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第三章

「初雪姐さん、あーん……」

「もう、またでありんすかえ?

たまには自分で食べなんし」

「えー」


あの日から、一月。

冬雪は変わらず、毎日妓楼に足を運んでくれなんした。いつもの、安心する笑顔で。

冬雪の笑顔が、わっちは好きでありんした。

だから、わっちも変わらず、笑顔で接していんした。


今は昼見世前の食事の時間。

わっちはお職ではありんすが、朋輩遊女との時間も大切にしていんす。朋輩遊女に、頭を痛めることは多々あれど、それでも一緒の見世にいる、仲間でもありんすから。わっちにとっては決して、敵なんぞではありんせん。

「あい、あーん。

はぁ……仕事中のしっかりした姿をこう……少しでも私生活に取り入れて欲しいでありんす……」

「えーだって、仕事は仕事、私生活は私生活。これが素の私だもーん」

「全く……」

「初雪ー! 見ておくんなんし! 見ておくんなんし!」

今度は別の妓から声が掛かりんした。はぁ……。

「落ち着きなんし! まずは食事を摂らないと!

わっちら上級遊女はお客様の前で食事が出来ないんでありんすから!」

「分かっていんすよぅ! でも好いモノ、盗れたんでありんす!」

「盗れたって、また……」

この妓が言う盗れた、は……お客の私物のことでありんす。要は、お客様の私物を盗む妓。

以前、本人にどうしてそんなことをするのか尋ねたところ……


『だって、わっちら上級遊女の客は金持ちばっかでありんしょう?

なら、好いモノを持ってるのは必然のコト……それをくすねるのが楽しいんでありんす!』


……と、眩いばかりの笑顔で説明してくれんした……。

まぁ、折檻もされないし、本人にそれでもお客様が付くのでありんすから、今のところ問題は無いのでありんしょう……仲間とはいえ、わっちも知らんぷりをしときんす。

「はぁ~! この簪! 誰にあげるモノであったのでありんしょうかねぇ~! うふふっ!

あ、頂きんすぅ~」

盗れたと豪語する簪を眺めてうっとりした後、ようやく食事にとりかかってくれんした。

……はぁ……。

「初雪姐さーん」

今度は何だえ。

「……」

今度は何でありんしょう……食事という一つの休息が奪われそうな(いえ、もう奪われていんした……はぁ……)そんな予感に声を掛けてきた妓の方に振り向くと……

「楼主さんが呼んでいんす」

「え?」

それは、新たな問題ではありんせんした。いえ、楼主さんのお呼びなら問題なんでありんしょうか? それでも。

「あい分かりんした。

食事が終わったら直ぐに向かいんす。

ありがとうござりんす」

したが、楼主さんから直々にお呼び……わっちは何も問題を起こした記憶がありんせん故、何の用事でござんしょう……?

……まぁ、取り敢えずは食事食事。問題妓だらけの妓楼。わっちの休息の一時を過ごしても、文句は言われんでありんしょう。


食事を終え、わっちは楼主さんの部屋の前へ。何を言われるのでありんしょう、と胸を鳴らせながら。

「初雪でありんす。失礼致しんす」

楼主さんの部屋へと入っていきんした。

「初雪。急な呼び出しによく来てくれたな。ご苦労」

「いえ、楼主さんの頼みとあらば」


楼主とは、この妓楼の経営者のことでありんす。忘八……仁・義・礼・智・忠・信・考・悌の八つの徳目を忘れた人――とも言われんす。それくらい非情でないと、遊郭の経営なんてやっていけないと。そう伝えられていんす。


そんな楼主さんに呼ばれるのは、お職であるわっちでも緊張はしなんす。

「楼主さん、今回はどのようなご用件でござんしょう……?」

わっちもこの世界に身を落として、遊女として独り立ちして八年。何を言われても……落ち着いていなくては。

「あぁ、まぁ悪い話ではない。あー……捕えようによっては、悪い話かな?」

「……?」

「初雪」

「あい」

コクリ……わっちは、小さく息を呑みんした。

「お前がここ……雪夜楼に来た際、お客は日向屋様だけで良いと言ったな?」

「あい、覚えていんす」

「それを、やめて欲しい」

「……え?」

その言葉に、わっちの頭は真っ白になりんした。雪夜楼に来て五年。五年間ずっと……冬雪以外のお客様を取ってない。それを、やめる……?

