第152話 一歩
「ん……。ここ──ごほッ、がは……ッ……!」
目覚め、意識的な呼吸を開始するや否や呼吸苦がクロを襲う。
気道を通る空気が多くなった影響で、肺内に湧出していた血液が空気の通過を阻害。
それがクロに喀出を促し、吐血へ至らせる。
「……がっ……は、はッ、はッ……」
胸部が激しく痛みを訴え、継続的な拍動性の刺激がクロを苛む。
ベッドと床が大量の血液で汚れている。
クロは息荒げに症状の落ち着きを待った。
どれくらいそうしていただろうか。
しばらくして扉の開く音が聞こえた。
発生源はクロが現在居る部屋から壁ひとつ程度隔てた向こう側からだ。
ここに来てクロはようやく状況把握に意識を回せるようになる。
何がどうなってこんな場所にいるのか。
覚えているのはリバーに胸を貫かれたあたりまで。
「リバー、の、野郎……」
こうして痛みがあることから、とりあえず死ななかったことは確か。
そうこう考えながら身構えていると、ガチャリと扉が開いた。
「あ……!」
ソフィアラが顔を覗かせてクロと視線が合うと、彼女は荷物を投げ出して接近を試みた。
が、クロの周囲に血液が散乱している状況を見て足を止める。
「クロ……目が、覚めたのね」
「ごほっ、はい、そうみたいです」
「よかった……」
クロがそう答えたあたりでソフィアラの頬を涙が伝った。
そのままソフィアラは顔を覆い隠して肩を震わせている。
「えっと、心配かけてすいません……?」
「おいおい、なに嬢ちゃんを泣かせてんだ」
そんなソフィアラの背後から姿を表したのはボサボサな白い髪の痩身男性。
二人で行動していたこと考えると彼とソフィアラの関係は悪くなさそうだ。
クロが眠っている間に知り合ったのだろうか。
「えっと、どちら様ですか?あと、ここはどこですか?ごほっ……」
痛みを耐えつつ男に尋ねる。
「話せば長くなる。クロカワ、お前はまず身なりを整えてこい。洗面所は部屋を出て左、俺っちの後ろだ」
「あ、はい」
クロは部屋を出ると、驚くほど荷物のない一室が広がっていた。
というものの、そこまで広くない。
むしろ狭い。
なおかつソファと机がそれぞれ一つあるだけで、他には衣装掛けが置いてある程度。
ミニマリストかと疑うような室内だ。
それに、ところどころに塵埃が吹き広がっており、壁紙も黄ばみや黒ずみが数多ある。
こんなところでソフィアラと男が生活を?
クロにだんだん嫉妬じみた感情が湧いてきた。
そんな考えを振り切るようにして指定された洗面所へ。
洗面所もさっきの部屋同様に小狭い。
そこには金属棒の伸びた洗面台と、衣類を入れておくカゴが置いてあるだけ。
蛇口を思しき金属棒にクロが四苦八苦していると、
「触れてる間だけ水が出るぞー。でもあんま無駄遣いすんなよな」
男からそんな声が飛んできた。
それを受けて水を放出させ、クロは汚れているであろう身体の箇所を洗い流す。
あいにくここには鏡が置かれておらず、また魔法も用いない原始的な方法にクロは、ここはどんなど田舎なのだと辟易とする。
同時に魔法を使うという考えが思い浮かんだため、そのまま魔法を使用した。
だが、なにも起こらない。
「ロード、ロード。……あれ?ロード!」
「なにやってやがる。終わったらさっさと戻ってこい」
クロの声が聞こえていたらしい。
今度は早く戻れという催促に、随分身勝手な男だという印象をクロは抱きながら洗面所を出た。
戻るとソフィアラは落ち着きを見せており、薄汚れたソファに腰掛けている。
男はコートを着て立ち尽くしたままだ。
「えっと……」
「そこに座れ」
「はい」
言われた通りにソフィアラの横へ。
クロが相当長い間眠っていたのか、随分とソフィアラの身なりが変わっている様子だ。
ソフィアラの衣類は砂場で遊んだのかと疑うくらいに汚れているし、綺麗だったはずの髪も随分と痛んで塵埃を纏っている。
また頬もやや痩けているようにも見える。
