第145話 歯車
「なんだ!?」
校舎の一角が爆ぜた。
場所は二階の端。
爆発によって降り注ぐ瓦礫やガラス片。そこに加えていくつかの黒い塊が飛び出してきた。
べちゃり、と地面に叩きつけられた何か。
それらはモゾモゾと頭をもたげ始めた。
「……ァ……ァア゛ア……」
痙攣しながら身を起こすそれらは、人間に近い形状をしている。
その数、三つ。
見たところ少なくとも人間ではないが、人間を模した動きをしていることからある程度想像はできる。
「魔人……か?」
書籍に掲載されていたり話に聞く魔人の姿は多種多様。人間に近しいものから、完全に人間からはかけ離れた異形のものまで。言ってしまえば、人間から獣の間で定まった形状は存在しない。むしろまともな形状を保っているものの方が珍しいまである。
魔人は人語を解するかどうかで、その脅威度が容易に判別できる。
クロが今まさに視界に捉えているそれらのように呻くだけの存在は総じて知性が低く、本能のままに動き回る獣に近い。その一方で、人語を解する魔人は一様に危険性が高い。それらは腕力もさることながら、使用できる魔法の階級が高い傾向にある。だからこそ、存在が確認されれば即座に大人数の討伐隊が組まれることが通例だ。
「教団は魔人とも結託してやがるってのかよ……って、当然か。魔王崇拝だもんな」
人界に降り立って存在できているというだけで魔人は危険極まりない。それが拠点などを築こうものなら、国を挙げての討伐になる。
魔人は存在してはいけない。それはこの世界に生きる人間の共通認識であり、クロもその認識を持ち合わせている。
クロは今更ながらソフィアラの父──ロドリゲスのことを思い出していた。
彼が裏競売で入手していた魔人の子供。あれは一体何のために手に入れたのだろうか。
ロドリゲスに魔人を渡すだけなら、裏競売など介さずとも横流しすれば良いだけの話だ。
クロは、わざわざあれを開催したことに何かしらの意味があると思えた。
「ア゛……ア゛ッ……」
などと考えている間にも、魔人と思しき存在は完全に身を起こしていた。
クロを見つけると、身体を不気味にくねらせながら近づいてくる。それはさながらゾンビのようで。
即座に走り出して襲ってこないだけ恐怖は少ないが、それらは簡単に人間を殺すだけの力を備えている。
「えっ……?」
先程の教室で何度か魔法の行使が確認できた。
戦闘が行われているであろうことから、そこに何者かが……。
クロは震える腕輪を見た。
腕を何度か軽く捻ってみれば、緑の光は確かにその教室を指して動かないでいる。
「そこにいるのはガルドか!」
クロは《爆身》で魔人に詰めると、勢いのままにその一つを叩き潰した。
もんどりうって倒れたその頭部に力をこめて、上から地面に押し付ける。ノーガードの人間であればこれだけで脳が潰れて即死するはず……が、そうはならない。
潰れたはずの頭部を含めた肉体が再生を始め、押さえつけているはずの首から下の肉体も動きを取り戻している。
それもそのはず、魔人の中枢は脳ではない。
「なら、全部潰すまで」
クロは拳に岩を纏わせ、魔人の全身を殴る。腕を破壊し、脚を破壊し、動きを鈍らせた肉体を余すことなく。
パキ……ッ。
小気味のよい音が鳴った。魔核に触れ、破壊したのだ。
途端、ドロドロと崩れ落ちる魔人の肉体。
原理は不明だが、魔核によって強制的に活性化状態に置かれた全身の構成因子が崩壊していくというのが一般的な認識だ。
続いて二体目、三体目の魔人に近づき、手当たり次第に殴りつけて破壊していく。
そうやってクロもようやく動き出せるというタイミングで、激しく件の教室が壊れた。
「ぅぐっ……!」
「せ、先生!?」
「ちょっとなに!あなた生きてたの!?」
今度は魔人ではなくランゼが飛び出してきた。というより吹き飛ばされてきた。
そのまま地面に叩きつけられてゴロゴロと転がったが、すぐに立ち上がって声を上げた。
ついでに彼女は小脇にガルドを抱えている。
「久々に会ったのに、なんか雑っすね!?」
「今はそんなどころじゃないの!」
久々の再会がコレとは、感慨もクソもあったもんじゃない。
激しく傷付いているものの、彼女ならおそらくは大丈夫だろう。
以前ランゼは、即死さえしなければ大体の窮地は生き延びられると言っていたし、治癒魔法が使える限りは死にはすまい。
しかし問題はガルドの方。
「まぁなんとか。……ところで先生とガルドは大丈夫なんです?」
「私のことは気にしないでいいわ。ガルド君も死んじゃいないしね」
「そうですか。安心しました」
物音ひとつ発しないガルドは一見死んでいるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「……とにかく、あなたは早急にここから離れなさい。アレの相手は私がやっておくから」
「アレって?」
「ああもう、説明が難しいわね!とりあえず人間を辞めた何かのことよ!アレよ、アレ!」
ランゼは教室の方を指差しながら視線を向けている。
そこには身体のあちこちを黒く染めた、おそらく人間であろう存在が姿を見せている。
