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前編 水槽偏在世界で恋を卒業する――タリラ×波紋×血潮クリック

挿絵(By みてみん)

 *(しずく)*がスマホの割れた画面に落ちた刹那、世界が水音でひっくり返った。

 硝子の円筒が私を囲む。青い水柱がゆらぎ、光源のない薄光が肌を鈍く照らす。肺は呼吸を許しているのに、胸の奥へ浸みこむ冷気は海底のぬめりを孕んでいる。

 「――ここ、どこの通知センター……?」

 縋猿(すがざる)揺歌(ゆうか)。昨夜、生配信で“恋愛卒業式”を宣言し、既読監視アプリをアンインストールしたばかりの私は、知らぬまに水槽のインテリアになっていた。


 水のゆらぎ越しに人影が近づく。長い銀髪が波紋に虹を差し、手にはマリンバ。ウェットスーツのような漆黒の衣――その少女は、のちにTamarinPopetteと名乗る。

 「hello, drowned singer. 呼吸が浅い」

 水を透した英語が、聴診器のように私の肺活量を測りながら届く。彼女は宙でくるりと回転し、裸足で硝子壁を蹴った。

 派手な音もなく亀裂が走り、まるで水槽が皮膚を脱ぐように割れ――


 バシャアッ。

 私たちは夜の桟橋へ吐き出された。潮と鉄錆、藻に焦げた虹液の甘苦い匂い。

 けれど私は膝をついたまま息が吸えない。水槽で飲み込んだ海水が気管を焼き、視界が暗転しかけた。

 すぐに Tamarin が私の肩を抱え、軽く顎を持ち上げる。

 冷えた塩味の唇が重なり、胸に押し込まれるひと息。

 潮の匂いと微かな甘さが肺に満ちた瞬間、世界がふっと明るく戻る。

「good, 呼吸は戻った。君の BPM は 88、まだバラードだね」

彼女は濡れた手で頬を包み、今度は額をそっと重ねた。星が揺れる銀髪越しに心臓が拍を早める音が聞こえる。


 「ここは双層水都(ディプロポリス)。上層は生者、下層は失恋と未練の影。君のタリラ通知がここまで響いてきたから、迎えに来たの」


 言葉の終わりと同時に桟橋の下が鼓動した。

 タリラリラリラ♪――低い心臓音が水を震わせ、青黒い波が渦を巻き、螺旋階段のように口を開ける。

 「鐘の鳴源を止めれば、君は帰れる。案内料は一曲。君の声で」

 私は割れたスマホを握り直す。昨夜、既読スナップショットを保存した悪癖込みで。

 「交渉成立。でも、先に呼吸合わせて」

 私と Tamarin は深呼吸三拍。吸い込む夜気には、鉄と潮と遠い雨匂いが混じる。共有された酸素が胸の奥で泡立ち、私の BPM が 88 から 96 へ――ほんの少し速くなる。


 階段を降りるごとに水が閉じ、背後の世界が鉛の蓋で封印されていく。闇色の螺旋は淵へと続き、藍より黒い段差に藻が貼り付き、足裏にぬめった感触を残す。

 反響水廊――壁一面のスマホが既読・未読の青光を泡に変え、タリラの合唱へ昇華している。Tamarin がマリンバの鍵を打ち、私の喉が応じる。


  タリラ/既読の泡を/息殺し

  未読/未練/流して/黙――


 声が水壁を揺さぶるたび、液晶が破れ、青い泡は音もなく弾ける。

 廊の最奥には半魚の影――潮羅(しおら)

 「鐘を止めたいか。甘い(しずく)をよこせ」

 甘い滴。脳裏に浮かぶ――雨夜、ハンドクリームの匂いと排気ガスが交ざった彼の手首。胸が鈍く痛む。

 Tamarin がマリンバを胸に構え、視線で促す。「未練は彼女の餌。渡したら溺れる」

 私は唇を噛む。けれど潮羅の爪が伸び、水を裂き、私の頬へ迫った瞬間――


 Tamarin が私を抱き寄せ、唇を重ねた。

 ひんやりした塩味と僅かな虹液の甘さ。肺に突き刺さっていた水圧が一気に弾け、酸素が脳を満たす。

 二度目なのに、心臓は初キスみたいに跳ねた。

 潮羅の影は紙人形のように崩れ、黒水に溶ける。水廊奥の鐘――灰色の金属で編まれた重鈴――が錆びた悲鳴とともに黙した。


 鐘の沈黙が水都全体へ伝わり、空いた穴から七色の光柱が噴き上がる。

 「鐘が消えて深い穴が空いた。塞ぐには色と鼓動が要る」

 Tamarin の声が水鏡に反響し、桟橋の夜空で光が弧を描く。逆さ虹が海底へ向けて伸び、波打ち際を染めた。

 「虹葬水苑(レインキープ)へ行こう。恋と恐怖を等量で混ぜ合わせ、穴を封じよう」

 私は息を整え、濡れたスマホを胸ポケットへ滑らせる。液晶の割れ目には、逆さ虹液が一滴、インクのように染みこみ、未読通知を薄紫にぼかしていた。

 「行こう。でも一つだけ確認。私の BPM、今いくつ?」

 Tamarin が耳許で囁く。「96。けど私と並べば――もっと上がる」

 頬が熱い。潮風が運ぶ焦げた虹液の香りが、遠い昔のキスの後味を洗い流していく。


 私たちは並んで桟橋の端に立ち、逆さ虹の根元へ足を踏み出した。水面は鏡を割り、七彩の階段が潜水灯のように点る。

 「穴の底で私が恐怖に攫われたら?」

 「share your breath again. 私が酸素を分ける」

 ――その言葉は海より深く甘い。BPM が 112 を超え、胸の中でタリラのクリックが再生を始める。

 世界が青と紫のグラデーションに融け、私と Tamarin の影を抱きこんだ。


 前編・了

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