「ど、どういう事でありんすか? 楼主さん……!」

「……この見世も、問題を抱えた妓だらけではあるが、大見世で、それなりに名が通っている。

それで、この妓楼の最高位……お前を指名したいと話が来たんだ」

「……」

「いや、今まで本当は何回もあった。

最初は断ってもいたが、ここは遊郭。

最初の契約とは違うが……お前に日向屋様以外の客を取って欲しい」

楼主さんはそこまで言うとわっちの言葉を待ちんした。

冬雪以外のお客様を取る。つまり、冬雪以外に恋の夢を見せ、冬雪以外に抱かれる。

……そんなの、雪夜楼に来るまでは当たり前で。もう、この身体は――。

……わっちは、どうすれば。

……。

(……わっちだって、雪夜楼の女郎。雪夜楼の……お職。花魁。遊女なのでありんすから。

それに、冬雪と、完全な約を交わした訳ではござんせん。……)

「……楼主さん」

「はい」

「その話、お受けいたしんす」

わっちは、痛む胸を抑え、二つ返事でその話を了承しんした。




その日の夜見世。今日はまだ、新規のお客様を取っていんせん故、お客様は冬雪のみでありんす。

でも、それでも。

……わっちが冬雪以外のお客様を取ることは、冬雪に伝わってしまったようで。

「雪音!」

「……」

冬雪は、引手茶屋に着くなりわっちの源氏名を呼ぶのも忘れて、わっちに掴みかかってきんした。

「雪音! ねぇ雪音!」

「……」

「何で? 俺以外の客は取らないでって言ったじゃん!」

「……。

……わっちも、女郎でありんすから」

心を、殺して。冷たく言い放つ。

「俺が毎日来るって、毎日指名するって……!」

「……」

冬雪は、項垂れてしまいんした。

「俺……調べたんだよ……?」

……項垂れたまま、冬雪は語る。

「雪音が遊女になっちゃうって……吉原に連れて行かれたって聞いて……まだ禿だからお客は取らないって安心して……でも、雪音がお客を取るのが俺の予想以上に早かった。当たり前だよね、だって雪音美人だもん。

だから俺、雪音の源氏名を調べて、何処の妓楼に居るかも調べて……調べて調べて調べて……ようやく、ようやく見つけた! それなのに!」

冬雪が顔を上げる。その瞳には。

「雪音は、他の人と歩いてるんだもん……」

涙が……浮かんでいんした。

「……っ!」

わっちもその涙に引かれ、泣きそうになりんした。

どうすれば良かった?

楼主さんの話、断れば良かった?

それとも朋輩遊女のようにお客様を取らなければ良かった?

分からない。分からない。分からない。

……でも、それでも。

「……わっちは、遊女でありんすから……」

泣きそうになりながら、この一言しか、言えんせんでありんした――……。




あれから二日、経ち。

冬雪はあの後、逃げるように引手茶屋を飛び出して行って、それ以来、わっちに顔を見せなくなりんした。

……わっちは、後悔していんす。

それでも。それでも。

わっちは女郎で、呼出しの(おんな)

お勤めを、しなくては。

とはいえ、まだ新しいお客様は迎えていんせん。

したが、新しく迎えるお客様に粗相をしない為、お客様がいない間……冬雪も来ない間。わっちはお稽古に励んでいんした。

嗚呼良かった。遊女として学んできた事は、未だ色褪せてなかった。それが嬉しい事なのか、嬉しくない事なのか、分からないまま。


そして、或る日のこと。

「初雪。指名だ」

「え……?」

夜見世が始まろうとしていた時。

楼主さんから声が掛かり。

(わっちを、指名……?)

