第151話 堕落
スタッ──。
二人分の足音が地面を鳴らす。
「よ、っと。到着ぅ」
「戻れた、のかしら?」
「真っ暗で分っかんねー!」
時刻は夜。
周囲に人工の灯火はなく、現在地を把握するのは難しそうだ。
「大声出さないの」
「申し訳。まぁ希望通りの場所に出られたんじゃないですか?あの悪辣な気候じゃ無いって時点で戻ってこられてるかと」
「それもそうね。空気が美味しいわ」
「じゃあ……どうします?」
「いきなり手持ち無沙汰ね。ひとまず情報収集じゃないかしら」
「どこで?どうやって?」
・・・・・・。
「魔法使えば?」
「……あ!そうだ、魔法使えんじゃん!お嬢、天才です」
「もう随分魔法の無い生活だったから、むしろ魔法がある方が違和感だけれど」
「それもそっすね」
「じゃあクロ、探索はお願い」
「お嬢も使えるでしょ?」
「嫌よ。まだ試してもいないし、もし使うとしても安全な場所で試すわよ」
「人遣い荒いなぁ」
「私を守るんでしょ?しっかり働きなさい」
「まぁ、兄貴にもキツく言われてるし、もうヘマはやらかさないようにしますよ。ロード……ん?」
クロは詠唱を開始。
しかしすぐにその違和感に気がつく。
「どうしたの?」
「久々に魔法を使うからかもしれないですけど、何か説明できない変な感じが……」
「この世界のマナは何だか変よね。以前より濃密、というのが正しい表現かしら」
「これが浦島の気持ちか」
「ウラシマ……?」
「あー、こっちの話なんで無視しててください。とりあえず問題なく魔法は使えそうなんで、地道に情報収集と行きますか。……エコー サラウンド」
クロが探索魔法を断続的に使用しつつ、ひとまずは人の居そうな方角──西へ。
東側には海が確認できるため、内陸を目指せば何かしら収穫はあろう。
「随分と様変わりしたもんですね。知らない世界に来たみたいっすね」
「そうね、禍々しい限り」
二人が闊歩する大地には、毒々しい構造物が散見できる。
それは地面から生え出した岩のオブジェであり、樹木のよう枝を伸ばして屹立している。
その幹や枝は所々がモコモコと腫瘍にも似た膨らみを見せ、突けば容易に弾けそうな佇まいをしている。
「何だあれ、知らねー。誰が植えたんだよ」
「カビに侵された木のようね。気持ちが悪いわ」
「気持ち悪い?なんか俺の見えてるイメージと違いますね」
「だってそうじゃない?膨らみから細かい黒い粒子が時々噴出しているし、何よりあの内部で脈動してる赤黒いマナが気味悪いわ。なんだろう、あそこだけ一種の結界みたいにも見えるわね」
「俺と見てる世界が全く違うっていうか、見えすぎてません?」
「脳に響くし刺激が強いからあまり良いものではないのだけれど……」
ソフィアラが額に手を当てて目を細めている。
どうやら頭痛に苛まれているようだ。
「大丈夫です?」
「入ってくる情報を意図的に遮断できるようになれば、ってところかしら。心配しないで大丈夫よ」
「厳しそうなら言ってください」
「分かったわ。それにしてもナイトアイって便利ね。まさか私も使えるとは思わなかったけれど」
「あっちで色々買っといてよかったですね。情報集めながら魔法も試していきましょう」
「それはそうだけど、とりあえずここは離れましょう。あれは間違いなく危険なものよ」
「そうですね。それは俺にも分かります」
クロとソフィアラは黒い構造物を暫定的に“黒樹”と呼称し、人間の集落を探す。
とはいえ見渡せば視界に一本は生えているという程度にはそれらを確認できるため、黒樹を避けて行動するだけでも相当な時間的ロスが生じる。
