第139話 破壊
アヴェンドロトの手元の魔法──アンチマターが四つの立方体へと分裂した。
それらは意志を持ったように黒い悪魔の周辺へ。
「アイス バインド!」
ソフィアラもアヴェンドロトと同時に魔法を発動。
その足元から氷が地面の上を走り、黒い悪魔へと襲いかかった。
ダン──。
黒い悪魔が地面を踏むと、黒い波動が駆け抜けて氷を砕く。
ソフィアラは何かを恐れてか、バックステップで波紋から距離を取った。
アヴェンドロトが同じく波動に触れないように飛び上がっていることからも、触れてはならない何かなのだろう。
黒い悪魔はその間に四本の腕からそれぞれ魔弾を生成した。
即座にそれらが射出され、アヴェンドロトの立方体と接触する。
しかし一方的に黒い悪魔の魔法だけが消え失せる結果となった。
「どういう魔法だ?」
クロの残りMPは三割ほど。
少し寝ていたことで回復したが、それでも万全な状態ではない。
加えて片腕を失っていることも、ソフィアラから後衛に徹しろと言われている原因だ。
一撃必殺の魔法を準備しながらクロは観察する。
クロが周りよりも長けているのはその膨大なマナ容量ではなく、その観察眼だ。
その眼によって、立方体が大きさを減じていることが見てとれた。
「魔法を無効化するというよりは、打ち消すって感じか」
アヴェンドロトが黒い悪魔に近づかず、それを見たソフィアラも動きを止めている。
波動の残滓として地面をチリチリと焦がす黒い炎が危険な匂いを漂わせているからだ。
「あれは?」
「黒炎には触れるな。我の魔法にもな」
「分かったわ」
再び黒い悪魔が動き出す。
ひとところに留まる気はないようだ。
今度は四本の腕に黒い刃を抱いて。
「やっぱり起動符すらねーな。アヴェンドロトも同じようだが……」
クロが準備している間も、アヴェンドロトが最前線で黒い悪魔の攻撃を一手に引き受けている。
ソフィアラは適度な距離を保ちつつ、適切なタイミングで蹴撃を放つ。
蹴りの先からは電撃が放出され黒い悪魔に直撃するが、一瞬たりともその動きは鈍らなかった。
それどころか、
「あ……っぶないわね」
電撃に類する速度で魔弾が射出され、ソフィアラの頬を掠めている。
やはり発動兆候の無い魔法にはソフィアラは対応が難しい。
距離を取っているからこそ大きなダメージは無かったが、顔面を射抜かれていたかと思うとゾッとする。
しかしその一方で、アヴェンドロトは対応が間に合っている。
魔弾は拳で弾き飛ばし、刃は徹底的に受けないように立ち回る。
「貴様は手数で攻めろ。我以上に接近するな」
攻撃の隙を突きたいアヴェンドロトだが、相手は人間ではない。
四本の腕に対する最適な動きはなかなか得られない。
普通の人間であれば晒されるはずの攻撃後の隙も、追加の二本の腕が妨げてくるからだ。
だからこそ有効打は入りづらい。
左右の腕一本ずつで刃が横薙ぎに振るわれ、アヴェンドロトは後方へステップを踏む。
そこに対して、残った二本の腕を前に突き刺すように飛び出してくる黒い悪魔。
地面から出現した光の柱がそれを上方へ跳ね上げた。
しかしここで攻撃に転じてはいけない。
続く左腕による横薙ぎの一閃。これは先程攻撃に使われたうちの一本。
屈んで躱したアヴェンドロトの頭上からは、残った右腕による振り下ろしが。
獲った、と黒い悪魔も思っただろう。
刃が地面を叩き、金属音が響き渡る。
