言葉の森
「君は、偽善者だね」
夢の底から、私は必至で水面へ顔を出す、心臓が全速力で走った後みたいに苦しい。毛布を強く握りすぎて爪が痛かった。あの日以来、夢で何度その言葉に貫かれただろう。
あの日、国語辞典くんが放った言葉は、棘みたいにずっと私に刺さったままだ。
小学三年生の時だった。
「あーちゃん、ごめん。今日はエミちゃんと帰るね!」
昨日もそう言って、サキちゃんはカナちゃんと帰った。
「ううん、大丈夫」
どうにか口だけは笑う。
「じゃーねー、明日は一緒に帰ろう」
「うん」
きっと明日も違う子と帰るんだ。
一段一段ゆっくりと階段を下りていたら、上から誰かが駆け下りてきて踊り場に立った。
「君は、偽善者だね」
その顔にはなんの感情もなく、言葉だけが空気を揺らした。彼はそれだけ言って走って行った。私はランドセルから国語辞典を出して「偽善」という言葉を探した。
偽善=本心からでなく、うわべをつくろってする善行
その時は意味がよく分からなかった。でも嫌われるのはイヤ、一人はイヤ、一緒に話ができるだけでいい。だからイヤだなんて言えなかった。なのにどうして胸が痛いのかな? 私は家に帰るまで、涙が止まらなかった。
小学一年生の時に買ってもらった辞典を毎日読んでいたら、内容を全部覚えちゃったんだって。彼が使う言葉は小学生の私たちにはとても難しくて、男子がつけたあだ名は、国語辞典!それを初めて言われた時の彼は、涼しい顔をして「笑止千万」って答えた。それからは四字熟語ともたまに呼ばれるようになったけど、本人はまるで気にしていない。仲の良い友だちも特にいなくて、いつも一人で本を読んでいる。国語辞典くんは、一匹狼みたい。一人でも強い。でも近づくのは怖い。だから、それ以来話したこともなかった。そんな彼、夜風広司と私、日野灯がくじ引きの結果、文集係に選ばれたのは中学三年生の二月。このまま話さずに卒業できると思ってたのに、人生ってなんて残酷なの? ずっと避けてきたのに、私はついに、国語辞典くんと対峙することになってしまった。
放課後。後ろと前で向かい合って座る。彼の顔は、夢の中よりずっと大人びていた。
「えと、じゃあ、まずどんな風にするか決める?」
向き合って十分、彼が何も言わないから、私から話しかけた。
「気を遣わなくて良いよ。必要だったら声をかけるから」
「でも、話さないと分からないじゃない?夜風くんがどうしたいのか、私には分からないんだから」
一瞬きょとんとした顔をして、彼は頷いた。
「そうだね。ごめん、家族以外と話すのが久し振りすぎて。勝手が分からなかった」
「勝手?」
「それを行う時または使う時の、ぐあい。つまり、どう会話を進行したら良いか分からなかったということ」
「本当に生きる国語辞典みたい」
「今は広辞苑を読んでる最中なんだ」
「重たくないの?」
「ベッドで寝ころびながら読むから平気さ。卒業するまでに覚えるのが目標なんだ」
「じゃあ、高校では広辞苑って名前になるんじゃない?」
「光栄だね」
おかしなことに、スラスラと言葉が出てきた。そこには、良く見られたいとか、嫌われたくないとかそうゆうものが必要じゃなかった。
「まず、みんなの中学校の思い出についての作文と、クラスのアンケートを集計したのと、先生のコメントと、写真をいくつかと」
「好きな言葉を書いてもらうなんてどうだろう?」
「言葉?」
「四字熟語でも良いし」
「夜風くんは?」
「勧善懲悪かな」
「なにそれ?」
「水戸黄門が昔から好きでね、この紋所が目に入らぬか!って言うセリフの紋所が分からなくて、親に訊いたら、自分で調べなさいって国語辞典を渡されたのが、辞典を読み始めたきっかけだったんだ」
「そうだったんだ」
「時代劇って懲らしめてやりなさいとか難しい言葉が多かったから、調べて改めて観ると、すごく面白くて、父親が持っている本も勝手に読んで、辞典で調べて読んだ。それでも、良く分からないことがあった。例えば、友達=友人。友。 友人=友達。友。 友=友達。友人。志・性向などを同じくするもの。仲間。 調べた言葉に載っていた言葉を調べたら、先に調べた言葉が載っていて、何個も言葉を巡ることになる。それを知りたいのに、最悪見つからない時もあって、辞典の堂々巡りには困った。あとは、そういう状況になったことがなくて、理解しきれなかったり。全部覚えても、歯痒いことが多かったよ」