「ハジメ=クロカワ、お前のことはそこの嬢ちゃんから聞いてる。俺っちはデイビス。これから長い付き合いになるだろうから覚えておけ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「あと、これを飲んでおけ。痛み止めだ」
クロは投げられた錠剤を安全なものだと思い込み、洗面所で水と一緒に流し込む。
それにしても水はまずいが、今は黙って飲む干す。
クロは未だに自らの置かれている状況が分からない。
が、それもここから明らかになるのだろう。
クロが戻るとデイビスが口を開いた。
「じゃあざっと説明するか。まずここは貧民街って場所で、お前の知ってる世界じゃない。まぁ、地上とは隔絶された異空間とでも覚えておけばいい。そんな場所にお前と嬢ちゃんは送られてきたわけだ。ここまでは良いか?」
「えっと、良くはないんですけど……はい、そう理解します」
隣のソフィアラは無言のままデイビスの声に耳を傾けている。
驚きがないことから、既に見知った情報なのだろう。
デイビスが続ける。
「で、貧民街っつうと、平たく言ったらただの地獄だ。苦しむことはあっても楽をすることはまずもって不可能だ。だから今までの地上の生活とここでの生活が一緒だと考えんなよ」
「……?はい、了解です」
なぜクロは黙ってデイビスの言葉に従っているのだろうか。
妙な違和感を抱きつつ講釈は続く。
「んじゃま、とりあえず『ピック』って唱えてみろ」
「……ピック?」
クロは聞き返しただけのつもりだったが、突如クロの目の前に茶褐色のプレートが出現した。
「見せてみろ」
クロは言われた通りにプレートを渡す。
そこへの記載はこれだ。
======================================
《Name》Hajime Kurokawa
《Sex》Male
《Age》21
《Ability》Magic(All:middle, Ordinary), UNKNOWN
《××××》UNKNOWN
《Skill》
《Digit》310/620
======================================
「初期値で310かよ。そんで嬢ちゃん同様に不明項目があんな。やっぱ不明項目はディジットにも影響しねぇのな」
「えっと、なんですか?」
「これがお前の全てだ。『リーブ』で消せるから、普段は出さずに居ろ。無くしたら死を覚悟するくらいには大事なもんだ」
「リ、リーブ……!」
クロは慌ててそう唱える。
すると初めからそこにはなにも無かったようにプレートが掻き消えた。
「今の二つが貧民街で唯一使用可能な魔法だ。マナ事態は充溢してるんだがな、その他一切の魔法発動は不可能だ」
「魔法が使用できない?」
「そういう世界だ。文句言っても始まんねぇよ。次にモノの取引だが……これは順次嬢ちゃんが教えてやれ」
「分かったわ」
「教えなきゃならない内容は挙げればキリがないんだが、ここでのあらゆるの行為はそのカードを使えば大抵解決できる。あとは生きて生きて生き延びろ。俺っちから言えるのはこれだけだ」
「すいません、全然理解できないです」
「だろうな。こればかりは実際に生活して慣れていけ」
「そうですか、分かりました。えっとこれだけは聞いておきたいんですけど、ここから地上?に出るにはどうしたら良いですか?」
「……」
これにはデイビスは黙る。
隣のソフィアラも同様だ。
「あれ……?どういう反応?」
「クロ、落ち着いて聞いてね?先に言っておくけど、ここから出る手段は現状存在しないわ。あるとすれば、何年に一度かわからない殺し合いに勝利した時だけ。それも何年後じゃなくて何十年後かもしれないの。だから私たちは一生ここにいないといけないかもしれないのよ」
「……!」
クロの動悸が異常な早まりを見せた。
下手したら一生訳のわからない空間で生活しなければならない?
残してきた友人たちとも別れ、シロたちとも会えず、そして地球に帰還する算段すら立たない?
では、なにをモチベーションに生きなければならない?