真っ二つにされたはずのアヴェンドロトの姿がボヤけ、消える。
「ուր գնացիր」
「知らぬ言語だ。ロード──」
ヒュン──。
風を切り裂く音が四回。
黒い悪魔は身体を背後を確認もせずに刃を四回振るっていた。
しかしそこにアヴェンドロトは居ない。
影が覆ったことで、黒い悪魔は頭上の敵の存在に気が付いた。
飛び上がったアヴェンドロトは身体を逆さに、両手を黒い悪魔に向けている。
「──ガルニ クロス」
十字架が落ちた。
黒い悪魔を中心に、大きく地面が抉れている。
光による拘束──“ガルニの十字架“は、強烈な圧で以って黒い悪魔を捕縛する。
押し潰されそうになりながらも耐える黒い悪魔だが、膝から崩れて立ち上がることすら困難な様子だ。
「貴様ら、出番だ」
すでにクロは魔法を発動できる段階に居た。
セアド戦で見せたトルネードバレットだが、ソフィアラたちを巻き込まないようにすることを考えるとタイミングは難しい。
彼女らは攻撃を続けている。
しかし何故かその全てが効果を成さない。
アヴェンドロト光弾や光刃、そしてソフィアラの電撃や氷弾も何もかもがダメージソースとして機能していない。
黒い悪魔が動きを止めているにも関わらず、だ。
その過程でアヴェンドロトの出現させた球体も掻き消えた。
直接攻撃に打って出ていたアヴェンドロトだったが、違和感を感じ取ってソフィアラの側へ。
「どうしたの?」
「あれには触れるな」
アヴェンドロトの触れた拳がシュウシュウと音を立てている。
黒く穢れた皮膚は爛れ落ちているようだ。
心なしか、徐々に穢れの範囲が広がっているようにも思える。
「あの靄ね。クロが言ってた通り、攻撃を無効化されているのかしら?」
「否。害毒の瘴気装甲だ」
「……何か知っているの?」
「立ち昇る瘴気は魔法に非ず。生得的な何かだ」
「黒い悪魔自身の能力ってことね。そこから何かが分かりそう?」
「現状では不十分。攻撃を」
アヴェンドロトがちらりとクロに視線を向けた。
お前が攻撃しろということだろう。
「了解です!ロード……巻き込まれないように離れてください!」
ソフィアラとアヴェンドロトが左右に跳んだ。
それを攻撃の合図として、クロは手元の魔法を解き放つ。
「エア バースト!」
それは真っ直ぐに黒い悪魔を貫いた。
トルネードバレットは射出速度もさることながら、その真髄は威力にある。
エアバーストは単なる打ち出しのための魔法ではない。
弾丸は霧散するはずのエアバーストを纏い、射出される。
解けようとするエネルギーを回転力で無理やりに弾丸周囲に止まらせ、斥力を圧縮。
そして接触による衝撃をトリガーとし、それらは解放される。
轟──。
空間に穴が空いた。
風が一瞬で空間を抉り抜いたのだ。
直後、激しい突風が駆け抜ける。
離れた場所に居たソフィアラとアヴェンドロトも煽りを受けて吹き飛ばされる。
勿論、クロも立っていられずに尻餅をつく結果となる。
「やったか……!?」
そう言わずにはいられない。
クロはすぐに起き上がり、状況を確認する。
「……なッ!?」
黒い悪魔は変わらずそこに居た。
アヴェンドロトによる拘束もそのままだ。
大きく変化したのはその地形だろう。
黒い悪魔の足元の地面すら抉り取られたはずだが、ガルニの十字架はそれも踏まえた上で依然機能している。
「クロの魔法でも無傷ね……。魔法無効と言っても差し支えなさそう」