まだ、新しくお客様は取らない約束の筈。

そうなれば。わっちを指名したのは。

「あぁ、その顔。当たりだ。

――日向屋様がお前を指名だぞ」




……心の整理が、ついていないのに。

私は、貴方を忘れようとしていたのに。

――わっちも非情な女でありんすね。

でも、指名はお勤めをするということ。

わっちは冬雪を迎えんした。


今までと同じ通り、道中で引手茶屋まで冬雪を迎えに行き、茶屋で宴席を設け。

妓楼に移動した後の宴席も開き。

二人きりの、時間。


あぁ、思えば今日、冬雪は一度も笑わなかったし、わっちと言葉さえ交わしていんせん。

何、を。考えていなんすか。

いつもの笑顔でわっちと笑い合っておくんなんし。

いつもの笑顔で――わっちを安心させておくんなんし。

したが、冬雪にも考えがあって。

きっとそれが、わっちの前で笑わなかった理由。

冬雪がずっと、何を考えていたか。

二人きりになって、ようやくそれが分かりんした。


「雪音」

「……あい」

「考えは、変わった?」

冬雪は窓の外を見ていんす。そしてわっちを見ないまま、そう問い掛けてきんした。

考え、とは。わっちが別のお客様を取るか、取らないか。

「……変わっておざんせん」

わっちは毅然と出来ていたかは分かりんせんが、そう、答えんした。

もう、楼主さんとも交わした約束。

わっちは、遊女。

この運命は、変えられんせん。

嗚呼……運命といえば。

以前冬雪が、わっちらの名前が『運命』だと、そう言っておざんしたなぁ……。

「雪音」

わっちがふと、そう考えていたら――冬雪が、わっちを。

布団に、押し倒しんした。

「……え?」

冬雪は今まで口癖のように、枕を交わすのは夫婦になってからと言っていたのに。

嗚呼、それとも。

もう抗えない運命に、冬雪も諦めたのか。

それとも、それとも――……等と考えていると。

ドス、という音が、顔の横から聞こえんした。

目をそれに向けて――

「――え?」

私も流石に、背筋が凍った。


――短刀が、布団に。


私の顔の横に突き刺さっていたから。その柄は冬雪がしっかりと握っていて。

初めて冬雪が。刃物を取り出した。

あんなに優しい――冬雪が。

「ねぇ雪音。

雪音は自分は穢れているって思ってるの、知ってるんだ」

冬雪は淡々と話す。

「でも、もう穢れないように俺以外の客も取らないことも、知ってる」

刃物が、私の首元に当てられる。

「でも俺は雪音が穢れてるなんて思ってない。

雪音はいつまでも、綺麗なままだよ」

――私は、なんて言っていいか分からなかった。

自分が、どんな表情をしているのかさえも。

ただ――怖かった。

冬雪は笑っていなくて。

その目は寂し気な色をたたえながら、ただ私を見据えていて。

「ねぇ。俺、前言おうと思ってたんだ」

なに、を……?