そして現時刻は真夜中も真夜中。
ただでさえ人の出歩かない時間な上に危険な黒樹が乱立するような環境では外出する者など確認できるはずもない。
目的を果たせず疲労感だけが二人の肉体に蓄積していく。
「そろそろどこかで休みたいところですね」
「休める場所なんて見当たらないけど?」
「そうなんですけど……。なんか変な生き物も多いですし、警戒してると体力使うんですよ。あれって何なんですかね」
「魔物みたいだけど、こちらに寄ってはこないわね」
クロたちが先ほどから確認している小動物たちはどれもこれもが原型を留めておらず、しかし本来の魔物のような赤い目はしていない。
「色々考えられそうだけれど答えは出ないわ。この五年で世界は大きく変わってしまっている。私たちはその空白を埋めるために何よりも情報が必要よ」
「まさか人間が全部死滅してるってことは無いですよね……?」
「どうかしらね。誰か一人でも見つかれば何かしら情報は得られるわ。そのために帝国を目指しているんでしょ。まずは目的地に到着しなきゃ。泣き言言わずに進みましょ」
「そうは言っても、慣れない世界に戻ってきたためか滅茶苦茶疲れるんですが……」
「『Conquest』のスキルは使ってないの?使えば、こう足場の悪いところでも疲れないはずだけれど」
「……あ!」
クロは異常なほど世界への適応が遅かった。
そこから暫くして──。
クロとソフィアラは人工的な構造物を発見していた。
それはあまり大きな城塞ではないが、そこにはある程度の人口が確保されていることが窺える。
不意にソフィアラが足を止めた。
「結界ね。どうする?」
「この先ですか?俺には見えないですけど、どんな規模ですか?」
「かなり大きいわ。個人で可能な規模を超えてるかしら。でも、何もないこんな場所まで結界を広げるなんてどういうつもりかしら?」
二人のいる場所は、まだ城砦には至らない平地。
舗装された道すらない単なる地面だ。
「あんまり責めないであげては?何か理由があるかもしれませんし」
「分からないことだらけね。それで、どうしたい?」
「恐らく誰かしら人間がいるとは思いますし、城砦を覆ってるくらいなんだから安全な結界だと思うんで入っちゃいましょう。もちろんバレないようにはしないとですけど」
二人は意を決して結界に侵入した。
「お嬢、誰か来ますね」
「そうね。最初は穏便にね」
「了解です」
早速お迎えが来たようだ。
「貴様ら動くな!我らの領地に何用だ!所属を明らかにせよ!」
複数の大人たちがクロとソフィアラを取り囲み、突如現れた闖入者に怒号を浴びせている。
闖入者とはもちろん、クロとソフィアラ。
二人が大人しく両手を上げて抵抗の意志がないことを示しているのは、複数方向から攻撃魔法を向けられているからだ。
その中でも一際体毛の濃い巨漢が殺意の籠った視線を二人に投げかけている。
彼がここのリーダーだろうか。
「所属?俺らは“プラ──」
「それはあっちでの話でしょ。しっかりしなさい」
「──って、ああ。それは確かに」
「貴様ら何を悠長に話している!?この状況が分からんのかッ!」
怒られた。
しかし二人は余裕を見せるように一切表情を崩さない。
そればかりかクロはヘラヘラと嗤ってすらいる。
「すいません、質問の意味がわかんないっす。ついでに状況もわかんないです」
「き、貴様ッッッ!馬鹿にしているのか!?」
「いや、なんで俺たちが悪いみたいな感じなんですか?何もしてないでしょ」
「こンの……!」
「少し落ち着きましょうや、ヴェズエの旦那。そう喧嘩腰では纏まるものも纏まらないってもんですぜ」