「完全なる無効化など不可能」
「魔導印が原因ってわけでも無いのよね?」
「然り。全ては瘴気に阻まれている」
「そう。じゃあクロみたいな魔法って無いわけね。ところで、あの拘束はどれくらい保つの?」
「当面は」
「どういう原理?」
「あれが拘束に脆弱なだけのこと」
「そうなのね」
アヴェンドロトは黒い悪魔の脆弱性を見抜いたわけではない。
結果的に効果的だったというだけだ。
しかしある程度の確証を以って拘束に至っている。
拘束系統の魔法を回避する条件は、防御を捨てることだ。
黒い悪魔はその能力を防御力に全振りしている。
だからこそ、彼に対する拘束の効果は覿面だ。
「弱点は必在。今はそれが見えぬ」
「弱点って属性的なものなのかしら?でも光属性の攻撃魔法は効かないわね」
「属性弱点を突けぬなら、武器種や逸話を考慮する」
「武器種は分かるのだけれど、逸話って?」
「害毒の有名な逸話はヒュドラ」
「九つの首と毒の吐息が有名なあれね。でもそんな感じはしないわね」
「いかにも」
「ԸնդլայնԲեռնել──」
黒い悪魔はアヴェンドロトたちの思惑など無視して唐突に四本の腕を水平に広げた。
それぞれの手掌が上を向いて、そこに黒く魔法が蠢き出す。
それらは徐々に黒い板状の正三角形へと姿を変え、その変化に伴って重力が増していく。
黒い悪魔は、動けないのならその状態で攻撃をする腹積りのようだ。
「──Թույնի աչքերի գնդակը」
やはり黒い悪魔から発せられた言語を誰も理解はできない。
が、足元に出現した魔法陣から何かしらの魔法を発動しようとしていることは確か。
黒い魔法陣の内容はあまりにも緻密で、どのような魔法かを窺い知ることは不可能だ。
「これ、は……」
「重力場か」
「ぐっ……」
異常に身体が重い。
アヴェンドロトは涼しい顔で耐えているが、ソフィアラとクロはすぐに膝を屈した。
「逃げたほうが……良くない?」
「それも一理。だがもう遅い」
ドプ……。
徐に黒い悪魔の額あたりから眼球が吐き出された。
脈動するそれは、あまりにも不気味だ。
「……眼?」
「成程」
「何か分かるの?」
眼球は少しずつ浮き上がると黒い悪魔の頭上一メートル程のところで停止した。
その動きから、アヴェンドロトの魔法の影響は受けていないことが分かる。
アヴェンドロトのそれは魔法に対して機能するものではないのか。
そんな思考を動かしているクロをよそに、二人の会話が進んでいく。
「害毒、四人の配下、象徴たる眼球。バロールの邪眼か」
「物騒な名前の魔法、ね……。どうすればいいかしら?」
「弱点は露出済。有効打は投石及び赤熱槍。だが……」
「クロ!」
「聞こえてますよ!ロード──」
クロのストーンバレットは重力の影響下で黒い悪魔に届かずに落着した。
「なッ……!?」
「クロ、しっかり狙って」
「無理ですよ、重力影響強すぎ!」
「アヴェンドロト、魔法の発動阻止に失敗したらどうなるのかしら?」
「死あるのみ」
「まじか……。あんたどうにかできないのか!?」
「我は有効な手段を持ち得ぬ」
「俺しかどうにかできないのかよ……」
「貴様らに朗報だ」
「何かしら……?」
「あんたが言う朗報って絶対まともじゃないだろ」
「破壊に成功したとて重圧は解除されぬ。爆死が圧死に変わるだけのこと」
「どうすりゃいいんだっつの!」
さて、どうする?