様々な疑問と、不条理に対する怒りが同時にクロの中に湧き上がる。
「うッ……」
突如胃酸が逆流を見せた。
クロは慌てて洗面所へ走り、空の胃から胃酸だけを何度も吐き続ける。
「クロ、大丈夫?」
ソフィアラが声をかけたクロは、一気に憔悴した状態に追いやられていた。
それもそうだ。
教団による理不尽な暴力に耐えた結果の仕打ちが、過酷な異空間で生涯を終えること。
そんなことをいきなり告げられてはパニックになるのも仕方のないことだ。
「大丈夫、じゃないですけど。お嬢様は受け入れてるんですよね……?」
「受け入れざるを得なかったからね。まだ困惑してるわ」
「それもこれも、俺がヘマをしたばっかりに……!」
「クロ、それは違うわ。あなたのせいじゃない。これは私が……いえ、私たちが弱かった結果よ。こうなった以上、未来を信じてやるべきことをやるしかないの」
「そう言われましても、俺には何を目指して生活したら良いかわからないです。そんな終わりの見えない生活なんて、やっていけるかどうか……」
「そうね、でも──」
急に弱腰を見せるクロに、ソフィアラはどう接して良いかわからなくなる。
励ましを掛けるのも、かといって同情するのも違う。
ソフィアラも正直クロと似たような心境だ。
クロは自分のせいだと言ったが、元を辿ればソフィアラが教団に捉えられたことが原因だ。
とはいえ、クロとソフィアラのどっちが悪かったかなど現在は瑣末なことだ。
重要なのは二人して今も生存できているということと、まだ脱出の可能性は残されているということ。
その脱出方法も数万人、下手したら十数万人からなる殺し合いに勝利しなければならないということだが、今はそれを伝えてもクロの心労に繋がるだけだ。
心を折るための情報はいくらでも持ち合わせているのに、ポジティブな方向へ心を運ばせる情報など貧民街には到底存在しない。
「嬢ちゃん、その辺にしとけ。未来ある若者がここに来るパターンが俺っちも初めてだったからどう声をかけていいかわかんねぇが、まずは生きてることに感謝しとけ。必死に生きてればいつか報われる。いや、そう信じねぇとやってけねぇっての」
「そうよ。きつい言い方になるけど、卑屈になっていても仕方がないわ。貧民街は心の弱い人間から足元を掬われる世界なんだから」
「ま、しんどいだろうがそのまま聞いとけ。ここにお前ら二人が揃ったことで、俺っちからの本題を伝える。いいか?」
「聞くわ」
ソフィアラは肯定の意を示す。
クロは黙ったままだ。
「クロカワ、お前がこうやって元気に話してられんのは、言ってしまえば俺っちのおかげだ。嬢ちゃんも同様にな。ここからその借りを返してもらう。貧民街では、一方的な施しなんて存在しない。あるのは搾取か、良くてギブアンドテイクの関係までだ。俺っちもその例に漏れない」
「具体的に何をすれば良いかしら?」
「嬢ちゃんには少し伝えたが、貧民街中どこもかしこも組織立って行動する連中が増えている。それはいつ開催されるとも知らない貧民街脱出のチャンスを伺ってるからだ。クロカワ、今のお前は沈んでるが、貧民街の一部の連中はそうじゃない。こんな過酷な環境でも生きて、チャンスをものにしようと必死だ。そうやってる暇があるならディジットを稼げって俺っちは言いたい。今は言っても無駄だろうがな。……とにかく、まずお前らは貧民街で生き抜く術を身につけろ。その上で俺っちを手伝えるレベルまで成長できたなら、そこでお前らに借りを返してもらう。そこまでは俺っちが多少の面倒は見てやる」
「理不尽な環境に負けずに生き抜けば良いのね?」
「ああ、単純に言えばそうだ。俺っちも組織強化を願ってる人間なんでな。お前らみたいな前途有望な若者に目をつけたのは僥倖だ。せめて一人でも生き抜く力が得られて、それで俺っちの庇護化を離れたいならそれも構わない。できれば俺っちの組織に所属してくれと言いたいが、強制はしない。借りを返すために組織に来てくれるならそれが俺っちとしても一番良いが、別の形で返してくれるならそれでも良い」
「今の私たちではデイビスさんの施しに見合うものを返せないから、ってことね。でも面倒を見てくれるというなら、それも借りになるんじゃない?」
「そうだな。だからお前らはなるべく早く成長して、借りを返さなければならないってわけだ。チンタラしてると借金は増える一方だからな」
「……分かったわ」
「嬢ちゃんは理解が早くて助かるな。じゃあこれで俺っちはここを離れるが、俺っちの居場所は分かってるな?」
「ええ。この間連れて行って貰った建物ね。何かあればそこへ伺うわ」
