第5話 書斎
三歳となった私だったが、気ままに城内を散策できるほどの自由を与えられてはいない。
この前廊下を独りでに歩いていた時、ふと視線を感じた時があった。気配を掴むと、その視線の正体は阿呆のソロンだった。
……気付かぬフリをした。
この世界の知識を知るためにできる事があまりにも無かったため、メイドに我儘を言って書斎にて本を読ませてもらった。
あまり三歳の子供が地理の勉強をしようとしているなど不自然だろうから、コソコソと向かったのだが……。
「ぜ、全然読めない……」
「まだイザベラ様は三歳でございます。文字が読めないことを恥じる必要はありませんよ」
毎日「お可愛らしいです!」と言ってくるメイドが、にっこり微笑みながらフォローしてくれた。
まぁ、そうなんだが……そうじゃないんだ。
国も違えば文字も違って文化も異なるのは当然のことだ。全てが分かる魔法のようなものは無い。また一から勉強し直しだ。魔術の訓練をやっている場合ではない。
そういえばこのメイド、ナタリアというらしい。普段は落ち着きがあり、暗い茶髪を靡かせて王家に尽くしてくれている。
私は幼少から異様に手間のかからない子であったため専属のメイドというのは終ぞ付けられなかったが、こいつは私にずっとついてきている。
この際だ、一言文句でも言ってやろう。
「ナタリア、私に可愛いと言うのをやめよ」
「え! ど、どうしてですか!?」
何を慌てているのやら。
私は身体は女子でも心は男だ。可愛いと言われて喜ぶ質ではない。
「そんな事を言う暇があったらソロン兄上の勉強にでも付き合ってやるといい。あの馬鹿者はその手の物が随分と苦手そうだ」
「ソロン王太子殿下は首席でアストリア王立学園の入学をされたようですが……」
は!?
あの妹バカのソロンが、首席……?
世も末か。
「……もういい」
「はい!」
ナタリアは満面の笑みだ。
諦観。
「ところで、イザベラ様はなぜそのような口調なのでしょうか?」
む、やはり不自然だろうな。前世からの口調というのは取ろうにも染み付いたカビのように取れないものなんだ。
今更変えることはできない。理由を与えてやらねばならないな。
「…………」
くそ、良い案が思い浮かばん。
大体、ただのメイドが王族の私に「その口調はなんだ」と言うこと自体がおかしいのではないか?
母上に報告して怒られてしまえ。
……いや、あの母のことだ。
無表情で「捨て置きなさい」と言うに違いない。
私の味方はアルベールだけだ。
「……早い思春期だ」
「イザベラ様、貴女様はまだ三歳でございます」
くそ!なんなんだコイツ!
その時、書斎の扉が開く音がした。
助け舟か……!?
「よっ!イザベラ。兄様が遊びに来たぜ」
馬鹿者のソロンだ。
私はまた白目を剥いた。
「イザベラは勉強熱心だな!」
「いえ、それほどでも」
「イザベラ、兄様とおままごとで遊ばないか?」
「結構です」
「イザベラ、お前のために可愛い洋服を取り寄せたんだ」
「お構いなく」
「イザベラ、俺と一緒に……」
ええい、邪魔だコイツ!お前が遊びたいだけだろう!