馬鹿な会話をしているようだが、三人は最早まともに歩き出すことすらできない。
アヴェンドロトも腰を落としてしまっているし、今やクロしか頼りがいないのだ。
アヴェンドロト一人なら逃げ出すことができる。
しかしそうしないのは、クロたちが未だ保護対象だからだろうか。
むしろアヴェンドロトはここで死ぬことすら願っているのかもしれない。
「どうする……いや、破壊自体は容易なんだ。だが……」
防陣を魔法に纏わせることで攻撃は成功するだろう。しかし問題は、その後の対応だ。
アヴェンドロトの言う内容が確かなら、黒い悪魔の魔法を阻止できてもできなくても死へ直行する。
止められなければ大破壊、止められても圧死の未来。
クロ一人だけなら防陣を張って生き残れるはずだ。
しかしそれも、MPが保つことを前提としている。
「クロ、もう時間がなさそうよ」
黒い悪魔が四本の腕を掲げ始めた。
四枚の正三角形は、眼球を覆いながら順調に正三角錐を形成するだろう。
恐らくそこが魔法発動の起点。
その動きは遅々としているが、アヴェンドロトの魔法の影響があるのかもしれない。
「ロード!お嬢様、アヴェンドロト、こっちへ!」
一発勝負だが、試さない手はない。
失敗すれば死んでしまうのだから、できることはやるのみだ。
二人が這うように進んできてクロの元に辿り着くと、すぐに説明を開始した。
「何も考えずに俺にマナを分けてください。死なないようにするにはこれしかありません」
「分かったわ。アヴェンドロト、クロの言う通りに」
「承知した」
思いのほか一瞬で話は纏まった。ソフィアラの理解が早かったおかげだろう。
クロは二人の手を奪い取るように掴み、マナの注入を任せる。右手のソフィアラからはよく知ったマナが、左手のアヴェンドロトからは異質なマナが、それぞれクロの体内を席巻する。どちらもクロにとっては異物だが、何事もなく受け入れられる。本来であれば受け入れられない他人のマナですら受容する自身の異常性をクロは再認識しつつ、ストーンバレットを構えた。
「この魔法で問題ないんですよね?」
「恐らくな」
「それが間違ってたら?」
「死あるのみ」
「ですよね……。一応もう一つ準備しておくか」
赤熱した槍と言われても金属の槍を用意できるわけでもない。
クロは考えに考えた末、ヒートジャベリンで代用した。完成次第、二つの魔法を即座に放出。それらは防陣によって全ての魔法影響を無視して進む。
「失敗したら、すいません」
「その時はその時よ」
クロはいつもギリギリを生きている。しかし紙一重で得られた命も、たった今失われそうになっている。
いつもと違うのは、そこに他者の命が介在していると言うこと。
だから失敗はできない。
そんなクロの思考をよそに、魔法は何事もなく黒い悪魔の生み出した眼球に触れた。何かしらの干渉を受けるのかと思いきや、そんなことはなかった。
豆腐のように脆くも崩れ去る眼球。
クロは「最初から防陣を纏ったトルネードバレットでもよかったんじゃね?」とも考えたが、黙っておいた。
「Ռու……」
短くて切ない、それでいて恨みの籠ったような異国の言語。
直後、黒い悪魔の姿が消えた──否、ぐしゃりと潰れた。周囲の建物も一瞬で圧壊した。
ここはイベント事が行われる広場のような場所なのだろう。そんな広場が瞬く間に凄惨な現場へと変貌している。
建物だけでなく、等しく地面も崩れている。
そんな現場にいてクロたちが無事でいられるかというと、そんなわけもなく。
「このペースだとMPが保ちそうにないです」
「正確には?」
「あと、十秒程かと……」
クロは絶望したようにそう発した。
アヴェンドロトはクロとソフィアラを抱えて脱兎の如く走り出した。何かを察知したのか即座に動き出し、結果的にはこれが功を奏した。
持続的に目減りしていくMPから事態を冷静に理解できているのはクロだけだ。クロ一人では耐え切れたかもしれないが、今回はそれが三人だ。握る手を離せば、クロの生存時間は延長するだろう。防陣の効果中に魔法が終了したらの話だが。
それにしても黒い悪魔の魔法不成立の弊害は異常だ。これが本来の魔法効果とさえ見紛うほど。