「俺っちも勧誘活動やらに忙しいからいつでも相手できる訳じゃねぇけどな。あと、この部屋も貸しにしといてやる。言っとくが、貧民街に来て早々に部屋を得られるやつなんて一握りだからな。感謝しとけ」
「心から感謝してるわ、ありがとう」
「そうやって純粋に感謝できるのも今のうちだが、嬢ちゃんのそれは素直に受け取っておく。ずっとそう居られるなら、うちのボスと話が合うかもな。ま、そこのボウズと上手くやれ。……と、ああそうだ。具体的にって聞かれて答えてなかったな。お前らが一人前と呼べるレベルはゴールドプレートから、だ。じゃあ、こっから負けずに暮らしな」
デイビスがいなくなった室内に静寂が訪れた。
ソフィアラはクロを見る。
まだ力無く項垂れている彼には、貧民街の実情は厳しいだろう。
しかしやるべきことは山積している。
まず、ディジットは基本的に労働でしか得られないし、ギャンブルでディジットを稼ごうにも元手が無い。
何がなんでも生活基盤を維持できている間に安定した収入を得る必要がある。
さて、とソフィアラはクロに向き直る。
「クロ、ここで最低限生きていくための術を伝えるわ。心して聞いて」
半年後──。
「そこの兄さん、ちょっくら儲け話を……」
「黙れ、話しかけんな」
怪しいマスクを装着した老人風の男がクロに話しかけてきた。
しかしクロは努めて冷静に、そして強気にそれを突っぱねた。
こんなものは日常茶飯事。
いつだってどこにだって人を惑わす存在が闊歩している。
甘言に耳を貸してはいけない。
それが貧民街での大原則。
「カマドのジジイ、まだやってんのか。懲りねぇな」
クロはカマド老人を振り切って自室へ戻る。
彼だけでなく、落とし穴はそこら中にある。
一度彼らのような連中に捕まったら最後、あれやこれや難癖をつけられて様々なものを奪われてしまうことが多い。
大抵の貧民街初心者が引っかかってしまう罠だ。
クロも日本人的な曖昧さでキッパリと断れずにいたら怖いお兄さんたちにタコ殴りに会い、アビリティのいくつかを奪われた経験がある。
それ以降そういった罠に掛かったことはないが、警戒してしすぎるということはない。
「お嬢の方も、今日も何もなく過ごせてたら良いけど……」
暴力と欺瞞そして悪徳に塗れた世界だけあって、日々心労の数々だ。
クロとソフィアラそれぞれで得意分野が違うため、仕事先まで一緒にいることはできない。
だから毎日家に帰るまで安心し切ることはない。
ここ半年はやや危ない目に何度かあったものの、なんとか二人とも無事に暮らすことができている。
クロはデイビスから借り上げている宿舎の自室に着くと鍵を開け、ものすごい勢いで転がり込んだ。
こうでもしなければ一瞬で室内が塵埃に塗れることとなるからだ。
クロは荷物を近くの棚に置き、室内に声を飛ばす。
「お嬢、戻りましたよー」
「おかえり。遅かったのね」
クロはそのソフィアラからの返事に安堵し、ようやく一息つく。
家に帰るまで、毎日が危険な遠足だ。
クロは扉を閉じたその場所で外套を脱ぎ、塵埃を払い、頭を激しく振り乱して全身の汚れを取り払う。
この部屋のルールで、汚しても良い場所は玄関口だけだと決めている。
クロは入り口横のハンガーラックに外套を掛けると、そこに置いてある箒とチリトリで汚れをかき集め始めた。
これはここにきた当初から続けているルーティーンであり、これをしなければ安心して室内で過ごせないほどだ。
「夕飯、買ってきました。すぐに食べますか?」
「まだ大丈夫よ。クロ、まずは整容してきなさい」
「了解です」
クロが覗くと、ソフィアラが後ろで髪をまとめて何やら作業を行なっている最中だった。
クロはそれを横目に洗面所へ向かい、手を洗い、身なりを整える。
とはいえ、あまり見れたものではない。
外套の下は作業着のため、そこには所々に泥土がへばり付いているし、決して取れない染みも多数ある。
しかしそんなものに気を遣う余裕は、貧民街の低所得層には存在しない。
日々を生き抜くことだけで必死なのだ。
「よし」
クロは最低限の整容を終えるとソフィアラの側のソファへ。
「何を見てるんです?」
ソフィアラは端末を操作しながら必死に画面を眺めている。
「さっきね、買取を出していたスキルの売りが入ったわ。期限は一週間。その間にディジットの振込みを済ませれば、次の段階に進めるわよ」
「お、ようやくですか!それで、いくらで表示されてます?」
「私たちが提示していた7000ー9000ディジットの上限9000ね。本来の平均価格が10000ディジットを超えるスキルだから、今回の出品者は良心的ね」