「喧嘩腰なのはこいつらのッ──」
「ここはコレに任せてくだせぇ」
「……ふん、勝手にしろ!お前らはまだ警戒を解くんじゃないぞ!」
青筋を立ててクロに怒りを湛える巨漢を宥め賺すように現れたのは、低身長の男。
彼は到底強そうなナリではないが、この状況を良い方向へ運んでくれそうだ。
ヴェズエと呼ばれた男はクロたちが気に入らないといった姿勢は崩さず、鋭い目で二人を睨みつけている。
周囲の男どもも足元に魔法陣を展開したままクロたちを射定めている。
それにしても、彼らの魔法が一様に水属性なのはどういうことだろうか。
「コレはサットンっていう名ですぜ。あんさんら、まずはお名前を教えてもらいましょうか」
「話が分かる人間が来てくれて助かる」
「あ゛ぁ!?」
クロの発言を聞いて、サットンの背後でヴェズエが吠えた。
今にも暴れ出しそうな彼を、周囲の男たちが必死で止めている。
「あんさん、旦那を刺激するのはちょいとやめていただきましょうか。お互い傷つきたくはないでしょう?」
「そりゃあそうですね。俺はワカロで、こっちは……」
「フィアよ」
ここで偽名を名乗る。
クロとソフィアラ──改めワカロとフィアが偽っているのは名前だけでない。
彼らは『Disguise』のスキルによって姿までをも偽っている。
それにはいくつか理由があるが、最も重要なのは二人の生存を誰にも知らせないため。
帰還に成功したこの世界で誰にも警戒されずに動くためには、身元の隠匿が必須なのだ。
ワカロはセアドの姿で、フィアはマリアの姿でそれぞれ行動中。
子供の姿に変われば妙な警戒を抱かせることに繋がるだろうし、このスキルは見知った人間にしか変装できない制限があるため、仕方なくこうなった。
「ワカロさんにフィアさん、コレらの領地へようこそ。あんさんらはここが水の領地と理解した上でお越しになったんで?」
「あ、ああ」
クロはとりあえず話を合わせて流れを見る。
たとえヘマしても逃げ出して姿を変えれば問題ない。
「それで、どういった目的で?」
「行くとこが無かったので」
「なるほど、また潰れた領地が……」
サットンは表情を重くし、言葉尻も何やら悲しげだ。
領地。
潰れる。
クロは少しこの世界の現状が見えてきた。
少なくともサットンらも良い状況に置かれていないのは確か。
それが人間対人間によるものなのか、それとも人間対魔人によるものなのか。
「そんなわけで匿ってもらえないですかね?」
組織に入り込むと面倒事に巻き込まれる可能性は高い。
しかしクロがこのまま外界を闊歩すると言ったらどうだろう。
黒樹然り魔物然り、危険な存在が多く存在する空間を出歩いている者が果たしてまともな人間だと判断されるだろうか。
クロたちが強者と判断されれば妙な抗争などに巻き込まれる心配がある、
それなら、弱者を気取った方が施しを受けられるなどメリットは大きい。
知らない組織で目立って仕舞えば、なし崩し的に滞在を続けさせられてしまう可能性もある。
「それは別に構いやしやせんが、ここに居る以上払うものは払ってもらいやすぜ」
「あいにく金銭の持ち合わせはないですよ」
「はは、またまたご冗談を。金で潤うのは国や巨大領域だけですぜ。わかってるでしょうや?」
「……どうすれば良いですか?」
全く分からない方向に話が進んでいるが、ここまで来たからには乗るしかない。
が、“払う”とは何をだろうか。
「では少しお待ちを。……ということでヴェズエの旦那、滞在を許可しても?」