動き出すと分かるが、重力影響に置かれた範囲は広大だった。半径で言えば100メートルはあるだろうか。
「ロード──……成程」
一瞬だけアヴェンドロトの足元に出現した魔法陣が掻き消えた。
「どうしたの?」
「魔法無効領域だ」
「ご丁寧なことね」
魔法さえ使うことができればアヴェンドロトにとって移動は一瞬なのだが、そうもいかないようだ。
どうやら黒い悪魔の魔法は徹底して人を殺すことに特化しているらしい。
クロが残りMP量を心配していると、明確な境界が見えてきた。破壊と非破壊の狭間だからそれは一目瞭然だ。
心配が増すのには理由がある。
そこらにトマトが潰れたような痕跡が見て取れるのだ。
クロの中に申し訳なさが渦巻くが、こんな環境ではそんなことも考えてられない。
巻き込まれた方が悪いのだ。
カウントが始まる。
「3……2……1──」
アヴェンドロトが渾身の踏み込みからクロとソフィアラの身体が大きく揺れた。
「──0……!」
クロのMPは残り5%。つまり、防陣の限界。
一際大きい破壊音とともに、二人は放り出された。
「ぐえっ……なッ!?お嬢様、大丈夫ですか?」
クロはソフィアラの心配が先立った。
軽い外傷は見てとれるが、彼女の表情からは痛めた様子もなく、大事には至っていないようだ。
一方アヴェンドロトは両手をクロ側に伸ばした状態で倒れ込んでいた。最後に彼らを放り投げたと見える。
そしてクロは実を起こすや否や絶句した。
黒い悪魔の魔法効果範囲が大きく陥没していたからだ。
5メートル程落ち窪んだ地形は、ほとんどが先ほどの破壊音により形成されたもの。
「……って、おい、あんた……!?」
なかなか動き出さないアヴェンドロトを見て、クロは違和感から覗き込んだ。
そして再び絶句した。
そこには何もなかったからだ。そことは、効果範囲に飲まれた彼の大腿から下。
拍動に合わせて噴出する血液は、状況にも関わらず滑稽に映る。
「大丈夫……じゃない、よな……?」
「貴様らの無事を優先したまで。心配は無用」
アヴェンドロトがそう言うと、出血が徐々に治まり始めた。
「本当か……?俺も治癒魔法は使えるが……」
「アヴェンドロトも治癒魔法は使えるわ。心配はいらないって言ってるし、多分そうなんでしょうね」
「そうですか。まぁアヴェンドロトも光属性メインということですし、治癒魔法が競合しないように控えます」
「ところでクロ、その腕はそういうことででいいのよね?」
「腕?そういうこと……って、あれ!?」
クロは自身の腕を経由して頭上に視線を動かした。
腕の回復が間違いないことを示すように、数字はカウントを一つ伸ばしている。
「そう、か。倒せたのか……。いやマジで、あんたのおかげだ」
「何よりだ」
「クロはいつも危なっかしいわね。でも良かったわ」
「巻き込んですいません。っていうか、多分あれの標的は俺でしたし」
「ちょっかい出したのなら追われるのも無理ないわね。じゃあ、ジュリエットを探しましょうか」
「……え!?」
「目下、結界内で一番厄介な存在を倒したんでしょ?それに身体も良くなったしね」
「それは、ありがたい話ですが……」
「アヴェンドロト、あなたはどうするの?」
「ロード──」
「えっ?」
クロとソフィアラは慌てて周囲を確認した。
アヴェンドロトは最適な動きを遂行する。彼が行動を始めたということは周囲に敵がいるということ。
クロは同時に嫌な予感も感じ取っていた。
そして案の定、先程の騒動を聞きつけたのか二名の男性が姿を見せていた。
その二人にクロは見覚えがあった。彼らはレザーとソルディッドに間違いない。
彼らの頭上の数字は、あの頃より10以上も増えている。しかし結界に囚われた頃ならいざ知らず、今のクロにはそれを責めることはできない。
彼らは血だらけで倒れるアヴェンドロトを見て好奇の視線を向けた。当然だ。殺せる時に殺しておくことがここでのセオリーなのだから。
「おい、あんたら……!」
「──ジェノサイド」
クロはこの時何を思って彼らに声を掛けようとしたのだろうか。
単なる挨拶か?それとも逃げろとでも言いたかったのか?