「9000かぁ……なかなかキツイですけど、この価格帯で得られるだけ十分ってことにしますか。ディジットは共同出資で良いんですけど、本当に受け取りはお嬢じゃなくて良いんですか?」
「私よりはクロの方が移動範囲が広いわけだし、稼ぎが大きい仕事は遠方が多いじゃない?肉体労働メインで考えるなら、クロが持ってた方が得策ね」
「まぁ、働くのは男の仕事ですから仕方ないですね。じゃあ俺が受け取ります。お嬢の所有ディジットって今いくつですか?」
「ちょっと待ってね……ピック。えっと4730/8960ね」
「じゃあえっと、俺が5510/9420なのでギリギリ足りますね。早速納金してしまいましょう」
「半年も我慢してきた甲斐があったわ。また貧乏生活になるけど、同じ半年の繰り返しにはならないはずだから前向きに行きましょう」
「少し気が重いですが、了解です」
「この端末で取引できれば良いんだけれどね」
「型落ちとはいえ、貰えただけラッキーですよ。それを売るだけでも5000ディジットくらいにはなるでしょうし」
「そうね。下層で端末を持てている人は他に見ないし、運が良かったのね」
ソフィアラが抱えているのは、前回の貧民街脱出イベントの際に配布された端末の廉価版にあたる移動式端末。
端末は貧民街において必須の装置であり本来は各所に点在して配置されているが、このように個人で持ち運べるタイプの端末も存在する。
数年前のリベラ参加者に配布された移動式端末が貧民街では初だったが、その後どこからか移動式端末が流入し始めたのだ。
ちなみにリベラで多数配布された移動式端末だが、敗者のそれは全て協会に回収されてしまったらしい。
そのため現存する最新の端末は最大で五つ。
それらは貧民街最上層の人間が確保しているらしいところまでは分かっている。
「じゃあ納金前に食事を済ませますか。しばらくは最低辺の食事にありつくことになりそうですし、味わって食べましょう……」
「そうね」
夕食を終え、クロとソフィアラは中層区の端末へ。
現在貧民街は、所持しているプレートのランクにより出入りできる場所が限定されている。
貧民街は中心に近づくほど栄えており、半径1kmほどの中心地を最上層区と呼ぶ。
最上層区はブラックプレート所持者でしか出入りできず、その外側にゴールドプレート所持者の上層区、さらに外側にシルバープレート所持者の中層区、そしてそこから外側はブロンズプレート所持者の下層区が同心円状に広がっている。
中心地から離れるほどに治安は悪化し、下層区には法も秩序もない。
犯罪を犯したいなら下層区へ行け、という具合には下層区の治安は終わっている。
クロたちが住む宿舎はまだ中層区に近いだけあって少し安全で、そうでなければソフィアラが一人で出歩くなどできなかったはずだ。
クロとソフィアラのプレートはディジットの基本値が1000を超えているためにシルバープレートへと変化しており、それによって中層区までの侵入が可能。
わざわざ端末使用のために中層へ繰り出すのも、妙な犯罪に巻き込まれないようにするため。
たとえプレートを奪われたところでプレートは所有者自身でなければ使用はできない決まりだが、単なる嫌がらせなどで奪ってくる連中がいないとも限らない。
「パパッと済ませましょう。ここですら誰かの視線が多いですから」
二人は人通りの多くなさそうな場所の端末を選択し、急いで画面を操作する。
端末の所定の箇所にプレートを差し込めば専用の項目が開き、端末の操作が可能になる。
「これね。私は一食分残して出すから、残りはクロがお願い」
「そんなに出さなくても……って、言っても俺も190ディジットしか残らないから変わらなかったですね。了解です」
操作を終え、吐き出されたプレートには新たなスキルが付与されていた。
《Skill》Conquest
これが二人の求めていたスキル。
劣悪な環境条件を無視して生活することのできる、貧民街住民にとって流涎もののスキルである。
そしてなおかつ、あまり市場には出回らない一品だ。
「どう?」
「ははっ、すげぇ!口元を覆ってなくても問題なく空気が吸えるし、目も開けていられますね」
「良かったわ」
「じゃあ次はお嬢のを買うために節約生活ですね」
「クロの稼ぎに期待してるわ」
「任せてください」
ブロンズ帯の収入は一日平均で約50ディジット。
それは貧民街での一食分とほぼ同値であり、ここでは一日に一食ありつけたら幸せな部類だ。
しかし毎日食事をしていれば永遠にディジットは貯まらないために、一日二日の我慢は当たり前。
たとえば地上で誰もが持っている生活スキルというものがある。