「どうすれば、雪音と」

……

「ずっと一緒にいられるかって」

「ぁ……」

それは以前、冬雪がわっちの座敷で言っていた、『どうすれば』の続きだった。

「……雪音を身請けする為のお金はあるんだ。俺、頑張ったんだよ?」

身請、け……。

「でも、家族が身請けは駄目だって言うんだ。

俺は今すぐ雪音を身請けしたいのにね。

家族の言うことなんて無視したいよ。

けれどそうしたら縁を切るって言われたんだ。

そうしたら、俺の仕事もなくなる……雪音と、一緒に居られなくなる」

「ふゆ、き……」

「だから俺、考えたんだ。

どうすれば雪音と一緒にいられるか。

今ここで雪音を殺して俺も死ねば? そしたら、ずっと一緒にいられるのかな」

殺、して……。それは、二人で、心中すること……。

……嗚呼、もういっそそうした方がいいのかな。

そうしたら……私も、誰にも穢されない。

私の頬を、一筋、涙が伝った。

短刀に手を添える。

これが、私たちの終わり――

でも。

「……ごめん」

「え……?」

「ごめん……俺は雪音に、そんな顔をして欲しいんじゃないんだ」

そう言って冬雪は私から短刀を離し、その体を起こした。

「……今日は、もう帰るね」

冬雪はそう言うと座敷を離れようとした。

「待っ……!」

私は止めようとしたけれど――

「雪音」

冬雪の一言に。

「笑って」

そう言って笑った、冬雪に。

何も、言うことなんて出来なかった――……。




















あれから日が経ち。

わっちが、冬雪以外のお客様を取る、日になりんした。

……今日からまた、新しいお客様をお迎えしんす。まずは「初会」――。

……ここで「振れば」冬雪以外に抱かれずに済むのかな。そんな事を、考えてしまう。けれど。

「初雪花魁。初会の準備をお願いします」

「……あい」

時間は過ぎる。気が重い。それでも、やると言った手前やらなければなりんせん。

わっちは部屋を出て、初会を行う引付座敷へと向かいんした。


「初雪花魁のお入りです」

見世の若い衆の合図と同時にわっちは引付座敷に足を踏み入れんした。

……冬雪以外のお客様なんてほんに何年ぶりかのこと。

粗相のないようにしんせんと。

初会はつれなく。それでいてお客様の見立ても。

わっちは上座に座り、視線を逸らしつつお客様……主様を見んす。

主様の表情を伺いんすが……冬雪みたくデレデレではありんせん。それどころか、ちょっと不機嫌そうにも見えんした。

嗚呼……ここでも冬雪のことを考えてしまって……わっちは、雪夜楼に来る前の元のわっちに戻れるのでありんしょうか……?

いいえ、ここは廓。生きていく為には――いつか、冬雪と一緒になるまでは。頑張ってこの世界、生きていきんす――……。


初会を終えんした。

初会は遊女の方から話し掛けたりしんせん故、早く時が過ぎたように思えんす。初会の後は床入りはしたりしんせん。床入りは、馴染みになってから。だから、今日のお仕事はこれで終了でありんす。

……いつもなら、宴会の後は冬雪との二人の時間。それが無いのは、とても寂しゅうありんす。

でも、あれから一度も妓楼に来てくれていんせん。

……もしかして、冬雪とはこれで終わり……?

そんなの、そんなの嫌……! ……けれどわっちはこの吉原からは出られない身。ただ無常に時が過ぎるのを、待つしかありんせん――……。




初会を終え、この前の主様はまた「裏」を返しにわっちの元へ来て、そうして、今日は馴染みとなる約束の、登楼の日。

冬雪はその間、ほんに一度も来てくれんせん……。

……今日、私抱かれるんだよ? 冬雪以外の人に。嫌だ嫌だ嫌だ。冬雪がいい。冬雪に抱かれたい。抱かれたいのは、冬雪だけ。それなのに。

「嗚呼……」

……馴染みとなったお客様との宴会の前に、わっちは部屋に籠っていんした。

そうして……。

「うう……っ! ぐすっ……。う、うわあああん……!」

まるで幼子のように、泣き喚いてしまいんした。

冬雪。冬雪。冬雪!

逢いたい、逢いたいよぉ……!