それは無意味な思考だったかもしれない。
彼らに対してクロも思うところがないわけでもない。殺し合った仲だし、最後はクロが一方的にいじめていたようなものだ。
しかし敵とはいえ顔見知りの頭部が消し飛ばされる場面は、残酷以外のなにものでもなかった。
「敵の出現は実に好都合。貴様も行動に移るが良い」
「どうして……!」
アヴェンドロトはさも当然のように身体をもたげ、身体の調子を確認している。頭上に数字が点灯し、彼の両脚は元通り。
アヴェンドロトに常識は通用しない。必要であれば当然殺す。合理的といえば聞こえは良いが、要は人間的な側面を無視した結果だ。
「さ、行きましょう」
ソフィアラも何も言わない。アヴェンドロトの行為を受け入れているのだろう。
「は、はい……」
クロはもう一度レザーとソルディッドの方を見遣った。
すでにそこに死体は無く、飛び散った脳漿や肉片、血痕などは全て消え失せている。これまで何度も見てきた結界内でのルールだ。
この状況こそが現実なのだとクロは半ばショックを受けつつ、どこに居るとも分からないジュリエットの元へ向かう。
そこからクロたちはジュリエットの消息に関する情報を得られなかった。それもこれも、アヴェンドロトに原因がある。
敵意や害意を持っている人間が近づくと、アヴェンドロトが即座にそれを察知して殺してしまう。身を守るという観点では間違ってはいない。しかしそんなことが平然と続けられていると、それが正しいとさえ錯覚してしてクロは何も言えなくなった。
終始人探しは難航した。結界が開かれてから一週間以上が経過して煮詰まって来た現在、純粋に殺しを忌避している人間などいなかったからだ。
頭上の数字が挨拶となり、殺しがコミュニケーションツールへと変わっていた。
「くそッ……どこにもいねぇ!」
「やっぱりトナライとペリは見つからないわね。何かヒントになるようなことは言っていなかったの?」
「なぜジュリエットを攫ったか。そこなんですよね」
クロたちは結界内を隈なく巡った。
時折見られる陣営は軒並み破壊された。クロたちが近づいたら問答無用で仕掛けてくるのだからそうなるのも仕方がない。
アヴェンドロトの行動は全てが殺しに繋がるのでその行為からは目を背けた。しかし凝り固まった環境をぶっ壊していく過程は、それはそれで気分がよかった。
「ジュリエットは必要だけど、元々そこに面識はなかったわけじゃない?だからトナライたちが一方的にジュリエットを知る機会があったということよね?」
「そうですね。容易に想像できるのはトナライたちも教団員だったという線ですけど、なんかしっくりこないんですよね」
「身内なら保護するために攫うんじゃないの?」
「俺が難しく考えすぎなんですかね?ただ、言い方は悪いですけど、ジュリエット自身に攫われるような価値はなかったと思います。あるとすれば彼女自身以外の要素ですね。容易に思いつくのは彼女の持つ魔導書なんですけど。うーん……」
「魔導書だけが欲しいならジュリエットを生かして置いておく必要もないわけだしね」
「もっと情報を聞き出しておくべきでしたね……」
「情報を持ってそうなのは、それこそ結界内で長く生きている人だろうけれど。それで言ったら、チャルックって人はどうなの?」
「あいつは問答無用で俺たちを攻撃してきたので関係なさそうですね。俺は、環境に適応した単なる殺人鬼って考えてます」
「そう。じゃあ手詰まりね。アヴェンドロト、これに関してあなたは何かできないかしら?」
「我に出来得ることなど無い」
「そうよね。あなたは脱出手段を探してくれているのだから無理言ってごめんなさい」
アヴェンドロトによる強襲は、ある意味では情報収集に役立っていた部分もある。
命乞いをする者が死を回避するためにベラベラと情報を吐くことがあるからだ。
だが結果的に役立つ情報を出してくれた者は居なかった。
今ではアヴェンドロトは死を運ぶ死神だ。彼に近づく者など皆無。
結果的に何が言いたいかというと、八方塞がりということだ。
「ジュリエットを連れて逃げ回っているなら、どこかで情報を拾えたはずなんだ。だけどそれが無いってことは……」
「もう外に出た可能性が高いわね。脱出条件の方もこれといって進展はないわけだけれど」