生活スキル一つによって上昇する基本ディジットは10で、取引価格はその倍の20ディジットだ。
基本ディジットを上げていくためには概ねその倍のディジットを支払わなければならず、一朝一夕では基本ディジットは上昇しない。
二日間食事を我慢すれば100ディジットが浮く計算で、それによって50の基本ディジット上昇が可能になるわけだ。
そうやって生活を切り詰めていくことで、貧民街の住人はできることを増やしていく。
逆にディジットに困窮している場合は、手持ちのアビリティを売却してディジットを得ることも可能。
しかし再度同じアビリティを購入するにしてもまた倍額かかるのだから、アビリティの売却は一時凌ぎにしかならない。
着実に生活レベルを上げるためにはそういったディジットのやりくりをするだけの脳が必要であり、貧民街でブロンズ帯の人間が最多なのは言わずもがなだ。
「なかなか一足飛びには行けないですね」
「それができたら、下層にあんなにも落ちぶれた人間はいないわ」
ディジットのやりくりに困窮し、最終的には苦しみ続けるだけになる人間たち。
彼らによって最底辺のアビリティでさえも絶えることなく市場に供給されるわけだから、一概に彼らを愚か者だと罵ることはできない。
誰だってああなる可能性を常に秘めているのだから。
「ディジット上限だけでも上げられる術があれば良かったんですけど」
「それがないから、貧民街はきちんとヒエラルキーが維持されているのよ。そしてヒエラルキーがあるから、生存競争が住民を苦しめる。なかなか手厳しい仕組みよね」
貧民街に置いて、死は誰にも訪れない。
だからといって、永遠に何かを我慢すればディジットが貯まるということには“絶対に“ならない。
食事を我慢すれば体力が落ち、労働で最大限のパフォーマンスできずに収入は落ちる。
収入が足りなければアビリティを手放すことにもなるし、食事も購入できない負のスパイラルに陥る。
また永遠に労働を続けることで稼ぐ、そういうこともできない仕組みだ。
労働のためにはまず端末上で、雇用条件をクリアした労働先の登録が必要だ。
それは、登録した労働でしかディジットは発生せず、いくら他の職場に潜り込んで労働を行おうとも支払いは発生しないということを意味している。
なおかつ労働一つ一つに労働時間制限が設けられており、その時間内での成果に応じて報酬が支払われるようになっている。
効率よく成果を出せば収入は多く、非効率な仕事内容に対してはそれ相応の報酬しか与えられないということだ。
しかし労働ごとに支払い限度額も設定されているために、何かしらのスキルによって仕事能率を極限まで上げたところで無限の収入にはなり得ない。
だからこそ一足飛びのステップアップは不可能であり、頭脳と継続力を兼ね備えてようやく上のステージへ進めるようになるのだ。
貧民街に落とされる人間は、地上で全てを失った者がその大半を占める。
そんな彼らが再起するためにはモチベーションも必要だし、その上で頭脳と継続力が求められる。
それを考えれば、貧民街で成り上がることがどれだけ難しいことかは分かるだろう。
「俺一人でここに来てたら目も当てられない状態になってたのは確実なんで、二人だからこそ一歩前進できたって感じです。これでなんとかモチベーションも保てそうです」
「ここからの生活はクロが頼りよ。効率よく進めましょう」
貧民街にやって来て約半年。
変わらない我慢と労働の日々に、ようやく一筋の光明が見えてきた。
二人にとってはとても小さな一歩だが、それを踏み出せたこと自体、貧民街では珍しい部類なのだ。
劣悪な環境を克服するスキルによって可能性を広げたクロとソフィアラ。
二人の歩幅は少しずつ大きくなっていく。
同じ頃、地上では──。
「敵襲!てきしゅ……ッ、ガ……」
敵の侵入を告げた兵が無惨にも内臓をぶちまけて死亡した。
各所で悲鳴が上がり、夜間にも関わらず爆発と爆炎があらゆる場所で唸りを上げている。
ここはエーデルグライト王国、王都。
「助けてくれ……!誰か、た──」
家屋が崩れ、子供を抱えた男は血糊を広げて沈黙した。
逃げ惑う民衆に押され、老婆がぐしゃりと踏み潰された。
身を守るために振り回された誰かの斧によって、騒動を治めようと奮起していた警吏が不運にも切り伏せられた。
そんな中、叫びを上げて荒れ狂う人間が散見できた。
彼らは頭を抱え、四方八方に攻撃魔法をぶち撒けている。
そこに巻き込まれた多くの人間は命を果てさせた。
夥しい数の死体が王都内に出来上がる異常事態。
城壁に囲まれた王都は激しい揺れと炎禍、そして未曾有のパニックに見舞われていた。