「ふん、払えるんならそれで良い。だが今後、さっきのような生意気な態度でこの俺に接してみろ。タダじゃおかねぇからなッ!」
ヴェズエはそれだけ叫ぶと、男どもを引き連れて城塞の方へ引き返していった。
「旦那はいつもああいった感じですが、別に悪い人じゃねぇんで。この領域の責任者として皆を纏める上で、厳しくあれと自身を律しておられるんです」
「なるほどね」
「とにかくこんな夜中に移動するほどとは、あんさんらもお疲れでしょう。宿へ案内しますよ」
「助かります」
「ですが、余裕があればその前に充填を済ませてくれると助かりますぜ」
「どこへ行けば?」
「こちらへどうぞ」
クロとソフィアラはサットンに連れられて城砦へ向かう。
その中でソフィアラも情報を集めるべく会話を。
「サットンさん、ここはかなり広い結界のようだけれど?」
「確かにここいらの領域の中じゃ大きい方かと。だからたまに、あんさんらみたいな方が来られるって感じですぜ。人が増えれば増えるだけ結界は安泰だから、こちらとしてはありがたい限りですがね」
「それは羨ましいわね」
「ところで、あんさんらの領域はどうなったんで?」
「……知らないわ」
「そう……ですか。それは辛いことを聞いて申し訳ない限りで」
「それにしても結界が広いと良いことばかりね」
「結界が効いてる範囲は魔毒に侵されずに済みますんでねぇ。あれが入ると雑草ひとつ生えなくなるんで、結界は広いに越したことはないですぜ。とはいえ、それをあんさんらに言うのは酷でしたな」
ナイスだ、ソフィアラ。
クロは心の中でソフィアラに賛辞を送りながら、サットンの後に続く。
「こちらで。なるべく多くマナを充填してもらえるとコレらも嬉しい限りです」
サットンに案内された施設の一室には、丁重に奉られている水晶があった。
そこへマナを充填──“支払い”をしろと言うことらしい。
マナ充填を支払いという取引材料にしている以上、それが価値のある、もしくはリスキーな行為だということは分かる。
しかしたったそれだけの行為が、この世界でどのような意味を持つのだろうか。
それなら──、とクロは敢えておかしなことを言ってみる。
「マナが切れる限界まで注入したら良いですか?」
「おっと……それはやめましょうや。まさかこの領地を壊しに来たんで?」
「なんでそうなるんですか」
「あんさんらの領地でもいたでしょう。マナを使いすぎて狂った人間が」
マナの過剰消費で狂うなど聞いたことが無い。
この五年間で新たに生じた現象だろうか。
「あー……俺らのとこは結界とか無かったんで」
「まじですかい……?」
「本当よ」
「ではここに来たのはどうしてですかい?」
「水属性の結界が見えたから。それだけ」
「見えた、とは?」
「言葉通りよ。私は目が良いの」
流石にこれは能力を見せすぎているかもしれない。
「ほう、それはそれは」
「えっと……なんですか?」
「いえ、フィアさんが居れば安全に領域同士の行き来が可能になるのでは、と考えていただけですぜ。お気になさらず」
そろそろ嘘に嘘を重ねることにも無理が出て来た。
そのため二人は、ある程度の事実を織り交ぜてストーリーを捏造する。
色々と二人の会話には無理があるが、サットンが賢すぎないことを祈るばかり。
それにしても話せば話すほど知らない情報が溢れ出してくる。
「とりあえずマナを注入したらいいですか?指定があればその分量を入れますが」
「そうでした、そうでした。では水晶が輝く程度までお願いしますぜ」
「了解です」
クロは慎重にマナを注ぐ。
マナ消費に関わる流れで人が狂うとするなら、マナ放出自体が害になるのか?