「魔人と人間、どっちだ?」
それは壊れた窓辺から身を乗り出し、ふわりと地面に降り立った。
そしてクロの疑問を耳にしていたかのようにクロに言葉を投げかけた。
「オ、オ、お前。ソノ、そノ証シ、シシシシ……は、ナカ、か、カ、仲間カ?」
「証って、これのことか?」
発せられる声は男のもの。
証と言われれば、ここまでの流れならコレしかない。
クロはポケットに仕舞っていた教団の証を取り出しながら男に尋ねた。
「ちょっと!相手にしなくていいからガルド君を連れて消えなさい!」
「なにを慌ててるんだよ。まぁ見てなって。あれは俺が相手するから、どこかに隠れてガルドを治してやってくれ」
「もう、なにが起きても知らないからね!そいつは人間をやめて魔人に寄った気狂いよ。風属性で魔法起動の兆候も無いから注意しなさい」
ランゼは情報を残し、ガルドを連れて後退していく。
男がクロに気を取られていることから、それを利用しない手はない。
それを見送ってクロは呟く。
「人間から魔人に成る、か……。これが教団のやりたかったことか?」
魔王崇拝とは、魔王に物理的に近づくことなのだろうか。
未だにその実態が見えない。
「それに、起動符を挟まない魔法発動形式となると……ロウリエッタ達と一緒の状態ってことだよな」
「オ、おい……!早、ハ、早ク、俺ノ、ノノ、シツ質ツ問ンンンに、ニ、答エ、ロ」
唾液を吹き散らして騒ぎ立てる男。
それにしても、その言葉は辿々しい。
まるで慣れない口を動かすかのように紡ぎ出されるそれは、ノイズが混じって聞き取りづらい言葉に変化している。
彼はやたらと証のことを気にしている様子。
ここは彼に合わせて場を凌ぐことを考えるクロ。
「見りゃ解るだろ?俺が限界までマナを込めてるんだ。そりゃもう必死にな」
ラウラはクロの証を見て「熱心に使っている」と言っていた。クロはその判断を証の色調によるものだと暫定的に考えていたが、実際にどうなのかは今でもわからない。しかしラウラの客観的判断は、他の教団員にも共通のものである可能性が高い。
クロは緊張した面持ちで証を見せつけた。
食い入るようにそれを凝視する男。
「タ、たタた確か、ニ。オお前エは俺タ、タ、タチ、チ、ノ仲間ダ」
「だろ?」
「シカし……」
男はクロの証を見て満足したような雰囲気を醸したが、すぐにランゼたちが去っていった方向に目をやった。
なぜ彼女らを逃したのかと問いたいのだろう。
「あの調子じゃどうせすぐに死ぬだろうから放っておけばいいだろ?それよりも俺はやらなきゃいけないことがあるんだ」
クロはとりあえず出任せを並べ立てる。
ランゼの見立てが正しいのなら、ここでこの男とやり合うメリットはない。敵の能力が未知数のうちに攻撃を仕掛けるのは得策では無いからだ。
もしクロが攻撃の意思ありと判断された場合、目の前の男は何をしでかすか分からないというのもある。
穏便に済ませるのなら、それに越したことはない。
「……ソレ、はナ何んダ?オ前、ノ役ク、割は敵ヲ殺すス事、ダロう」
食いついた。
恐らくこの状況下で、教団員としての義務か何かがあるのだろう。ラウラも命令で人を殺していたようだし、そこに疑問はない。それを放棄してまでやるべきこととは何だ、というのが彼の聞きたいことのはずだ。
「まぁそれもあるんだけどな。でも今はそれどころじゃない。すぐに行かなきゃならないところがあるんだ」
「ホ、本当カ……?」
「仲間のあんただから言うが、俺は上から密命を受けているんだよ。ロウリエッタ様って言ったら分かるか?十本指の人なんだけど」
「まサか、あ、アノ方々、カ?」
「そうそう、知ってるんなら話が早い。俺はさっきまで十本指の方々に追随して学園の地下探索を行なっていたんだ。そこで予想外の敵と遭遇してな。そいつがあまりにも厄介だから、俺は一旦地上まで応援を呼びに戻ってきたんだよ。そしたら、ちょうどいいところにあんたがいるじゃないか。どうだろう、ちょっとばかし俺──というか、教団のために手伝ってくれないか?あんたなら中々の戦力になると踏んでいるんだけど」
「ソソソそのよう、ナ、たタ、大役二……俺、ヲ?」
「いやまぁ、忙しいならいいんだ。無理なら他を当たるよ。でも、あの方々のお役に立てるなら未来も明るいんじゃないか?」
「ヤ、やらセて、クれ……!」
「おーそうか、それはありがたい!じゃあ俺について来てくれ」
「一体ド、どコへム、向かウ?」
「校舎棟の屋上に秘密の抜け道がある。そこから行けば学園の地下までスグだ!」
「ショ、承知シタ」
クロは手持ちの情報を並べ立てて、それっぽい話をでっち上げた。
男が十本指の存在を知り得ていたこともあって話はスムーズだった。
勢いのままにクロから語られた内容は、多少の無理はあったが思った以上に信憑性のある形に仕上がった。それもそのはず、使用された情報はほぼ全て事実なのだから。
クロは、吐き出す言葉と同様に辿々しく走り来る男を背後に確認しながら目的地へ走る。
魔法で壁を登った方が早いのだが、なるべく手札を晒したくはない。なので、わざわざ階段を使って屋上まで躍り出た。
「地下への入り口を開けるから、少し待っていてくれ」
