第10章 夜に訪れるもの
■ アルジェリス
眠れずに、アルジェリスは杯を傾けていた。
琥珀色の液体が、喉を焼く。
本来なら、傷を負って以来、控えていた寝酒だ。
――一か月ぶりだな。
明日には、
正確には、夜が明ければ、
ようやく彼女に会える。
それだけの理由で眠れなくなる自分に、
アルジェリスは小さく苦笑した。
戦いを求められる運命であることは、受け入れている。
剣を振るい、
境界に立ち、
最後に残る役割を担うことも。
それでも。
安らぎが欲しいと、
思わないほど人間ができているわけではなかった。
背もたれに身を預け、
視線を落とす。
――そんなときのことを、ふと思い出す。彼女は現れた。
初めて見たとき、
正直に言えば、拍子抜けした。
この国にはない、彫りの浅い顔立ち。
二十八歳という実年齢より、十は若く見える印象。
中肉中背で、決して目立つ容姿ではない。
時折、夢に見た、
月光をまとった女神のような女性とは、
似ても似つかない。
けれど。
目が合った、その瞬間。
理屈ではなく、
身体の奥で理解してしまった。
――この人だ。
求めていた花嫁だと。
彼女は、とにかく優しい。
自分にだけではない。
誰に対しても、同じ距離で、同じ温度で接する。
元の世界では、
病人の看護をする仕事をしていたらしい。
だからだろうか。
アルジェリスに限らず、
誰に対しても自然に気遣う。
その優しさに、
何度、救われたか分からない。
――あと、半年。
その言葉を思い浮かべ、
アルジェリスは無意識に口元を緩めた。
婚姻の儀の正確な日取りは、まだ決まっていない。
だが、国の承認はすでに得ている。
正式に、
彼女と結ばれることは決まっている。
それだけで、
胸の奥に張りつめていたものが、
少しずつ、ほどけていく。
――ようやく、だ。
杯を置き、
アルジェリスは目を閉じた。
眠れない夜でさえ、
今は悪くないと思えた。
――――――――――――――――――
■ 澪
その夜、
澪は夢を見た。
暗くもなく、
明るくもない。
境目の分からない空間。
「また来たね」
軽い声だった。
どこか気の抜けた、
責任感のない調子。
――この世界の意思だ。
「一応さ、条件は揃ったよ」
澪は、息を呑む。
「正式な魂の伴侶、呼べる段階には入ってる」
澪は、自分の感情が分からなかった。
ただ、胸が、ひどく痛んだ。
「君が望むならだけど」
声は続ける。
「条件はひとつ。
召喚の儀式は、ナイトムーン・ヘイル
(夜の月を継ぐ者)の前で行うこと」
――彼の前で。
澪の胸が、きゅっと締まる。
「ただし」
一拍。
けれど、どこか軽い。
「その子、もう恋人いるよ」
あまりにも、あっさりと。
「その子がいる世界で、
ちゃんと好きな相手がいる」
言葉が、すぐには理解できなかった。
「まぁ、一時的な感情かもしれないけどさ」
悪びれもなく、続く。
「長続きするかは分かんない。
まだ魂が定着しきってないから、
今なら……間に合うかもね」
選択肢を並べるような口調だった。
澪は、唇を噛む。
――それでも。
彼女は、正式な魂の伴侶だ。
私とは、違う。
「どうする?」
問いは、驚くほど軽い。
「今のまま、代役でいるのもアリだし」
「儀式をやって、役割交代するのもアリ」
そして、さらりと。
「でも、その場合、
君は元の世界に強制送還される」
「意味、分かるよね?」
――死。
それは、
あまりにも明確な答えだった。
それでも、私は――。
アルジェリスの笑顔。
近すぎる距離。
どこまで、
彼の過ごせたはずの、
正しい時間を奪ってしまったのだろう。
「……少し、考えさせて」
分かっていても、
答えはすぐに出なかった。
今さら、
彼の未来も、
自分の生も、
どちらも手放せないなんて。
「いいよ」
即答だった。
「でも、時間は無限じゃないからね」
その一言を残して、
空間は、ふっと溶ける。
目を覚ましたとき、
澪は、自分が泣いていることに気づいた。
半年。
自分で刻んできた期限が、
初めて、現実の重さを持つ。
――もう、逃げられない。
澪は、静かに天井を見つめた。