「辞典の堂々巡りかぁ。私も読んでみようかな」
「分からない言葉を調べる方が楽しいと思う。僕は特殊だから」
「そう?やってみないと分からないじゃない」
「いや、あ行で眠くなると思うよ」
「さっそく、今日やってみるから!」
「どうぞどうぞ」
「じゃあ、内容はそんな感じで、また明日!」
足取りが軽い。こんなに人と話すのが楽しかったのは初めてかもしれない。
「灯~、グッドタイミング、一緒に帰ろ?」
振り返ると部活帰りらしいサキがいた。
「話し合いどうだった? 国語辞典じゃ話進まなかったんじゃない?」
「…うん。まあ」
サキの前では取り繕うのが条件反射みたいになっているんだ。
「それよりさ、駅前にパンケーキの美味しいカフェが出来たみたいよ、今度食べに行かない?半分こして、お金も半分こしてさ」
「うん、そうだね」
大して重要じゃない会話が、なんだか色をなくしたみたい。パンケーキは自分の分だけで良いし、一人でも平気だ。でも、サキは色んな味を食べたいから、私を誘う。自分がそうしたい時だけ、私を誘う。
「作文、アンケートは来週の金曜日までお願いします。あと、各自好きな言葉も書き出してください。一文字でも、四字熟語でも、一文になっても良いので」
「うわー、国語辞典トラップじゃん」
「面倒くさ!」
「文句は文集を作る係になってから言ってください」
夜風くんがさらっとそんなことを言ったら、誰もなにも言わなくなった。一匹狼強し。勧善懲悪精神、格好良し。
「灯~、好きな言葉決まった~?」
「うーん、勧善懲悪かな」
「なにそれ、かっこいい!あたしもそう書こうかな」
「ダメだよ。だって、それは国語辞典くんが好きな言葉で」
「え?じゃあパクったってこと?」
「そういう訳じゃ」
「ちょっと引くわ、パクりはダメじゃん」
その言葉になにかがぶちっと切れた。
「なによ、自分だってパクろうとしたくせに、いつも都合の良い時だけ話しかけてきて、それ以外寄ってこないじゃない!そんなの友達じゃない。私はそんなの要らない!」
我慢しきれずに叫んだ言葉で、教室はシンと静まり返っていた。私の足は逃げるように廊下へ動く。
ああ、嫌い!嫌い!嫌い!サキより私は私が嫌い!最初に夜風くんに泥を塗ったのは私だ。好きな言葉なんてない。ないんだ私には。
生まれた滴は、すぐに頬から風に飛ばされてどこかへ飛んで行った。
屋上への扉の前に辿り着いて、はあはあ激しい呼吸を繰り返す、空気が足りな過ぎて、吐き気もしてきた。
「はあ、はあ………日野ぉ」
その時、後ろから掠れたかすかな声がして、私が振り返ると、耳まで真っ赤になってる夜風くんが、階段の踊り場で膝に手を付きながらこちらを見上げていた。
「ごめんなさい、私」
「はあ、全力で、走ったの、はあ、久し、振りで、はあ、息、仕方、分かん、ない」
「私、私には好きな言葉なんてなくって、ただ夜風くんの真似をしただけで、そんなんじゃダメで…」
「どう、して、ダメ、なの?」
「だって、そんなの自分の言葉じゃない。私ずっと誰かの真似をしてきただけ。良いなって思ったことを」
夜風くんは、背中を伸ばして深呼吸をした。
「ふー。やっと、まともに息が出来るようになった。あのさ、長いこと国語辞典とか広辞苑とか読んできて思ったことがあるんだ。この世界には自分の言葉なんてないんだって。言葉自体誰かが作った物だし、そうじゃなくても繰り返されて出来た物で、誰の真似もしないで生きるなんて、無理なんだよ。僕たちにできることは、どの言葉を選んで使うかということだけ。だから、気に入った言葉を恥じることはない。逃げることもない。日野が選んだ言葉が日野の言葉になるだけだよ」
なんでわざわざ追いかけてきて、そんなこと言うの? 余計ぼろぼろ泣けてきた。
「でも、私は偽善者なんだよ」
「うん?」
「夜風くんが言ったんじゃん」
「それって、そんなに気にすることかな? 装おうとも人に優しくあろうとすることは悪いことじゃない」
「へ?」
「僕にとっては褒め言葉だよ」
こんな、こんな殺し文句ありますか?