クロはダヴスの言葉を思い出しながら屋上の縁から身を乗り出し、件の魔法陣を探す。
すると、かなり危険な体勢でなければ見つからないような場所にひっそりとそれは刻まれていた。
合計四箇所あるということだったので、男の視線は無視して探すことだけに没頭する。
そして全ての魔法陣を確認したことでようやくクロは安心できた。
ここまで平然と行動しているように見せていたが、内心では心臓がバクバクであった。もしハッタリが通じなければ、面倒な戦闘に巻き込まれることは明白だったからだ。
一応ランゼとガルドを危険な場所から遠ざけられたという点においてはメリットのある行動だったが、ソフィアラのことを考えれば得策ではない。とはいえ、彼らもソフィアラと同様に大事な仲間だ。ここでむざむざ見捨てるわけには行かない。
「魔法陣を起動するぞ?」
しかしそんな危険もここまで。
ダヴスに言われた通りの順に、魔法陣へマナを流していく。
クロが四つめの魔法陣にマナを込めきった時、屋上の中心部に黒い球体が出現した。
「コここレ、か?」
見た目はのっぺりとしたドス黒い球体。
どこからどう見ても地下への入り口には見えない。ダヴスから見いていなければ、クロはそれが入り口だとは思いもしなかっただろう。
「ああ、先に入ってくれ。俺は入り口が誰かに見つからないように細工をしてから追いかける。地下に着いたら、ロウリエッタ様の助力をしてくれ。敵は仮面をつけた人間だからすぐにわかる!」
「分かッ、タ……!」
男はクロの言葉を鵜呑みにして、特に考えもなしに球体に身を寄せた。
すると、一瞬で男の姿が掻き消えてしまった。地下へ送られたのだろう。
「ふぅ……」
思い通りに事が進んだことでクロは一旦息を整える。
「馬鹿め、簡単に信用しやがって」
クロは男に呪詛を吐きつつ、定められたものとは逆の順序で魔法陣に過度なマナを送り込んでいった。
すると四つめの魔法陣にマナを込めたタイミングで、入り口が忽然と掻き消えた。
試しに魔法陣にマナを込めてみても、魔法陣はピクリとも反応しない。つまり、これでようやくダヴスの指令は完了ということだ。
「指令はきちんと果たした……。果たしたからな、恨みっこなしだぞ!」
クロは虚空に言葉を吐いた。
実際はダヴスに体よくゴミを押し付けただけなのだが、過程はどうあれ結果は彼の望んだ通り。
これによって当分の間はこの入り口は使えなくなるはずだ。
無駄なしがらみは断ち切れたので、クロはようやく自分のやりたいことに没頭できる。
「確かランゼ先生たちは、あの辺り──ッ!?」
突然の揺れと爆発にクロは怯える。
どうやら何者かによる攻撃が校舎棟を直撃したらしい。
しかしそのような大規模な攻撃も今の一発のみで、クロを直接狙ったものでは無いようだ。
クロは一度ランゼたちの居るであろう場所を眺める。
「いや多分、先生がいるならガルドも大丈夫だよな……?」
彼女ならそう易々とやられないはずだ。今は無視しておいても良いだろう。
さて、ソフィアラはどこにいるのだろう。
クロは所在確認と生存確認の意味を込めて、腕輪にマナを注入した。
返ってきた反応は二つ。一つはオリビアのもので、反応は図書館に近い西方面から。そしてもう一つはアルのもので、反応は東方面。
ガルドとソフィアラは未だ意識不明か、もしくは連絡困難な状態に違いない。
現在クロの居る校舎棟は学園の中央に位置している。
クロは北西の図書館から北へ迂回して南下してきたので、オリビアとは接触しなかったと考えられる。
ここまでのクロの動きと現在仲間たちの居る場所を鑑みれば、学園の北側半分は概ねカバーできていると考えて良い。
したがって、ソフィアラを探すなら学園の南側を巡るのが妥当と言える。
「ロード、ウルトラサウンド」
探索用の魔法。
クロは右手を銃のように構えて指先からソナーを打ち出した。
断続的に、弧を描くようにして魔法を放ち、返ってくる反応を窺う。
今まではクロ自身を中心に発動させていたが、今回は指向性を限定して用いる。
範囲を限定することで魔法の強度は増し、また捜査範囲の延長も可能になっている。
本来であれば強度の大きい魔法は敵に気づかれやすいという欠点があるのだが、この状況においてそれはあまりデメリットではない。
どこもかしこも戦果の真っ只中なのだから、多少魔法を勘付かれたところで直接的な攻撃はそうそう飛んでこないだろう。
「……とは思うんだが、さっきのあれもあるしな」
さっきのあれとは、遠隔地から教室が爆撃された時のことだ。
教団が多数で攻めてきている以上、遠隔攻撃に長けた人間がいないはずはない。
十本指の人間たちも得体が知れない。彼ら一人ひとりが戦術核級の攻撃力を有しているという可能性もゼロでない。
「っと、案外居るもんだな」
魔法の射程が伸びたとはいえ、いかんせんクロの技量は中途半端なものだ。学園の中心から端までを網羅できるほどの力はない。ウルトラサウンドは魔法発動時の反射を利用している関係上、ある場面を一瞬切り取って把握することしかできない。とはいえ、ある程度把握できるものはある。