「……ここまで何も収穫が無いとストレスが溜まりますね」
「そうね。そう言えばアヴェンドロトの数字がトナライのものを超えたけど、何か分かることはあるかしら?」
「肉体的な変化は無く、条件達成を示す兆候も無い」
これで数字の表す意味がますます分からなくなった。
それからいくら考えても答えが出ることはなく、時間だけが無為に過ぎていく。
そして現実時間で日曜日から月曜日に差し掛かろうとした時、それは起こった。
「な、なんだ!?」
クロたちは急に全身が固定されたように身動きができなくなった。
呼吸はできる。しかし指先一つ動かず、眼球すら動かせない。金縛りのような異常感覚に、クロとソフィアラに恐怖が立ち昇る。
彼らの感情を無視して状況は進行する。
視界に映る範囲の建造物が次々と粒子となって消え始めた。
同時に地面も空と同じ暗い色に平されていく。
「何が起こっているんだ!?」
「クロ、周囲を索敵して。
「え、えっと……遠くに何人か引っかかるけど、動きがないっていうか……」
「同上」
アヴェンドロトも個人的に索敵をしており、クロと同じような結果を得たようだ。
そうこうしているうちに、地面も空も一色の空間に変化してしまっていた。
確かに足の裏は地面を踏んでいる感覚がある。しかし、上下左右が全くわからない。
そこはすでに視覚情報だけでは位置感覚が不安になる暗黒空間。
次第に平衡感覚が不安定になり、クロたちを宇宙空間に放り出されたかのような感覚に陥らせる。
背後から光が刺した。光は次々とクロたちの側を通り過ぎ、遥か彼方に吸い込まれていく。それら全てが一箇所に収束し、空間がくにゃりと歪んだ。
収束した一点に向けて吸い込まれるような異常感覚。
ブラックホールに飲み込まれているのだろうか。クロは子供の頃にテレビで見たブラックホール特集を思い出しながら、身動きが取れない状況に身を任せていた。
今度は光が迫って来た。あっという間全方位が光で充溢し、空間は影すら差さない真っ白なものへと様変わりした。
そして、クロたちを謎の浮遊感が襲った。
▽
学園の結界が警告を発した。
学園長のカイザーは即座にこれに気がついたが、このようなことは珍しくはない。
学園に所蔵されている書物や魔導書を狙う輩は少なく無いからだ。また学園は魔法研究の最先端でもあり、論文や研究素材も豊富だ。
カイザーは今回もいつものことだろうと半ば警戒を解きつつ結界の異変を見守る。
結界には自動修復機構が組み込まれているため、普段であれば何をせずとも結界は良好な状態へと改善される。その過程はカイザーの部屋に設置されている学園のミニチュアでも確認できる。これは人間など個人を監視できるものではなく、結界を監視することを主な機能として作られたものだ。しかし学園内で行使された魔法であれば、不正確ながらその発動地点を確認できるようにもなっている。
「……は?」
カイザーは自らの見ている光景を信じることができなかった。
まず結界がその場から姿を消した。
直後異なる結界が、元の結界があった場所に展開されたのだ。
結界には修復機構が備わっていても、即座に再展開させるような機構は備わっていない。例えば結界に穴が空いたとして、穴を塞ぐために結界を一度リセットして再度展開するなど無駄が多すぎるからだ。しかし今回はそのようなことが行われていた。
再展開された結界は機構も目的もまるで異なり、製作者でないカイザーには何一つ読み取ることができない。
唯一理解できることは、元あった学園の結界は何らかの理由により消失し、何者かが別の結界を展開させたという事実だけ。
それでも学園のミニチュアは機能しており、生じている事実をありのままに伝えてきている。
ミニチュアの学園内部で魔法使用の痕跡が見てとれた。それは一つや二つではなく、十や二十でも収まらない。優に百を超える魔法が同時に各所で行使されている。
即ち、それだけの数の侵入者が魔法を行使して暴れ回っているということを示している。
「皆を起こさねば……!」
慌てて動き出したカイザーの耳が、漸く様々な音を拾い始めた。
学園内に絶叫が木霊している。それは殺戮を悦ぶ人間の声から、被害に遭った者の悲鳴まで。
学園は、未曾有のパニックに陥っていた。