「初雪……姐さん……?」

妹の禿が驚いて声を掛けるのも気にしないままに、わんわん泣いた。化粧なんてまたし直せば良い。

今だけは、冬雪を想って泣かせて……。


「初雪花魁。道中の準備をお願いいたします」

「……あい」

お昼にわんわん泣いた後、わっちは心の準備を整えんした。

わっちは遊女。わっちは花魁。この「張り」と「心意気」だけは大事にしいせんと。

したが……気が重い。

それでもわっちは道中の準備に取り掛かりんした。

伊達兵庫に結って貰った髪を確認し、化粧も直し、道中時の着物、打掛も確認し……。

全て確認し終え、問題なく。

「さて皆さん。よろしゅうお願いいたしんす」

そう声を掛け、道中時の高下駄に足を通す。

今回からは、また嘘で塗り固める毎日が始まるのね、なんて考えながら。


「ようやく、ようやくだ。待ち侘びたぞ」

「主様、わっちを選んでくれてありがとうござりんす。

わっちと楽しい刻を過ごしんしょう?」

宴会を終え、お引けの時刻。

宴会での主様は、冬雪と違い、何だか……そうでありんすね、ケチな御方だと感じんした。したが、どんな御方であろうともやって来た……床入りの、時間。

遂に、この時がやってきんした。

馴染みとなったお客様。わっちのこれからの……新しい主様。

さっきまで泣き喚いていたわっちとは違いんす。覚悟を……決めんした。

「雪夜楼は問題を起こす遊女ばかりだと聞いていたが……お職はなかなかに、上玉じゃないか」

「ふふ、ありがとうござりんす」

「……初会の時は愛想が無い妓だと思ったが……笑うと美人じゃないか」

「主様、申し訳ありんせん。初会は、遊女はつれなくしなくてはならないのでありんす。

わっちは早く、こうして主様とお話がしたかったのでありんすよ?」

「そうかそうか。お前さんにも事情があるのだなぁ」

主様と、布団の上で取り留めの無い会話を交わしんす。……その時になれば、体に染みついた作法や嘘が出てきいした。わっちは安堵していんす。これならきっと、やり遂げられる――……。

「さて、ではそろそろ……」

「あい、主様。

主様の愛で、わっちのこと、滅茶苦茶にしておくんなんし……?」

主様の耳元で、詞を囁く。

「ほっほ。気分がええわ」

主様が着物を脱いでいく。

その体は、冬雪とは全然違う。

冬雪――。

主様が服を脱ぎ終え、わっちの体に触れる。……少し鳥肌が立ちんしたが、知らん振り。それを感じ取られないように、言葉を交わす。そしてとうとう、わっちの着物をも脱がそうとした、その時。


『雪音っ!』


「……っ!」

冬雪が、冬雪のあの明るい笑顔が、脳裏に――。


「嫌っ!」


――――っ!


「あ……」

……体が、勝手に。

……主様を、拒みんした……。

「……は?」

……やってしまった。

どうしようどうしようどうしよう……っ!

主様、怒ってる。

こんな時の対処方なんて知らない。頭が働かない。いや違う。なんとか、なんとかしなきゃ。

必死に頭を働かせ、なんとか取り繕おうとしたが……。

「もう良い」

「え……?」

「もう良いと言っておるのだ!

何だ全く!

雪夜楼はやっぱり問題しか抱えておらんのだなっ!」

……主様はそう言うと、脱いだ着物を抱え、座敷を出て行きんした。

座敷には、わっちが一人、残されたままで……。

わっちはただ、茫然と座り込むことしか出来ないのでありんした。

けれど、それでも。

私の頭は、冬雪との約束でいっぱいだった――。




「初雪姐さん、大丈夫でありんすか……?」

「…………」

「……ずっとこんな調子。それ程堪えたんだろうね」

「初雪姐さん……出てきてくんなんし……」

「…………」

馴染みとなったお客様を拒んでしまってから数日。

わっちは、食事すらまともに摂らずに自室で引き籠ってしまいんした。

……こんなの、お職として失格よ。

朋輩遊女も、妹も、遣手婆も、楼主さんも。皆心配して部屋の前まで来てくれなんすが……わっちにはそれに応える気力さえ、湧かないのでありんした。


そんなことが続いて数日。ある日の昼見世の時刻。

「初雪姐さん」

こうなったわっちにもまだ、声を掛けてくれる仲間の遊女が。

「…………」

「襖越しに失礼いたしんす。

初雪姐さんに、どうしても会いたいという方が……」

「……誰」

「……日向屋様にござりんす」

「……っ!

通してっ! 通しておくんなんし!」

わっちは襖を大きな音を立てて開け、冬雪を迎え入れようとしんした。したが……。

「今は断りんしたよぉ~! 流石に急過ぎんしたし……それに、そんなボロボロの状態の初雪姐さんを見せるワケにはいけんせん」

「そんな……」

「だ・か・ら!」

「っ!」

「夜見世に、もう一度来て頂く形にしんしたよ」

「……っ!」

夜見世に……来てくれる。

冬雪に、逢える……!