どうやら生きている人間は少なくないらしい。
動き回っていたクロが気づかなかっただけで、木々の中や建物の陰、様々な場所に身を隠している人間が確認できた。その多くは学生だろう。
この状況下でも活発に行動できるのは上級生か教員だろうか。
「人が多い場所を安全地帯と考えるか、敵の集まりと考えるか……」
ある程度人間が多そうなのは南東の方角。あそこは学生寮だったり生活圏が充実している。
逃げることを諦めて籠城するなら、わざわざ遠くに行く理由はない。
敵が多数で攻めてきている以上、学園側の人間が個人で戦いを挑むとは考えにくい。だとすれば、人が密集している場所こそ学園側の人間が多い場所と考えて良いだろう。
逆に南西の方角は研究区画で、普段から学生が近づく場所ではない。
「学園地下は重要施設だけど、そこを落とそうとするならたったあれだけの人数で図書館にくるとも考えにくいんだよな。結局地下に潜ったのは実質ロウリエッタ一人だけだったし。うーん……」
十本指がソフィアラを未だに確保しているとするなら、奴らが人間の多い場所に居る可能性は低い。それに、奴らの狙いは学園の地下だけではないはず。次点の襲撃先として研究区画を狙っていても不思議ではない。
クロのここまでの考えだが、結局は全て憶測に過ぎないものだ。十本指の個々人が軍隊ほどの力量を持つのであれば、少数精鋭が数の暴力に勝てないという理屈も容易にひっくり返る。
「敵が多そうな方面に向かって被害を受けるのは避けるべきだな。クソ、いつも俺は行き当たりばったりだ……!」
しかしそんなことばかり言ってられない。
他者からの情報が得られない以上、自身で動くしかないのだ。
クロは目標を研究区画に定め、屋上から迷うことなく飛び出した。
「ひっ……」
クロが地面に勢いよく着地すると、近くで衝撃を聞いた女生徒が木の影で腰を抜かしていた。
大方、敵がやって来たとでも勘違いしたのだろう。
衣類は寝巻きのままだし、あちらこちら擦り傷を作って泥だらけなのは必死に生きようとしているからに違いない。
「あんた無事か?」
見かけた以上、無視して進むのもクロはなんだか申し訳ない。
これが日本人の性なのかも知れない。クロはそんなことを思いながら彼女に声をかけた。
「わ、私はだ、大丈夫……」
「とは言ってもなぁ。傷だらけだし……ロード、マイナーヒール」
「ッ……!」
クロは手掌に白い治癒魔法を灯し、女学生の傷口に押し当てた。
みるみる治っていくとは言い難いが、そこまで深い傷も少ないためか傷口は概ね血を滲ませない程度にまで小さくなった。
あまり長期に治癒魔法をかけても効果は薄く、また瘢痕を作りかねない。クロは以前ランゼから聞いたアドバイスを思い出して、治癒もそこそこに手を止めた。
「あ……ありがとう」
「困ったときはお互い様ってことで。ところで、ここで何を?」
「何、って……。私はここで隠れてただけだよ……」
「そうか、驚かせて申し訳ない。申し訳ないついでに一つ聞きたいんですが、俺は今友達を探している最中なんだ。ソフィアラ=デラ=ヒースコートっていう蒼い髪の女の子なんだけど、見かけたりしてないです?」
「そんなピンポイントに誰が通ったかなんて分かんないよ……」
「そうですよね。いや申し訳ない、変なことを聞いて。じゃあ俺は行くんで」
「え、見捨てるの……?」
「見捨てるって言われても、俺もやるとこあるし」
「ちょっと!思い出すから……思い出すから待ってよぉ」
「思い出すって、何をですか?」
「だから、ここを通った人をだって!確か……そう、えっと……」
クロを引き止めたいばかりに時間稼ぎをしているのだろうか。そう思うとクロは段々と腹が立ってきた。
「なぁ、早く──」
「あ、そうよ!」
「はぁ……。思い出しました?」
「蒼い髪の女の子は見てないけど、青い制服のでっかい人なら見たわ。マリア先生も一緒にいたけど……」
「ん?マリア先生ってことは違うのか……?」
「何が?」
「あ、いやこっちの話。それで、でっかい人って学校の関係者です?」
「いや、あんなにでっかい人は今までの学園生活で見たことなかったなぁ。私の倍くらい身長あったよね」
「え……?」
「ま、そんなとこだよ。他は学園関係者じゃない人がいっぱい居たし、どこもかしこも無差別な殺し合いばかり。こんな危険な場所なんだから、男のあなたが私を守るのよ」
「そのでっかい人ってのを詳しく!」
「ちょっと、私じゃなくてそっちが気になるの……?勘弁してよ」
「いいから教えてくれ。その人ってどんな感じでした?例えば帽子被ってたりしてました?」
「もう……。そうそう、確か見た目は魔道列車の車掌さんみたいな感じで、帽子って言ったらそんなようなものを被ってたよね」
「……それだ」
「えっと、さっきから何を一人で納得しているの?私にも教えてよ。私もついていくからさぁ……」
これは思わぬ収穫だ。
箸にも棒にもかからないと思われていた女学生がとっておきの情報を抱えていたのだ。
しかし彼女の処遇はどうしようか。
連れて行ったところで足手纏いにしかならないことは明白。かといってこのままここに放置するのも忍びない。