素っ気ない返事をしていてもこやつはニコニコと輝かんばかりの太陽のような笑顔を崩さない。どんな精神力をしているんだ。
私はこの世界のことが知りたいから文字の勉強をしなければならないのだ。
勉強の邪魔を……………………あ。
「ソロン兄様」
「お兄ちゃんって呼んでみてくれ」
「……ソロン兄様、勉強をしたいのです。教えていただけますか」
「!!!!!!」
私はついさっきソロンが学園首席入学者と聞いたことを思い出した。登場の仕方が強烈で全ての思考が飛んで行ってしまったが、ギリギリ思い出せた。
途中のお願いを無視したにも関わらず表情を崩さなかったソロンが、愕然とした顔を顕にした。
「も、もちろんだ!何か知りたいことでもあるのか?」
ほら、食いついてきた。
文字が読めない私の代わりに、色々教えていただこう。
この世界の名前は『アエテルナ』だ。
私が産まれたこのアストリア王国は、アエテルナ西大陸の南東に位置する広大な王国らしい。
アエテルナは、生前の私がいた世界と同じ名前だ。つまり、知らない世界に行き着いたわけではない。
だが、前世にはアストリア王国なんて国は存在していなかった。カストルム帝国という名も仄めかしてみたが、ソロンは知らないようだ。
少なくとも死後数百年は経っていることは確定。聞いたことがない国にいるということは、前世よりも過去にいるということは起こりえない。
だが、アストリア王国は建国から二百年以上の歴史がある。
未来だ。
私がアーサーだった頃よりも数百年は未来に生きている。
気になる技術的発展だが……不思議なことに退化していた。魔王戦で冒険者連中が使っていた魔道具や、魔力に頼らない道具などは全て無かった。
おかしい。
魔術についても聞いたが、今のアエテルナには魔術という概念は存在しない。
だが、魔法は存在していた。
これも、ありえない。
前世では、魔術とは魔力を媒介にした術式を組み上げ事象を起こす、体系的に引き継がれてきた技術だ。
だが、魔法は違う。
魔法とは、神が起こす奇跡の総称だ。
そこに、術式も技術も存在しない。ただ神に願うだけで事象が起こるのだ。
今世の人々は何の代償も生贄も無しに魔法を行使しているらしい。
たかが数百年で魔術体系がここまで変わるということが起こり得るのか?我々の時代でも三百年前の魔術まで遡って研究されていたはずだ。
違和感を禁じ得ない。寒気がするほどだ。もしかしたら、思いもよらないような事が、世界の何かが大きく変わっているのかもしれない。
だが、一つだけ分かることはあった。
『詠唱』だ。
魔法を扱う者は、この『詠唱』とやらをしてから魔法として対象に何らかの事象を発生させるのだとか。
「ソロン兄様、魔法を見せてください」
「えぇ〜。……父上には黙っていてくれよ?」
「考えておきます。早く見せてください」
私は早く見たいのだ。その『詠唱』を。
そして、ソロンは詠唱を行った。
『我のゆく道に銀の星の雫あり、偽光』
「!!」
本当だ。術式を介さず、事象のみを引き起こしている。書斎がかなり明るくなった。本の読みやすさは比べ物にならないな。
『詠唱』が必要とはいえ、現象だけを見れば大変便利なのは間違いない。願っただけで頭で考えたことが現実に起こるのだ。操作難易度などもあるため完璧に制御すること自体に才能や技術が必要なようだが、私の黒の魔術を見られたら理論上はコピーできてしまうかもしれない。
しかし、これは不完全だな。
理由は三つある。
一つ目は、魔力消費が大き過ぎることだ。
ソロンの詠唱が完了した際、思っていたよりも多くの魔力が飛散していった。ただ部屋を明るくするだけの魔法でそんなに魔力が飛んでいては、攻撃に転嫁した際の魔力消費は如何程か。
私の黒い力など、それこそ神にでもならなければ魔法として再現することは不可能だろう。
二つ目はやはり『詠唱』だ。
敵から急に襲われた時、ちんたら詠唱しているのか?剣術師が学ぶものではないだろう。使うとしても、事前に詠唱を済ませ、魔法を発動しておいてから対処しなければならないだろう。そんな魔法があるのかどうかは不明だが。
そして最後、力の源が不明だ。
詠唱をする事で事象を発生させるなど聞いたことがない。なぜその詠唱がキーになるのかが不明だ。魔術においては術式を組み上げ、そこに体内の魔力回路を通じて魔力を流すことで術式の通りに効果を発揮するという分かりやすい根源があった。
魔法はどうだ。詠唱することにより、口に出した願いが現象となるなどおとぎ話の中でしか聞いたことがない。
人によっては神に祈ることで事象を発生させているらしい。全く意味不明だ。
力の根源が解明できていない力など、不可解極まりない。
そして、ほんの僅かだが、セラフィエルの匂いを感じる。
これを扱うには、躊躇う理由があり過ぎる。
「この光を灯すといった程度の魔法は、どれぐらいの人間が使えるのですか?」
「そうだな……貴族はまず間違いなく使えるだろう。魔法の訓練を受けてるからな。平民の中でも独学で扱える奴らはそこそこ多い。要するにな、珍しいモンでもなんでもねぇよ」
ふむ……。頭痛がする思いだ。
やはりアルベールには魔術を教えることにしよう。教本も何も無いので私が覚えている限りになってしまうことがネックだが、訳の分からん力に頼るよりはよほど良い。
「ソロン兄様、助かりました」
「可愛い妹のためだ。なんでもしてやろう!」
何でも、か。
「ならば、また一つお願いが」
「お、なんだなんだ。何でも言ってみろ。兄様が全て叶えてやるぞ?」
何でもと言ったら何でもだな。
ソロン、男の約束だ。二言はあるまいな?
「私に剣をください」
したり顔の私とは対照的に、ソロンは顔を歪めていた。