「だから、取り敢えず、しっかり食事を摂りんしょう? 湯屋にも行って体を清めて。

ちょっと遅い時間にはなりんしたが、髪も伊達兵庫に結って貰って。初雪姐さん自慢の綺麗な着物を着て。美しい化粧をして。

いつも以上に綺麗な初雪姐さんを、中万時屋様に見て貰いんしょう?」

「……! うんっ!」

廓詞も忘れて。わっちは、久々に、心の底から笑いんした。


「皆さん。……お久しゅうありんす。久々ではありんすが……道中、よろしゅうお頼み申しんす」

あの後わっちは、言われた通りに、しっかり食事を摂り、湯屋に行っていつも以上に念入りに体を洗って。髪もお願いして結って貰い、着物も……雪があしらわれている意匠のを選んで。お化粧も、丁寧に、美しくなるようにして。

準備を。整えんした。

「あい!」

みんなは、わっちがこうして出て来るのを待っていてくれたみたいで。……ほんに、嬉しい限りでありんす。

「では……お願いします」

若い衆が見世の入り口の暖簾を開けんした。

そこには、わっちを見ようと待つ、吉原のお客様達。いつもの、光景。

わっちは深く安堵し、一歩を踏み出しんした――。




引手茶屋に着いた、途端。

「初雪」

声。

この、何よりも愛おしい声。

声の先に顔を向ける。そこには――。

「初雪」

冬雪が、わっちの元へ。

「ふ、ゆき……」

わっちは廓詞を使えずに、冬雪の名を呼んだ。

「ふゆ……っ」

「初雪」

名前を呼ぼうとしたのに……止められた。

「まずは、座って。

一緒に話をしよう?」

その笑顔は、優しいもので。

「……!

……あい……!」

久々の冬雪は、どこか大人びて見えて。

わっちは心の底から安心し、冬雪の隣に腰を降ろしんした。




「……雪音」

「……冬雪」

名前を、呼び交わす。

全ての宴会を終えて、いつも通りの、二人きりの、わっちの座敷。

「……」

「……」

……名前を呼び交わした後は、無言になってしまいんした。

宴会での冬雪は落ち着いていんした。

いつもみたくわっちに引っ付くでもなく、無性に語り掛けて来るでもなく。

ただ、わっちの隣で、笑顔を見せてくれていんした。

その間……あまり言葉を交わしていんせん。宴会も他愛の無い会話ばかりで。

私はもう――『嘘』を辞めた。

だから……言うなら、きっと今だ。

「冬雪。あのね……冬雪以外にとった、お客様のことなんだけど……」

「聞いてるよ」

「え?」

「聞いた。全部、聞いたよ。

お客さんを、拒んだことも」

「……そっか」

「それって、俺がいるから?」

「……うん」

もうとっくに気付いていた。わっちは、私は――

「……俺じゃなきゃダメ?」

「……ダメ。

ダメなの、もう。

私、もう冬雪じゃないとダメなの……っ!」

「雪音」

私は、力強く抱き締められた。

「ふゆ、きぃ……」

「俺、ここに来られなかった間、父さんを説得したんだ」

「え……?」

説得……って、何の……?

「父さんね、酷いんだ。

一緒になるのに、遊女はダメだって」

「……」

それはそうよね。お店を構えてる、更にそれが大店ならなおさら……。

「でも、相手は小さい頃から知ってる雪音。

だから俺は何度も何度もお願いした。

雪音と一緒になるって。雪音じゃなきゃダメだって。

俺が人一倍頑張る。必ず、みんなが納得いくようにするって」

「冬雪……」

「そしたらね、父さん、分かってくれた。だから……。

雪音。

ウチにおいで」

「……ウチ、に……?」

「うん。

さっき。昼見世の時。

楼主さんに話をしたんだ。

初雪を、身請けするって」

「……っ!」

……身請けとは。遊女のことを、遊女じゃなくすること。自分の妾や……妻にするということ。

冬雪が、私を身請け。それは。

「私、隣にいていいの……?」

涙が、浮かぶ。

「うん。

俺の傍に居て欲しい」

「でもそんなお金どこから……」

「俺、ずっと頑張ってきたから。

雪音を妻にする為に。その先もずっと、一緒にいられるように」

「本当に……私を、妻に……してくれるの……?」

「うん。

俺と、ずっと一緒に居て」

「……冬雪……っ!

ありがとう……ありがとう……!」

私は、冬雪を抱き締め返す。そうして。

「私、冬雪の妻になります……っ!」

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