それともマナ消費後の回復で害が生じるか。
この世界に戻って来てからというもの、空間に満ちるマナの違和感が拭えない。
恐らくそこに、この謎を解決する鍵がある。
「あんさん、そこいらで充分です」
マナ消費を支払いと呼称するだけあって、クロでもそこそこのマナを持っていかれた。
一般的な人間のマナ総量は不明だが、今回だけで大人ひとり分以上のマナは持っていかれたはずだ。
それを“充分“で済ますとは、これはまんまと謀られたのということだろうか。
「取りすぎでは?騙したんですか?」
「いえいえ、騙したなんてとんでもねぇ。外を歩かれてたくらいなんで、どの程度出来るかの確認はしようと思いやしたが、まさかお一人でやり切るとは想定してませんで、申し訳ねぇです」
「それで、何か分かりましたか?」
値踏みされている感じがして、クロは少し心が騒つく。
その様子を具に感じ取ったサットンは少し慌てたように取り繕う。
「い、いえ、失礼なことをしてしまって申し訳ねぇです!決して悪意があってのことでは……」
「怒ってないんで大丈夫ですけど。でもまぁ失礼ついでに色々教えてください。俺らは世情に疎い生活を送ってたので」
「でしょうな。お二人のお話もかなり違和感がある様子でしたぜ。では確認ですが、流石に領域区分は分かってますかね?」
「「……」」
この程度は知っているだろう。
そういうサットンの顔が徐々に唖然としたものに変化していく。
「あんさんら、今までどこで生きてたんで……?」
「過酷な場所よ。この世界のどこよりも、ね」
「はぁ……コレには想像もつかねぇですが、言えねぇ事情もあるってもんですな。とりあえず、あんさんらが何も知らねぇってことは分かりましたんで、知りたいことはお教えします。その代わりと言っちゃなんですが、ちょっくらコレらのお願いも聞いちゃもらえないですかね?」
「内容によりますけどね。聞くだけは聞きますよ」
「では──」
サットンはこれでもかというくらい丁寧に、クロとソフィアラに対して世界の実情を話してみせた。
二人が実世界を離れていた五年間に起こった事象のあらましを
そうすることで二人の協力を得るのが狙いだろう。
まだまだ二人は隠していることはあるが、ある程度胸襟を開いたことで意思疎通はスムーズに可能であった。
「──で、魔王が復活したせいでこんな世界に成り下がってしまったというわけですか……」
「魔王復活前に色々ありましたがね、多くの事象は魔王復活に起因するものばかりですな」
クロとソフィアラの表情は暗い。
嫌なことを聞いてしまったからだ。
サットンの話した内容はざっと以下の通り。
まず魔王崇拝教の台頭があったこと。
それに合わせるように魔人たちの動きが活発化したこと。
教団による事件から一年も経過しないうちに魔王が復活し、同時に王国が魔族に対して敗北して支配下に置かれてしまったこと。
そして人間族は王国側と魔国領からの挟撃によって危機に瀕しているということだった。
「王国はどうなったんですか?」
「魔族と人間が共存するという謎の理念の元に殺戮は行われなかったようですな。そこに住む人間は等しく虐げられているようですが、詳しくは不明で。王国が屈して以降わざわざあそこまで行く人間が居ねぇですし、まだ国交が生きていると言えども領域の外は人間が安心して暮らせる環境じゃねぇんで」
「そうですか……」
「あんさんら、王国の出身ですかい?」
「ええ、まぁ」
「それにしては東側からお越しになったようですが?」
「出身が王国だったってだけですよ。東にいたのは偶々です」
「魔人の多い危険な海岸沿いに近づける時点であんさんらは手練れだ。そう言えば、所属をお聞きした時に何やら言いかけてましたな。プラ……なんとか、って。あんさんらみてぇなのが所属してる組織ってのはどういうもんなんですかい?」
「何かを期待してるようですけど、俺らはもうそこを抜けてるので関わりはないですよ」
「そこをなんとか!せめて名前だけでも教えてもらえませんかね?」
クロを通して協力を仰ぎたいのだろう。
そこまでこの領域とやらは──いや、世界は逼迫した状況なのか。
必死さを隠しきれずに話すサットンからは、何かに縋って生き残りたいといった印象を覚える。
さて、これを断ってしまえばどうなるか。
まぁせいぜいここからサットンからの情報が得られなくなる程度だろう。
現状ある程度の情報は彼から齎されたが、詳細なものは得られていない。
黒樹であったり人間が狂う事象であったり。
あえて情報を小出しにしてクロたちから何かを引き出そうという魂胆だろうか。
果たしてサットンがそこまで考えて会話する男か?
