最終章 婚姻の儀
本来なら、婚姻の儀は半年後の予定だった。
それが一か月に早まったのは、誰の目にも明らかな理由がある。
あの夜の騒動と、結界を震わせたアルジェリスの暴走未遂。
――澪がいない世界は、私には意味がありません。
思い出すだけで、胸の奥が熱を持つ。
神殿の一室で、澪は鏡の前に立っていた。
白を基調とした婚礼衣装。
軽やかな布が幾重にも重なり、胸元には月を象った刺繍が施されている。
いつもより少しだけ整えられた髪。
頬には、ほんのりと色が差されていた。
鏡の中の自分を、じっと見つめる。
中肉中背。
彫りの浅い顔立ち。
どこにでもいるような自分。
それでも――今日くらいは。
少しだけ、きれいかもしれない。
胸の奥に、小さな希望が灯る。
これなら。
これなら、アルジェリスの隣に立っても。
“結婚してよかった”と、思ってもらえるかもしれない。
そう思った瞬間、遠くで鐘が鳴った。
婚姻の儀、開始の合図。
澪は、ゆっくりと息を吸い、神殿中央へと歩み出る。
高い天井から光が降り注ぐ神殿中央。
円形に刻まれた結界紋章が、淡く輝いている。
神殿長、王、重臣。
後方には特殊先鋭部隊の代表としてトリスの姿もあった。
厳粛な空気。
向かい側の扉が、静かに開く。
アルジェリスが現れた。
深い紺の軍装。
結婚式のための最高位礼装。
肩章に刻まれた月の紋章。
剣帯が身体の線を際立たせ、鍛えられた体格がはっきりと浮かび上がる。
金色の瞳が、まっすぐに澪を捉える。
――無理。
一瞬で、自信が崩れ落ちる。
さっきまで、少しは並べるかもしれないと思っていた気持ちが、跡形もなく消える。
これは、釣り合わない。
隣に立つなんて、やっぱり――
アルジェリスは、息を忘れた。
白い衣装に包まれた澪が、そこに立っている。
言葉を探す余裕もなかった。
ただ、綺麗だった。
だが、次の瞬間。
澪の視線が、わずかに逸れるのを見逃さない。
握られた指先が、ほんの少し強い。
――まただ。
理性が戻る。
アルジェリスは一歩、距離を詰めた。
「澪」
低く、静かな声。
澪の肩がわずかに震える。
「今、何を考えていますか」
「……何も」
即答。だが、視線は合わない。
アルジェリスは、ほんのわずかに眉を寄せる。
「また、自分が足りないとでも?」
叱る声音ではない。
だが、逃がさない。
澪は、答えられない。
神殿長の誓詞が響いているはずなのに、二人の間だけ、別の時間が流れているようだった。
アルジェリスは、もう一度名を呼ぶ。
「澪」
逃げ場を塞ぐように、しかし優しく。
「私は、あなたを選びました」
迷いのない声。
「あなたがどう思っていようと、関係ありません」
一歩も引かない。
「私が望んだのは、澪です」
胸が、強く鳴る。
それでもまだ、揺れが消えきらないことを、彼は知っている。
だから。
ほんのわずかに声を落として。
「きれいです」
飾らない。
付け足さない。
ただ、真っ直ぐに。
澪の喉が詰まる。
「……はい」
小さく、答える。
神殿長の声が、はっきりと響く。
「誓いの口づけをもって、魂の定着を完了とする」
足元の結界紋章が、淡く揺らぐ。
アルジェリスの指が、そっと澪の頬に触れる。
「澪」
囁きに近い声。
ほんのわずかに口元を緩めて。
「もう、逃がしませんから」
独占欲を隠さない宣言。
澪は、震える指で彼の軍装を握る。
「逃げません」
金色の瞳が、柔らかく細められる。
彼は何も言わず、ゆっくりと距離を詰めた。
逃げ場は、もうない。
それでも。
逃げたくない。
代役でも、偶然でもない。
私は、自分で選ぶ。
この世界で。
アルジェリスと、生きると。
目を閉じる。
そして――
完結となります。




