雨傘
雨傘
今から八年前の話だ。
二〇一七年、お盆の少し前。
当時、私は三宮界隈に住み、
同じく三宮にある職場へ徒歩で通勤していた。
その日も仕事を終え、夜七時か八時頃だったと思う。
外は小雨が降っていて、私は傘を差しながら、
いつもの国道沿いを歩いて帰っていた。
家までは十分から十五分ほど。
特別なことは何もない、いつもの帰り道だった。
ところが、家まで残り三、四百メートルほどの場所で、
なぜか左にある路地へ曲がりたくなった。
理由は分からない。
疲れていたわけでもないし、急いでもいなかった。
気づけば、体が勝手に曲がっていた。
「この先にコンビニがあったな」
そんな軽い理由を、後から自分に言い聞かせた。
傘を差したまま、細い路地を進んでいった。
二百メートルほど歩いた時だった。
突然、傘のすぐ上に、はっきりとした気配を感じた。
何かが、真上にいる。
落ちてくる――。
反射的に身を引いて、すぐ上を見上げた。
だが、そこには何もない。
「気のせいか」
そう思い、歩き出そうとした瞬間、
ふわりと、線香のような匂いが鼻をかすめた。
その匂いで、ある出来事を思い出した。
それは一年前、二〇一六年の秋。
同じ路地にあるコンビニに立ち寄っていた時のことだ。
店内の雑誌棚で立ち読みをしていると、
外から突然、
「ガシャガシャガシャッ!」
と、金属が激しく擦れるような、
異様に大きな音が響いた。
思わず顔を上げた。
これは事故だ、と直感するほどの音だった。
外を見ると、すでに人が集まり始めていた。
気になって店を出ると、
四つ角の交差点に赤い車が止まっている。
周囲からは、
「大丈夫か!」
「救急車呼んだか!」
と、切羽詰まった声が飛び交っていた。
野次馬になるのは良くないと思いながらも、
何が起きたのか確認せずにはいられず、
私は人の隙間から中を覗いた。
そこで目に入った光景に、息が詰まった。
赤い車の前輪が、わずかに浮いている。
その下に――
女性らしき人物の、腰から下だけが、
うつ伏せの状態で見えていた。
「……人身だ」
シャッターや壁にぶつかった形跡はない。
道路の真ん中で、車が何かに乗り上げている。
私はそれ以上、近づけなかった。
周囲にはすでに人が多く、
下手に出しゃばれば邪魔になるだけだと思い、
その場を離れた。
ただ心の中で、
「どうか助かってほしい」
そう願いながら、その日は家に帰った。
数日後、また同じコンビニに立ち寄った。
顔見知りの店員がいたので、何気なく聞いた。
「この前の事故、大変でしたね。
車とぶつかった女性、いましたよね?」
すると店員は、少し言いづらそうに首を振った。
「いえ……あれ、違うんですよ」
「え?」
「あの人、ビルの上から飛び降りたらしいです。
そこに、たまたま車が通りかかって……」
一瞬、言葉が出なかった。
「じゃあ……」
「落ちた時点で、もう……って話でした」
コンビニを出ると、入り口の正面、
ほんの十メートルほど先が、
あの事故現場だった。
私は無意識に立ち止まり、
小さく手を合わせていた。
「どうぞ、安らかに」
声に出ていたかどうかは、覚えていない。
そして一年後。
雨の夜、傘の上で感じた気配と、線香の匂い。
「ああ……」
その女性のことが、はっきりと頭に浮かんだ。
今年は、初盆だったのだ。
あの日、私が声をかけたのを覚えていて、
国道を歩く私を見つけ、
わざわざ路地へ呼び寄せたのかもしれない。
怖さはなかった。
ただ、胸の奥が締め付けられるような、
切ない気配だけがあった。
後になって調べて知ったことだが、
この飛び降りは 大島てる氏の
事故物件サイトにも掲載されている。
ただし、この件で
そのビルは事故物件にはなっていない。
亡くなった場所が、道路上だったからだ。
もし、ほんの数メートル違い、
敷地内に落ちていれば――
そのビルは、今も「事故物件」として記録されていた。
事故物件は、特別な場所にあるわけじゃない。
今日、何気なく歩いている道も、
いつも通っている建物も、
たまたま立つ位置が違えば、
明日には事故物件になる。
あの夜、雨の中で傘の上に感じた気配は、
その事実を、静かに教えてくれた気がしている。




