中編 泡祈の水苑と逆さ虹の呼吸
逆さ虹の階段を降り切った足先を、生温い水が包む。匂いは蓮蜜と鉄錆が溶け合った甘苦い湿気。底に広がるのは虹葬水苑――失恋者の涙で点る蓮灯が七彩の符号を無数に浮かべていた。
水膜越し、蓮台の中央に少女人形が佇む。白磁の素肌に黒い波紋、藍の瞳孔が光を屈折させる。
「私は蒔澄鴉猿。恋と恐怖を標本瓶に詰める研究者」
冷ややかな声。胸の鍵穴が脈を刻み、感情を測定しているらしい。
「双層水都に空いた穴を塞ぐには《哀滴》《悦泡》《恐血》の三標本を等量混ぜる必要がある」
TamarinPopette がマリンバ槌を肩に笑う。
「three samples, let’s collect. 君の歌で蓮を揺らせば哀滴はすぐ採れる」
私は蓮灯の上へ膝をつき、昨夜の卒業配信で流した涙を思い出す。承認欲の塩味が喉を満たし、両眼からこぼれた雫が藍へ濃度を増す。鴉猿が受け皿で受け取り、《哀滴》となった。
「次は悦びの発泡。失恋直後の君には在庫が薄い」
そう言った瞬間、Tamarin が背後から片腕を回し、濡れた指で私の耳朶を撫でた。
心拍が 108 へ跳ね、熱が頬に集まる。気泡が耳元で弾け、鴉猿が銀筒で即採取。
「《悦泡》確保」
三度目なのに、人工呼吸とはまた違う甘さが舌先に残った。
残る標本を得るべく水苑の最深へ。藻が絡む沼で水面が盛り上がり、竜とも鮫ともつかぬ影――**水喰鰭**が現れる。
「恐血をくれてやる。だから彼女を噛むな」
Tamarin の低音が水底を震わせる。影が咆哮、私の膝が竦む。
≪未練の泡を切り裂け≫――胸のクリックが命じ、私は声を刃に変えた。
タリラ/ドン/タリラ/ドン
既読/未読/斬って/流せ
マリンバの重低音が追撃し、水柱が竜の鰭を裂く。紅潮が噴き、鴉猿が銀筒に充填。《恐血》が揃った。
膝が折れ視界が暗転しかけたとき、Tamarin が肩を支え、唇に酸素を押し込む。
「third breath, still sweet?」
頷くと耳内で波が拍を刻み、恐怖が薄まった。
三標本を石皿へ注ぐと液面が虹膜を張る。鴉猿が告げる。
「恋と恐怖、偏れば溺死。混ぜながら名を与えよ」
私は鏡のような液面に映る自分の目――涙痕と熱で赤い頬――を見下ろす。
「名前は《Tarira・Blue・Apnea》――既読疲労を溺息で潜る歌」
Tamarin が皿縁を叩く。液が泡立ち、七色の蒸気となって空洞へ飛ぶ。
「穴が塞がりきる前に終水宮へ呼吸を届けよう」
蓮灯が一斉に消え、足下の水面が鏡となる。私たちの影が重なり合う。
鏡面を踏むとガラスが割れ、真下に夜空が開く。水時計の振り子が逆さに揺れ、滴が落ちるたび遠雷のような通知音。
「揺歌、もし未練の洪水に飲まれたら?」
「その時は――」私はTamarinの指を絡め取る。「四度目でも酸素を分けて」
彼女が笑う。潮と虹液の匂いが胸で泡をはじけさせる。
足元に光のステップが浮かび、終水宮への降下路となる。
次の一拍で、恋と恐怖と歌が同時に潜水する。
――中編・了