「教えても多分理解できないですよ。それに、付いて来たところで今より安全になることはないですし」
「それも含めて教えてよ!私はずっとこんな場所に隠れているなんて心臓に悪くていけないのよ。それなら強そうな人に帯同したほうが安心できるし、案外役に立てると思う」
「ちなみに、得意魔法は?」
「妨害系」
「うわー……。地味だし性格悪そう」
「そんなこと言わないの!」
「よくここまで生き残ってましたね」
「それは私が強運だったからよ」
「魔法のおかげじゃないんスね」
「私一人で何かをするなんて到底無理。裏方は前衛で戦える人が居てこそ映えるんだから」
「えー、足手纏いはちょっと……」
「や、役に立つから!だから一緒に行動させてよぉ!」
「はぁ……。そこまで言うなら止めませんけど、今から向かう場所はやばいですよ?身の危険を感じたら俺は俺を優先して動きますし、最悪の場合先輩より友達を優先しちゃうんで」
「それでもいいからッ!こんなところにビクビクしながら隠れて過ごすよりはマシよ」
「じゃあ、一時的ですがよろしく頼みます。俺はハジメ=クロカワ、一年です」
「え、君一年生なんだ。私は三年のマーリャ=ベル。そういえば君の名前は聞いたことあるね。確か一年生のヤバい奴ランキング上位の……」
「なんスか、その不名誉なランキングは」
「助けてくれるなら私が皆にあなたの良い所を言い含んでおくからさ」
「別にそんなことをモチベに動きたくないっすよ、まったく……」
マーリャは見た感じ、眼鏡を掛けた地味な女学生。銀色の髪以外は典型的な一般モブ臭を醸している。
果たして大丈夫なのだろうか。クロは不安を抱え、無理言って帯同を願うマーリャを連れてこの場を離れた。
向かう先は南西の研究区画。
目的地をそちらに定めたのは、マーリャが見かけたとされる巨漢、そしてマリアがそちらに向かったという理由からだ。
先程探った様子では、あまり人は居ない様子だった。
研究区画を利用するのは研究員や教員であるし、逃げ惑う学生が向かう先としてはあまり考えにくい。クロも逃げる先を考えるなら、なるべく人の多そうな、よく知っている地形を選ぶはずだ。
「それで、君は今どんな状況に巻き込まれてるの?」
「俺は──っていうか、学園は魔王崇拝教って集団の襲撃を受けてます。学生の中にも教団の息がかかった人間が居て、外から内から攻撃を受けている最中っすね」
「何それ……」
「教団のことは聞いたことありますよね?」
「噂程度にね」
「俺の友達がその教団の幹部連中に攫われちゃったんですよ。十本指とか言って結構物騒な連中なんですけど、今はそのうちの一人を追いかけてる最中です。先輩が見かけた巨漢が多分そいつなんで」
「めっちゃ危険じゃないの……」
「だから言ったじゃないですか、危険だって」
少しだけマーリャの足取りが重くなった。
あのまま黙って隠れていた方がマシだったとでも考えているのだろう。
それでもマーリャは小走りにクロへ続く。
「どうして君はそう平気で居られるのよ……?」
「ついこの間まで意味の分からん殺し合いに参加させられてたんで、感覚がバグってんですよ」
「殺し合い?」
「気にしないでください。とにかく付いてくるって言ったのは先輩なんですから、役に立ってくださいよ」
「それは安心してよ。私一人じゃなかったら、めっちゃ役に立つから!」
「本当ですか?信用できます?」
「任せんしゃい!なんたって、あのアマラ先輩にも褒められたことあるんだから!」
「へー……」
「何その顔。先輩を信じなさいよっ!」
「今は頼れる人は居ないんで、信じます」
クロたちが現在進んでいる研究区画は建物が立ち並び、それだけ死角も多い。
あちらこちら穴が開けられた外壁からは、すでに敵の手が及んでいることを意味している。
「あれって……」
「今じゃもう珍しくはないですね」
窓ガラスにもたれ掛かるようにしてピクリとも動かない男性が見えた。
多数の傷や出血から、到底生きては居ないだろう。
恐らくは学園の教員あたり。そんな大人が殺されていると言うことはやはり、敵の手練れが既にここへやってきているということだ。
「どこに向かうの?」
「破壊の大きそうな方に。多分、そこに奴らが居ます」
進めば進むほど、校舎棟から離れて奥に向かうほど、建物の損壊具合は大きくなっていく。
死体の数も進むに比例して増していく。その多くは末端たる教団員のものだが、学園側だとわかる人間も少なくはない。
「居ました」
「え、どこ……?」
「そこを曲がった先です。動きを止めてる人間が居ます」
「どうしてそんなことがわかるのよ?」
「俺の探索魔法ですよ。前に出ないでくださいよ?」
「出るわけないでしょ」
クロは壁に張り付きながらゆっくりと進み、建物の角から魔法の反応があった先を覗き込んだ。
すると、そこには確かに居る。数刻前に見た、あの巨漢が。
「あいつ、ですね」
「めっちゃこっち見てるんだけど……」
「俺の魔法がバレてますね。ここからは俺一人でやるんで、先輩は帰っていいですよ」
「こんな場所まで連れてきておいて帰れって、どういう神経してるのよ!?君の後ろに居るわよ」
