第9章 離れる距離と、それぞれの場所
アルジェリスが前線へ向かわなければならない事態が発生したのは、
婚約が公になってから、しばらく経った頃だった。
今回は、これまでとは明らかに違う。
局地的な鎮圧ではなく、
複数の亀裂が連続して発生し、
完全に落ち着くまでには、最低でも一か月はかかると見込まれていた。
王宮内の空気も、どこか張りつめている。
澪は、その変化を言葉にされる前から感じ取っていた。
「……しばらく、戻れません」
澪の部屋で、そう告げたアルジェリスの声は静かだった。
感情を抑えているのが、はっきり分かる。
「一か月ほど、かかる見込みです」
「……そう、ですか」
返事は、思ったよりも普通に出た。
けれど、胸の奥が、ゆっくりと締めつけられていく。
「無理は、しないでください」
先に口を開いたのは、澪だった。
「約束します」
即答だった。
迷いはない。
「澪も、診療所で忙しくなるはずです。後方にも、負傷者は出るでしょう」
「はい」
分かっている。
今回は、小規模ではない。
それでも。
言葉が途切れたまま、
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
人前では抑えている距離が、
この部屋では、自然と近づいていた。
額が触れそうな距離。
呼吸が、重なる。
アルジェリスの手が、そっと澪の背に添えられる。
抱き寄せるわけではない。
けれど、離す気もない。
「戻ったら」
低い声だった。
「戻ったら、また、ここへ来ます」
――必ず戻る、とは言わない。
言えない。
それが分かっているからこそ、
澪は、ゆっくりと頷いた。
「……待っています」
その一言で、十分だった。
唇が触れることはない。
禁忌があるからではない。
彼は、最後まで理性を崩さなかった。
それでも、
離れる直前、
額が、ほんの一瞬だけ触れる。
それだけで、
胸の奥が、いっぱいになった。
―――
前線は、想定以上に苛烈だった。
亀裂は不規則に開き、
時間差で、断続的に魔物が溢れ出す。
展開しているのは、十班編成の部隊。
だが、全班が同時に動いているわけではない。
「第三班、左翼を維持。無理に前へ出るな」
「第六班、負傷者が出たら即時後送だ。判断を迷うな」
短く、的確な指示が飛ぶ。
アルジェリスは、剣を抜いたまま、
戦場全体を視界に収めていた。
一歩踏み出すだけで、
周囲の空気が、ぴり、と張りつめる。
魔力が、無駄なく刃に乗る。
振るわれた剣は、
一切の迷いなく、魔物の中核を断ち切った。
一体、二体。
数は問題ではない。
「……出方が変わったな」
亀裂の縁から、
これまでより大型の個体が姿を現す。
「トリス」
名を呼ぶだけで、
すぐに応答が返ってきた。
「はっ」
トリス副隊長は、
すでに状況を把握している。
「第二班を私の右に回せ。第七班は後方支援に下げる」
「了解。第二班、隊長の右へ! 第七班、後方に下がれ!」
号令が、即座に伝播する。
部下たちは、迷わない。
指示が的確であることを、
全員が理解している。
アルジェリスは、前へ出た。
正面から来る個体を斬り伏せ、
横合いから迫る魔物を、
振り返りざまに叩き落とす。
剣の軌道に、無駄はない。
魔力の放出も、必要最低限。
強い。
だが、力任せではない。
「隊長、左後方、数が増えています!」
「把握している」
短く答え、
アルジェリスは踏み込む。
一段、深い位置へ。
魔力が、はっきりと膨れ上がる。
その圧に、周囲の魔物が、わずかに怯んだ。
「今だ。第四班、押し返せ」
合図と同時に、
魔物の列が崩れる。
「……長期戦になるな」
呟きは、冷静だった。
無理はしていない。
だが、余裕もない。
それでも、
部下を無意味に消耗させる選択はしない。
前へ出るのは、
制御できると判断したときだけだ。
―――
後方の王宮診療所では、
静かに、しかし確実に、状況が変わり始めていた。
最初に運び込まれたのは、
重症者だった。
「魔力損傷、深部まで達しています」
医師の声が、低く響く。
「止血を優先します。澪、準備を」
「はい」
澪は、即座に動いた。
器具を揃え、
魔力の流れを確認し、
医師の指示を待つ。
看護師一人で対応できる状態ではない。
これは、明らかにチームでの治療が必要な負傷だった。
「ここ、押さえてください」
「分かりました」
澪は、言われた通りに手を添える。
視線は、常に医師の動きを追っていた。
次に運ばれてきたのは、中等症。
裂傷と打撲、
魔力による内部損傷の疑い。
「こちらも、処置室へ」
休む間もなく、次が来る。
一日に何人も来るわけではない。
だが、
毎日、少しずつ、確実に増えていく。
「今日は、これで三人目です」
誰かが呟く。
澪は、黙って頷いた。
包帯を渡し、
薬を準備し、
処置後の状態を確認する。
看護師としての役割。
だが、単独ではなく、
常に医師の補佐として動いている。
夜になる頃には、
指先に、じんわりと疲労が溜まっていた。
それでも、
立ち止まる暇はない。
―――
夜、部屋に戻り、
ひとりになる。
ベッドに腰を下ろし、
静かに息を吐いた。
前線の苛烈さ。
診療所の緊張感。
そして、
別れ際の距離。
――私は、代役だ。
本来、ここに立つ人は、別にいる。
アルジェリスと離れてから、
なぜか、同じ夢を何度も見た。
幸せそうなアルジェリスの顔。
誰が見てもお似合いな、
絶世の美男美女の夫婦が並ぶ光景。
また、心の中で期限を刻む。
婚約から、すでに半年が経とうとしていた。
それでも。
今はまだ、
前線と後方。
離れていても、
それぞれの場所で、
同じ時間を生きている。
そう、信じることだけは、
やめなかった。




