第1話 月光のアリーナ
Episode3 Faust Trick-ファウスト・トリック-
「先輩、俺が閉めときますよ。鍵!」
明星高校体育館。草野ショウヘイは持ち前の笑顔で先輩を引き留めた。梅雨の長雨も部活動を終えた生徒たちに気を使ったのか、今ではすっかり止んでいる。続々と帰宅するバスケットボール部員が玄関を開閉するたびに、湿り気を帯びた生温かい空気が鼻についた。
「お、マジ?助かるわ!草野!」
身の丈180cmはある先輩を見上げながら、草野ショウヘイは体育館の鍵を手に入れる。そのままトイレの個室に逃げ込むようにして座り込んだ。鼓動が痛むほど胸の内を叩く。目をきつく瞑り、皆が帰るのをじっと待つ彼には、先ほどの笑顔はどこにもなかった。
耳をそばだてること数分。体育館から完全に人の気配が消えた。草野はゆっくりと顔を上げた。
こうでもしないと追いつけない。上手くなるためには仕方のないこと。そう言い聞かせるように、彼は体育館のアリーナに戻った。
アリーナには非常口が4つある。彼は各部員たちが施錠してまわった非常口の一つにまっすぐと近づいて、掛け金と鍵を開けた。
心臓が握りしめられるような感覚。草野は息を吐いて、フロントに戻っていく。そして、電灯の操作パネルを開いて冷える指先で次々と消灯ボタンを押していった。そのまま玄関の鍵を閉めて、職員室に向かう。大丈夫。絶対上手くいく。怪しまれるはずがない。草野ショウヘイは心の中でそう唱え続けていた。6月上旬、珍しく雲一つない夜空が広がっている。月の良く見える夜だった。
◇◇◇
職員室に鍵を返却して10分ほど経った後、草野は体育館の裏に回り、先ほど開けておいた非常口から侵入した。鼻に抜けるようなワックスの匂い。靴を抜いで木床に足をつけるとひんやりとしていて気持ちがいい。
いつも頑張っているな……か。先生はそう言うけれど、こんなんじゃ全然ダメだ。もっと練習しないと……。月の淡い光に照らされたアリーナ。草野は制服のままバスケットボールシューズに履き替えて、埃っぽい倉庫からボールを一つ取りだしてコートに戻った。片手間にボールを跳ねさせる。ダァーン……ダァーン……と、よく音が響いた。
草野ショウヘイはセンターサークルに立ち、目を瞑る。思い描くのは中学3年生の記憶。県大会ベスト4を掛けた試合。辺りを見回しても、自分より背の高い選手たちばかりだ。
おもむろに鋭いバックスピンを掛けてボールを目の前に落とす。回転のかかったボールは床に接した瞬間、彼にパスをするように跳ね返った。
ステップを踏みながらボールをキャッチした草野は疾風のようなドリブルとともに駆けだした。窓から差し込む穏やかなスポットライトに照らされて、草野ショウヘイは変幻自在にコートを駆け巡る。信頼できる仲間にパスを出し、誰よりも動き回りながらディフェンスを翻弄する。それが、身長というハンデを負った草野ショウヘイの誇りだった。
部員たちが草野の名前を大声で呼んで声援を送っているのが聞こえる。スリーポイントラインで再びボールを受け取った草野はゴールを睨む。立ちはだかるディフェンス。深く腰を下ろしながらスリーポイントシュートを警戒するように両手を広げている。あの時も、伸ばす手がどこまでも追ってくるような感覚に襲われた。
でも――!
草野は突き刺すようなフェイクとともに、左側へと全力で切り込む。だが、ディフェンスはたったの一歩で追いつく。草野は弾かれたように後方へと大きく跳び下がった。そのままスリーポイントラインを越えて、ボールを両手で持ち、シュート体勢に入る。ディフェンスは片手を伸ばして飛び込んでくる。まるで壁が迫ってくるようだ。しかし、草野は逃げるように跳びずさる。そのまま、身体、腕、手首を連動させて渾身のスリーポイントシュートを叩きこんだ。決まれば、勝てる!ボールは高い放物線を描き、ゆっくりとゴールに向かっていく。草野はよろけながら固唾を飲んでその様子を見ていたが――
ガゴンッ!ダァーン……
ボールは無情にもゴールリングに撥ね退けられてしまった。もう誰も声援を送っていない。音を立ててコートを転がっていくボールには深い影が落ちていた。
「くそっ!!」
草野の声がアリーナに反響する。高校に上がって身長差は激しくなるばかり。なのに、実力差はまったく埋まらない。中学時代はそれでも食らいつけたのに、今は全然だ。誰よりも努力してきたはずなのに……そんな思いが彼の心を掻きむしっていた。ふと時計を見上げる。21:24……、さすがにもう出ないと。深くため息をついた草野はボールを片付けて、非常口に向かう。扉には丸環タイプの掛け金。掛け金部分を下ろせば開かなくなり、丸環を捻れば掛け金がロックされて、完全に施錠出来る仕組みだ。
草野はカバンから釣り糸を取り出し、掛け金部分に引っ掛けて、上下に動かせることを確かめる。そのまま外に出て、閉じた扉の隙間から出した釣り糸を思いっきり引っ張る。掛け金を下ろし、丸環にはめ込むように。ガチっという音がしたのを確認して、引き戸を引いてみると、扉は開かなくなっていた。草野はそのまま月明かりに照らされる釣り糸をハサミで切断して、カバンの中に入れた。
――これで、明日もバレない。
草野ショウヘイはこうして、夜間の無断練習を終えたのだった。月が雲に隠れ、辺りに暗い闇を落とし出す。じっとりした不快な空気が肺を満たしていた。
――この日を境に、草野ショウヘイは夜練にのめり込むようになった。さながら、悪魔に魂を売ったように。
◇◇◇
そんな日々が続いたある日のこと。学校にクレームが入った。夜間に体育館からボールを鳴らす音がすると。草野ショウヘイの心臓が大きく跳ね、血の気が引いた。自分のことだ、と。顧問は体育館に部員を集め、誰がやったのか名乗り出るように言った。草野は名乗り出ようとしたが、息が詰まった。バレたら退部になるかもしれない。自分からバスケを取り上げたら、いったい何が残る?
静まり返る体育館。顧問は深くため息をついて、誰がやったか名乗り出るまで練習禁止、と告げた。ざわめく部員たちに紛れて、草野は青い顔をして黙っていることしかできなかった。
「貴方が草野ショウヘイくん?ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
後日、芹澤ミヤコと名乗るポニーテールを揺らした女生徒がバスケットボール部に介入することになる。笑顔の奥にある鳶色の瞳は、草野の心の奥にある揺らぎを射抜くようだった。
人は努力する限り迷うものだ、と誰かが言った。なら、道を誤った者はどうすればいい?罪を償えば、救われるのだろうか。
月明かりの夜は、いつかの幻だったかのように。梅雨空は容赦なく雨を降らせていた。
つづく