長い間欺瞞に溢れた空間での生活を余儀なくされていたためか、クロは考えすぎている気がする。
クロは未だにあの頃の感覚が抜けずにいるのだ。
そして忘れられずにいる。
騙し合い、蹴落とし合い、最後には殺し合いを迫られたあの世界のことを。
「まぁ探し出すのは不可能だと思いますけど。あと、探すって言うのなら自己責任でお願います」
「是非。あんさんらにご迷惑は掛けませんので」
クロは感傷に浸るのをやめ、まだサットン及びこの領域に有用性があることを信じて続けた。
「分かりました」
そして続ける。
「組織の名は“プラシド”。クソみたいな貧民街で俺たちを救ってくれた、かけがえのない集まりですよ」
そう言ったクロの顔は、少し誇らしげだった。
▽
「ようこそ、貧民街へ!」
「……!?」
不審人物の登場にソフィアラが驚きで声が出なかった。
というより悪辣な環境により声が出せなかったと言うべきか。
声の出ない若人に対して不審人物──もとい黒い外套の男は、きまりが悪そうに声を吐き出した。
「……って、まぁ、すまん。スベったな」
「……」
男はポリポリと頭をかく。
「それで、お嬢さん。そこのボウズは見たまんまとして、あんたは何を失ってここまで来たんだ?」
「……え?ここはど──げほッ、げほ……ッ、ぁ……ごほ……!」
男の質問内容が分からず、とにかく現状を把握するための話し出したソフィアラだったが、塵埃が気管を侵して満足に会話が成り立たなかった。
そこからもソフィアラの咳嗽は続く。
腕で口元を覆うことで、涙と鼻水を垂らしながらようやく苦しみは治まりを見せた。
しかしこれでは会話もクソもない。
「ここで立ち話ってのもおかしな話だな」
「何でも、します……。だか、ら……クロを助け、て……」
ソフィアラは言う。
呼吸苦はあるが、それでもクロの身を案じてそう絞り出した。
ソフィアラの顔は涙や塵埃で汚れ、とても美少女とは言えないまでに顔面が崩れてしまっている。
「安心しろ、そいつは死なねぇ。それは確証を持って断言してやるからよ。まぁ、なんだ。ここに長居してたら他の連中が来ちまう。悪いようにはしねぇから黙って着いてきな」
男はそう言うと、汚れるのも構わずクロを肩に抱え上げた。
流れるままに従うソフィアラだが、果たしてこのままこの男の好きにしていいかどうか迷うところ。
しかしクロの命が最優先。
クロが助かるのなら、後からどんな代償を支払わされようと耐えるしかない。
ここで迷っていては、クロの命の灯火は吐きてしまう。
今は何としてもクロに助かってもらわねばならない。
ソフィアラも自らがクロに依存し始めていることはわかっている。
今の彼女はクロ無しには立ち行けないほどにクロを信頼してしまっている。
しかしそれ以上に、クロの命は重要だ。
それはもちろん世界のため。
ソフィアラがここからどうなるのであれ、自分以上にクロの命を優先しなければならない。
「どこ、へ……」
「無駄に話して体力を使うな。こいつを助けたいなら黙って従ってくれ」
ソフィアラの質問に対し、少し厳しめの声が帰ってきた。
これはまずい人間に目をつけられたかもしれないと、ソフィアラは怯えながら男に続く。
「ぅ……ごほ……っ」
それにしても環境が最悪だ。
塵埃が激しく吹き荒ぶばかりか、それによって視界も悪い。
一度目の前の男を見失えばもう会えないといった劣悪な大気の状態だ。
それに。
「わ……ッ!?」
ソフィアラが何かに躓いた。
ふと足元に引っかかった膨らみを追うと、そこには苦しげに絶えず咳き込む老人の姿があった。
目から口から全身から体液を垂れ流し、咽せ続ける哀れな老人。
両手で首元を押さえてチョークサイン──窒息状態を示す姿勢をとりながら、それでも声すら出せず苦しみ続ける無惨な人間をみてソフィアラに怖気が走る。
よく目を凝らせばそのような人影がちらほらと見えてくるのだ。
ここは、なんという地獄だろう。
「おい、フラフラしてんな。さっさと着いてこい」
ソフィアラが信じられない光景を見続けていると、檄が飛んだ。
