に膝をついていた。
周囲の空気が、異様に張りつめている。
視界の端で、空間そのものが歪んでいるように見えた。
そこから、得体の知れない何かが次々と現れている。
形容できない造形。
生きているのかどうかも分からない。
――なに、ここ。
理解するより先に、空気が変わった。
青白い魔力が、爆発するように膨れ上がる。
澪の目の前に、ひとりの男が立っていた。
銀色の髪。
彫りの深い、人形のように整った顔立ち。
金色の瞳が、まっすぐ前を射抜いている。
血と光に包まれながら、
その姿は、あまりにも整いすぎていた。
――綺麗。
場違いな感覚が、一瞬だけ頭をよぎる。
次の瞬間、男が動いた。
魔力を帯びた剣が振るわれ、青白い光が弧を描く。
得体の知れない何かは、為す術もなく切り裂かれていった。
速すぎて、目で追うのがやっとだった。
それでいて、動きに一切の無駄がない。
男は、一瞬だけ澪を見る。
金色の瞳が、確かに澪を捉えた。
「……私の花嫁?」
呟きは、問いというより、確認に近かった。
次の瞬間、澪の身体が強く引き寄せられる。
「動かないでください」
敬語だった。
だが、その声には、迷いがなかった。
澪をかばいながら、男は剣を振るい続ける。
周囲の異形は、次々と消え失せていく。
歪んでいた空間が、滑らかに閉じていくのが分かった。
やがて、あたりに残ったのは、静寂だけだった。
澪は、呆然と立ち尽くしていた。
男の発した「花嫁」という言葉が、妙に頭に残る。
だが、それよりも、この状況は何なのか。
「……こ、ここは……どこですか?」
震える声で、そう尋ねる。
男は一瞬だけ目を伏せ、すぐに澪を見る。
「後で、説明します」
そう言って、再び澪を守る位置に立った。
世界の都合が、静かに、回り始めていた。