「私、帰る!先生に言っといて!」
恥ずかしさに耐えられず、私は階段を駆け下りる。頭は並行してぐるぐるぐるぐる。ただいまも言わずに、ベッドにもぐりこんで、オーバーヒートしそうな頭と心を布団で包み込んだ。寝る寝る!寝るんだ!もう!そう考え続けても、自動的にリフレインされる回想で何度も悶えて、結局寝れず、夜になって、私は寝るのを諦めて窓を開けた。キンキンに冷えていこうとする空気、風が刺ささるように痛い。
「……夜の風か」
ああ、夜に色がついていく。好きな言葉、見つけたけど、文集に書くのは恥ずかしすぎる。
今夜の風は頭を冷やすには丁度良い寒さだった。
「灯~、昨日はごめん。あたし考えなしだからさ。思ったことすぐに言っちゃうんだよね」
「ううん。私の方こそごめん」
サキが先に謝ってくれるなんて思ってなかった。私が一方的に悪いように思ってたから。本当はもっとずっと大人だったんだろうか。全然怒ってやしない。
「私ね、本当は小学生の頃、一緒にちゃんと帰りたかったんだ。本当は嫌だったんだ」
「そうだったの?あたし、誘われると断れなくて、でも灯は許してくれるから大丈夫だと思ってた。も~ちゃんとそうゆうことは言ってくんないと分かんないよ~」
「ごめん、嫌われるのが怖くて」
「幼稚園からの幼馴染っしょ、嫌いとかもう考えないよ~、バッカねぇ」
飾らない言葉を選んだら、こんな言葉を貰えるなんて、私ってめっちゃ恵まれてたんじゃん。今まで、なんて勿体ないことをしてきたんだろう。
朝礼のチャイムギリギリで、夜風くんが来た。私は思わず顔を背ける。昨日のことを考えそうになって、今度は九九を数える。彼の席は、私の右斜め後ろ。ああ、なんだか、右半身だけじりじり熱い。
金曜日の放課後、みんなから提出されたものを整理していた。それぞれの好きな言葉はその人の心みたいで、この企画は当たりだと思った。
「ねぇ、世界って言葉の森なんじゃないかな? だって、みんなの心の中も、こんなに言葉でいっぱいじゃないか」
書かれた言葉を愛おしそうに夜風くんが指でなぞった。
ああ、言葉が木のように茂っていく。
「じゃあ、夜風くんは大木だね。もう樹齢うん百年の。それくらい言葉が詰まってる」
きょとんとした顔をして、夜風くんはなるほどっと言った。
「自分が木だったとは考えつかなかった。日野は面白いな」
そう言って、笑うんだもの。私の心臓がそろそろやばい。
「ところで、国語辞典は読んだの?」
「忘れてた!」
「そんなことだろうと思ったよ」
「それどころじゃなかっただけで、今日こそ読むよ!」
「じゃあさ、ともしびって調べてみてよ」
「ともしび?」
私は机の引き出しから、国語辞典をひっぱりだしてページをめくった。
灯火=ともしてあかりとする火
「私の名前と同じだね。これがどうしたの?」
「明るすぎないのに、確かにあるというか、なんだか優しい言葉だと思って」
「私も最近になって、良い名前だなって思うようになったよ」
「えと、そうなんだけど、そうじゃなくって」
「?」
すっと目の前に紙が差し出される。
夜風広司の好きな言葉「灯」
心臓の鼓動が破裂しそうほど早鐘を打つ。息を吸うことすら忘れてしまいそう。
私は自分の紙を探して、後ろを向いて震える手で言葉を書いた。
日野灯の好きな言葉「偽善者」
それを見せたら、夜風くんはすこし困ったような顔をした。
「えとこれは、初めて貰った言葉で、前はとっても怖かった言葉で、今はね、今はとても嬉しくて好きな言葉なの」
照れた私を見て、夜風くんが笑った。
二人の周りは、青々と葉を茂らせた木で満ちていく。
この世界は言葉の森。
地の果てでも、海の果てでも、人がいれば、そこには、
いつだって森ができる。