そうだ、立ち止まってはいけない。
このまま自分もここにいれば、すぐに彼らの仲間入りだ。
そうはなりたくないと、ソフィアラは慌てて男を追う。
背中に密着するスレスレの距離を保ちながら、息を潜め、周囲の観察を続ける。
「一度上へ行く。落ちんなよ」
乱立する無機質な建造物の間を練り歩き、階段だけが外部に露出した建物をしばらく登ると、そこから屋内へ。
扉がないためか屋内にも塵埃は吹き込んでおり、その中の一室の前に足を止めると男は無造作に扉を開けた。
ソフィアラが入っていいものか逡巡していると、
「嫌がらせのつもりか?部屋が汚れるから早く入れ!」
そう責め立てられた。
焦らせて閉じ込める算段かもしれない。
とはいえ、男はクロと一緒に室内へ入り込んでしまっている。
もう迷える段階は終わったのだ。
ソフィアラが諦めて室内へ進むと、怒りを含んだような勢いで扉は閉じられた。
屋内はとても質素なものだ。
最低限な家具しかなく、ソフィアラの実家からすれば犬小屋程度の広さしかない。
だからこそ、汚れが入り込むとその影響は甚大だった。
「チッ。部屋が無茶苦茶だ」
「……」
それに関しては申し訳ないとしか言えない。
そのままソフィアラが黙っていると、男はクロをソファに横たえて彼女の方へ向き直った。
「いつまでそうしてる?もう呼吸していいぞ」
ソフィアラはハッとして空気を吸い込んだ。
塵埃で汚されたとはいえ、ここは密閉した屋内という空間。
多少塵埃の残りが巻き上がっているが、それでも屋外とは比較にならないくらいの空気がそこにはある。
呼吸できることがなんとありがたいことなのだろうか。
ソフィアラは自分以外がいることも忘れて空気を貪った。
そして徐にへたり込んだ。
安心したためか、両足に力が入らなくなってしまったのだ。
不意に涙が溢れる。
「まぁ、初めて来たんならそんなもんか。ここじゃ生きてられるだけで幸せだからな。じゃあ話せるようになったら話してくれ。その間にこいつの処置はやっておいてやるからよ」
「あ、っ……」
ドサッ──。
男にそう言われて言葉を発そうとしたソフィアラだったが、力が抜けてそのまま上半身すらも床に投げ出してしまった。
当然だろう。
現在ソフィアラに蓄積しているのは、ここ数十分の疲労だけではない。
確かに呼吸すら困難な環境で尋常じゃないほどの体力は消費されたが、それ以上にここに来るまでの蓄積がある。
教団によってクロと引き離された時から常に緊張を余儀なくされる状況に置かれ、スヴェンに嬲られ、さらにはディスクリートにも手酷い攻撃を叩き込まれていたのだ。
肉体的疲労もさることながら、過覚醒に近い状態を維持していた精神的疲労は相当なものだろう。
それがここにきて、緊張の糸が切れた。
何やら男の声が聞こえるが、正しい文字としてソフィアラの脳には届いていなかった。
ソフィアラの意識は漆黒の沼へと沈み、閉眼をもって体力回復に充てられることとなった。
怪しい男が目の前にいたにも関わらずそうなったのは、すでにソフィアラの体力が限界だったからだ。
それを見て、男は肩を竦めた。
「やれやれ。勧誘競争とはいえ、今回は厄介なもんを背負い込んじまったかもしんねぇな。こりゃ、ボスにどやされっかな」
不安半分好奇心半分といった具合で男はそう言い、ソフィアラを軽く抱き抱えると寝室へ放り投げた。
男は部屋を後にして外套を脱ぎ、傷だらけの青年を前にする。
「あーあ、よく見りゃひでぇな。死ぬ寸前で送られてきやがったか。あのお嬢さんの身なりからすると、選択を迫られたわけじゃなさそうだな……っと」
男がクロの衣服を剥ぎ取る。
すると、目に見えて傷口が際立つ。
「こりゃ荒療治でいかねぇとな。しばらくは苦しむことになるが、まぁ大丈夫だろ。ここじゃあ死ぬことなんてねぇしな」
男は軽くそう言うと作業に取り掛かった。
とても手術などするような環境設備ではないが、それでも何かが行われていく。
そこからクロが目を覚ましたのは、実に一週間という時間が経ってからだった。