「そうですか。じゃあ、危険だと思ったら逃げちゃってください」
「何するつもり?」
「まずは対話を。対話拒否されたら意地でも聞き出します。無理そうなら逃げます」
「大丈夫なの……?」
「俺は自分の身は守れます。でも先輩まで手が回るかわかりませんので、臨機応変に動いてください」
「じゃあそうする。私の本分は妨害だから、戦闘になったらせいぜいあれに嫌な思いをさせてやるわよ」
「期待してます」
クロはそう言うと、角から身を露わにした。
巨漢は相変わらずクロの方を凝視したままだが、今のところ攻撃してくる仕草は見られない。
とはいえ、十本指全員の実力をロウリエッタと同等だと考えると、勝てる見込みは無いと言える。
ところでクロはなぜ巨漢に姿を見せたのか。それは、彼が現在ソフィアラを抱えていないということと、周囲には誰かが隠れているという心配が無いと確定しているからだ。
既に周囲の索敵は終えている。流石に建物内にまで魔法を及ばせることは困難だが、ざっと確認したところ邪魔が入るような心配はない。心配があるとすれば、彼が何らかの手段で連絡手段を持っているということくらいだろう。
未だソフィアラの安否は不明だ。だからこそ、この男に確認しなければならない。
「なぁ、あの女の子はどうした?あんたはここで何をしている?」
彼の背後には一際大きく穿たれた壁穴が見える。
ここは研究区画の最奥。
彼が佇んでいることには必ず意味があるはずだ。例えばここを警戒して守っている、とか。
まず間違いなく、教団の狙う何かがここにあると考えて良い。
「……」
「無口なんだな。じゃあ俺から話すか。あんたらのボス、ロウリエッタはもう戻らない。学園地下で管理者って奴にやられちまったからな。だから俺はまんまとここまで逃げ果せたというわけだ。とにかく、俺がここに来たのは対話のためだ。あんたらがあの娘を返してくれるなら、何も邪魔はしない。だから何か話してくれ」
「娘は既に小官の元を離れ、引き渡し済みである。行方は知れず」
「誰に渡したんだ?」
「上の者へ」
「上?あと、マリア先生とはどういう繋がりだ?」
「話は終わりである。では、死ぬがよい」
「おい、待てって!なんにも話は終わっちゃいないだろ!」
男が完全に敵対してしまったことにクロは焦る。
どこで間違えてしまったのか。どこで歯車が狂ったのか。
「対話する必要は無い。お前の話す内容には偽りしか感じられぬ。対話を望むなら、事実を発する誠実さを持ち合わせるべきだ」
「俺は起こった事実を──」
「長年人間を見ていれば解る。お前は偽りを話している。それに、我々を知った人間を生かしておく道理は無い」
「チッ、分からず屋め!」
「デュアルマジック、ロード」
徐に発せられる混合魔法の起動符。
クロはこの一瞬で思考を駆け巡らせた。
男が魔法を発動させたのはここで確実にクロを葬るため。そしてそれを為せるだけの自信があるという表れ。
逃げるべきか戦うべきかで言えば、今回は後者だろう。後手に回って選択肢を削られるくらいなら、先制してダメージを与えた方がメリットは大きい。
「やるしか……ないッ」
現在のクロの手札は、自身の魔法とマーリャという不確定要素。『防陣』には高い信頼を置けるが、彼女が使えるかどうかは未知数だ。現時点では無いものと考えてよいだろう。あればラッキー程度に思うほかない。
そう考えた時、やはりここは男とクロの一騎打ちということになる。
果たしてクロの魔法は男の巨大な肉体に通るのか。
いや、通るはずだ。なぜかというと、一つのアイデアを思いついたからだ。
クロは地面を蹴り、真っ直ぐに男へ駆け出した。男からすれば愚直な行動に見えただろう。
しかしクロの思考は至って正常だ。窮地においてこそ思考が回るのはやはり、クロの強み。
使用する魔法はもちろん《爆身》。
なぜ今までコレを思いつかなかったのだろうかと、クロは内心自らの発想力の甘さを恥じる。
クロの行動を見ても男の顔には焦りの色は見えない。半端な攻撃なら効かないからだろうか。それとも魔法が間に合うからだろうか。
その答えは、後者。
男の身体に膨大なマナが漲った。
あとは魔法名の呼称を待つだけ。だが、その時。
「ブラック レ──ッ……!?」
男の口が当然閉じられた。
魔法を発動しようとしている最中にはあり得ない行動だ。
クロは即座にマーリャによるアシストだと理解した。
男はなおも口を開こうともがくが、むしろ一層口元が閉じる方向へ歪んでいる。
「さすが先輩」
男が異常事態に気を取られている一瞬の間に、クロは彼の目前まで迫っていた。
最初のエアリアルステップの一歩は、男へ接近するための跳躍。
クロは男に肉薄する距離で思い切り空中を蹴った。今回のステップは男へ最大のダメージを与えるための最後の過程だ。
ここでクロは更に全身へ『防陣』を纏った。クロが思いついたのは、このこと。
先日結界の中で、クロは魔法に『防陣』を纏わせて黒い悪魔の魔法を突破した。相手の防御力が心配なのであれば、それと同じことを自身の身体で行えば良いということだ。それによって肉体的な強度を無視することはさすがに難しいが、相手が防御系の魔法を身体表面に展開していた場合はそれを無視することができる。
