第1章 夜の月を継ぐ者
アフィーリアには、人間の世界と魔の領域を隔てる結界が存在する。
それは巨大な壁ではなく、幾重にも張り巡らされた膜のようなものだった。
年月とともに摩耗し、軋み、
世界の各地で不規則に亀裂を生む。
そこから魔物が滲み出すように現れ、人間の領域を侵そうとする。
結界の亀裂は、日常的に発生している。
多くは各地の部隊で対処可能で、修復も迅速だ。
被害も限定的に抑えられる。
――だが、すべてがそうとは限らない。
ごく稀に、
亀裂が深く、複数に連鎖し、
修復と殲滅のどちらも追いつかなくなる事態が起きる。
そう判断されたとき、
現場の指揮系統は、ためらいなくひとつの名を要請する。
アルジェリス・ノクティルナ。
――ナイトムーン・ヘイル(夜の月を継ぐ者)。
その名が呼ばれるとき、
事態はすでに「普通」ではない。
夜の空気を切り裂くように、魔物の咆哮が響いた。
結界に走った亀裂から、影が次々と溢れ出してくる。
「第七班、左側の裂け目を抑えてください。
第五班、修復準備。魔力収束を確認次第、展開を」
静かな声だった。
だが、その一言で戦場の流れが変わる。
特殊先鋭部隊。
第1班から第10班まで、総勢百名。
重度事案と判断されたときのみ、
全班が同時に動き、彼の指揮下に入る。
アルジェリスは、その最前線に立っていた。
背後では、各班が一斉に展開している。
前衛が魔物を引き受け、
後方では結界修復の術式が準備される。
それぞれが役割を理解し、
互いの動きを把握していた。
アルジェリスが前に立つことを、
誰一人、疑ってはいない。
「隊長、右から大型個体です!」
「確認しました。前に出ます」
一歩、踏み出す。
魔力を帯びた剣が振るわれた。
青白い光が弧を描き、
迫り来る魔物の群れを正確無比な剣さばきで次々と切り伏せていく。
その動きは、誰の目にも異常なほど速い。
それでいて、一切の無駄がなく、極限まで研ぎ澄まされていた。
押し寄せる魔物を、
結界の裂け目へと追い立てる。
逃げ場を失った影が、
闇の向こうへと押し戻されていく。
「今です」
合図と同時に、修復術式が起動した。
裂けていた結界が、縫い合わされるように収束していく。
アルジェリスは、その中心に立ち続けた。
修復が完了するまで、
一体たりとも、人間の世界へ通さないために。
魔力が軋み、
身体の奥が焼けるように熱を持つ。
それでも、剣は止まらない。
やがて、結界は完全に閉じた。
残っていた魔物は光に呑まれ、跡形もなく消える。
「……収束を確認。
各班、被害報告を」
トリス副隊長の声が飛ぶ。
アルジェリスは、ようやく剣を下ろし、息を吐いた。
血の匂いが濃い。
自分のものか、魔のものかは分からない。
額に刻まれた月形の痣が、淡く光っていた。
生まれた瞬間に神殿へと知らされ、
国の管理下に置かれる印。
成人した十六歳から最前線に立ち続けて、八年。
境界が深刻な歪みを見せるたび、
彼は呼ばれ続けてきた。
英雄ではない。
神でもない。
ただ、
世界が崩れかけたとき、
最後に立たされる人間。
天幕へ戻った夜、
アルジェリスは目を閉じた。
疲労は深いはずなのに、眠りは浅い。
夢を見る。
金色の髪。
碧い瞳。
月光に照らされた、完成された花嫁の姿。
何度も見た夢だ。
だが、そこに恋情はない。
ただ、胸の奥が共鳴するような、
説明のつかない感覚が残るだけだ。
意味を考えることは、しなかった。
境界を守るために生きている以上、
余計なものに縋る余裕はない。
その頃、アフィーリアとは異なる世界で。
市街地の近くに、展望台を備えた小さな山があった。
本格的な登山ではなく、
散歩の延長で歩ける道が続いている。
山田澪は、気分転換に、よくそこを歩いていた。
その日も、特別なつもりはなかった。
ただ、少し空気を吸いたかっただけだ。
両親が亡くなって一年。
寂しさは、日に日に募るばかりだった。
――なぜ、私も誘われたのに、一緒に旅行へ行かなかったのだろう。
そうしていれば、事故に巻き込まれずに済んだかもしれない。
私がいたことで、何かが変わったかもしれない。
また、堂々巡りの思考に落ちていく。
展望デッキから見える景色は、
いつもと変わらなかった。
だから、その先で何かが起きるとは、思っていなかった。
足を滑らせたのは、一瞬だった。
そのとき、
踏ん張ろうとしていたのか、
それとも、力を抜いてしまったのか。
澪自身にも、よく分からない。
落下の途中で、視界が歪む。
水面でも、闇でもない。
世界と世界のあいだに、
裂け目が開いたようだった。
その裂け目の向こうで、光が見えた。
金色の髪。
碧い瞳。
月光に照らされた、女神のような女性。
そして次の瞬間。
澪は、見えない力に引き寄せられるように、
その光のそばへと引き込まれていった。
切れ目のようなはざまへと、
静かに、落ちていく。