ここでやはりクロに成長がないところは、初見殺しでしか相手を崩す手段がないところ。
今回はマーリャの手助けもあって、何とかファンファーレの一撃を相手に叩き込むことができる。
総合的に見ればここまでの流れは及第点というのが関の山だろうが、先制攻撃を決められるという事実は変わらない。
クロはマーリャへの感謝を胸に、男へ必殺の衝撃を叩き込んだ。
▽
「ロックダウンてめぇ!あたいを殺す気か!?」
「やかましい。その程度で死ぬのであれば、すぐにこの場から立ち去れ。先ほどからチョロチョロと……邪魔で仕方がない。ここに居続ける気なら、少しは某の役に立って見せろ雑魚が」
「あ゛ぁ!?てめぇから先に殺すぞ」
敵により浴びせられた無慈悲の魔弾。
ロックダウンが攻撃を回避したことにより、危うくルーが被害を被るところだった。
敵が目の前にいるにも関わらず罵り合う二人。それは彼らが襲撃下で出会った瞬間に始まっていた。
そこに割り込む形で攻撃を仕掛けてきたのは、顔面に深い皺を多数刻んだ老人。彼は魔王崇拝教所属の十本指の一人、バルトロ=デュシナム。
「ほっほっほ、よく見極めるものじゃ。……でも良いのか?回避したことで、どこぞの誰かが死んだかもしれんぞ?」
「うるっせぇんだよ干物ジジイ!あたいらの邪魔すんな!」
「そこの老人。やるならやるで、しっかりとこの阿呆を黙らせろ」
「てめぇどっちの味方だよ!」
「少なくとも貴様の味方ではない。某は弱い奴には興味ないのでな。どこで誰が死のうが、かけらも興味はない」
「ほっ。達観しておるのう。しかし、じゃ。儂はお主らを殺さねばならん。アーマ=エスト=ロックダウンとルー=ウッドフォール……悪いが二人ともここで死んでもらう」
「あたいらを知ってんのか、クソジジイ」
「なんと口の悪い……。親の教育を疑うのう」
「全くもって老人の意見には同意だな。この阿呆を黙らせてくれるなら、某はそちらに付くが?」
「ほっほっほ。何とも珍妙な事を──」
岩弾がバルトロの顔面を掠めた。
「──っと、危ない危ない。油断も好きもありゃせんな」
それはロックダウンが会話の中でこっそりと手中で形成していたもの。
隙をついて射出された攻撃も、バルトロには効果を為さなかったらしい。
「抜け駆けすんなロックダウン!あれはあたいの獲物だ!」
「それならさっさと殺して某に楽をさせてくれ」
「いちいち癇に障ることばっか言いやがって……!」
「……もう良いかのう?」
「ジジイは黙ってろ!」
「ほっ。少しは老人を労わるものじゃがのう」
「あーもう、分かった分かった。ならロックダウン、ここはあれだ。てめぇが先にあれを殺せたら、あたいが何でも言うことを聞いてやる」
「ほう……」
「しかし、だ。あたいが勝ったら、てめぇがこっちの言いなりだかんな」
「良いだろう、少しばかり遊んでやる。学園では某より強い者などほぼ皆無だったからな。そこの老人なら少しは期待できそうだ。条件付きの勝負なら更に、な」
「お互い邪魔あり何でもありのルールだ。でもまぁ死んじまったら勝負にならねぇから、てめぇに対する攻撃は緩めておいてやるよ」
「その大口、後で思い出して羞恥に苦しむといい」
四つの目玉がバルトロへ向いた。
「まさかこの儂を倒せるとでも?」
「老害らしい驕りだな。ジジイがいつまでも社会にのさばってんじゃねぇよ。今はもうてめぇらの時代じゃねぇのさ。だからさっさと死んで、若者に席を譲りな」
「それに関しては同意せざるを得んな」
「生意気な餓鬼じゃ……。しかし儂もまだまだ現役。社会の厳しさというものをその身に教えてやろう」
▽
「ごふ……ッな……ぜ……」
ニコラスは吐血しながら背後を見遣った。彼の視線はすぐにマリアの顔面とぶつかる。
胸からは血に塗れた白い腕が生え、それがニコラスに耐え難い痛みと苦しみを与えている。腕の持ち主は当然一人しか居ない。
「黙って死になさい」
「ロ、ロード……ぁ……」
マリアは腕を引き抜く流れでニコラスの縦隔──心臓と気管を握りつぶした。
呼吸を奪われたニコラスは急激に視界がブラックアウトし、頼みの魔法発動機会すら失われた。
痙攣して程なく命を手放そうとしている青年の様子を、マリアはゴミのように見下している。
マリアが腕を振るい、ピッと血の線が内壁に飛び散った。
そのままニコラスに背を向け歩き出した。
「トナライとペリにはアマラ及びオルエ、ロドヴィゴにはセアド先生、バルトロにはアーマとルー……。そしてニコラスもたった今脱落したということで、最大で十本指の半分は粉砕したというところですね。上出来でしょう」
マリアは状況を確認しながら暗い屋内を戻る。
マリアの次の獲物はグレゴリオ。
彼は現在研究区画前の警備に当たらせている。
命令を与えられている彼は忠実に仕事をこなしているだろう。
彼の働きによって、彼の周囲には必然的に生きた人間は少なくなっているはず。そうなればマリアは一対一の戦いに持ち込むことができる。
あとは残りの十本指メンバーも探し出して潰さなければならない。
ロウリエッタ、チャルック、スヴャトポルク、テイラーはマリアが消息を把握できておらず、その中でもロウリエッタとテイラーの能力は未知数だ。できればそこには誰か押し付けるのではなく、マリア自身でぶつかりたいと言うのが本音だ。
マリアの使える手札は少ない。
現時点で可能な限りの行動は起こしてしまっている。
あとは、マリアに誘導された学園の彼らが十本指を折ってくれることを期待するのみ。
「……?」
マリアの視界が唐突に切り替わった。
数秒それに遅れるようにして、全身の痛みが産声を上げる。
「ぅ……」
思考がようやく状況判断に移ると、マリアはどうやら自分が天井を仰いでいるということに気がついた。
痛みの発生源は様々。しかしその中で最も強く主張している部位は腰のある背中の辺り。
マリアが身体を持ち上げようとすると、腕が折れているためにどうにもそれが上手くいかない。
「いやぁー、危うく死ぬところですよ。ひどいことしますねー」
こつ、こつ、と近づく足音。
音の軽さと声から、それらがニコラスのものだということが分かる。
「なぜあれ、で死なない……」
ようやくマリアが上半身を起こした時、こちらに歩み寄るニコラスの姿が見えた。
彼の肉体は、受傷前とは少々趣きを異にしている。
「なる、ほど……そういう……」
「おや、知っているといった口ぶりですね。我々を害そうとするマリアさんであれば、それも当然ということですか」
夜の光が窓辺からニコラスの身体を照らす。
先程マリアによって貫かれたニコラスの胸部。そこへ穿たれた穴は現在失われている。
穴を埋めるように存在しているのは、赤黒く脈動する新しい肉体。胸から枝葉を伸ばすように広がるそれは、顔面や腹部まで広がりを見せている。
マリアは一目でそれが魔人に由来するものだと看破した。
そんな中、ニコラスがマリアの元へ近づく。
ニコラスは未だマリアを警戒しているのか、少し距離を置いて動きを止める。
「教団の、証……由来はやはり、魔人の核」
震える身体で立ち上がるマリア。
先程とは一変して立場が逆転している。
ダメージは大きく、肋骨や上腕骨、その他多数の骨がやられている。
マリアは赤く汚れた口元を拭いながら、姿が変貌してしまったニコラスを見据える。
「リバーさんから漏れたのかな?」
「私は世界各地を巡っています。教団の興りはベリア公国、タブロ村」
「よくご存知で」
「ニコラス、あなたは人間をやめたという認識で間違いないですか?」
「僕は人間ですよ、今も昔もね。見た目が悪いので実のところあまり使いたくはなかったんですが、そうも言っていられない状況でした。これは完全に僕の落ち度です」
「それにしては不満そうではありませんが?」
「僕に見た目以外のデメリットはありませんしね。不必要に力を得たという点では残念です。今の僕はロウリエッタさんよりも強くなってしまったかもしれません」
「それが俗に言う魔人化、ですか」
「遠からず、というところです。事実をお教えすることはありませんがね。とにかく驚きました。まるで攻撃の前兆を感じませんでしたから。そう言えば、マリアさんは暗殺などにも精通しているということでしたね。でも、次はありませんよ。これにてマリアさんも詰みです」
引導を渡すかのように、ニコラスは右手を突き出した。
十本指の彼らが魔法発動兆候を見せないという情報を、マリアはリバーより得ている。
「私を殺せば、情報は得られませんよ」
「何を言っているんですか。マリアさんはたとえ拷問されても何も吐かないでしょ?危険分子は早いうちに処理することが組織存続の鍵です。それで言えば、リバーさんもあの時点で消しておいた方が良かったですねー」
「それは残念です。もう少し上手く立ち回れると思ったのですが」
「上手くやっていたと思いますよ?僕も危うくやられちゃうところでしたから。でも安心してください。マリアさん、あなたに落ち度はありませんでした。単に、あなたの狙った教団という組織が大きすぎたということです」
「そうですか、それは仕方ありませんね。私が弱かったということで」
「ええ。僕もなかなかスリリングな体験ができましたし、あなたのことは忘れません。僕が死んだら、あの世でまたお会いしましょう」
ニコラスの右手はマリアの顔面を真っ直ぐに捉えている。
引き金を引く動作もなく、魔法は発動されるだろう。
マリアは徐に窓の外を見た。
学園は未曾有のパニックだが、窓枠によって区切られた景色は普段と何ら変わりない。
人間いつかは死ぬ。
誰がいくら頑張って生きようが死のうが、マリアが見ている景色のように世界は何も変わらないのかもしれない。
では人間はなぜそうも必死に生きようとするのか。
こんな時にどうでもいい思考がマリアに湧いてくる。
そしてマリアはフッと笑った。
それを見てニコラスは彼女の視線を追うように目を動かしたが、特におかしなところはない。
末期の記憶を脳裏に貼り付けているだけか。ニコラスはマリアの仕草をそう解釈すると、
「では、さようなら」
黒く歪んでしまった笑顔で無慈悲な一撃を音も無く放出した。