第137話 最善
「ぁあ゛ッ……!」
「クロ、君……?」
「ぎ……ぁ゛ッ……ってぇええええ……ッ!!!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い──。
ただひたすらに単一の感情がクロの脳内を暴れ回る。
膝を折ったクロは左手で右肩の辺りをギュッと握り締め、無意識的に止血を図る。
クロは漸く自身の傷跡を見た。
右腕は、上腕部の中間付近でバッサリと切断されている。
断面はひどく綺麗な創を形成しており、高精度な魔法により傷つけられたことは確かだ。
出血が多すぎる。
止血しなければまずい。
今すぐ動かなければ殺されてしまう。
全てクロには理解できている。それなのに、痛みと恐怖で身体が竦んでしまって動かない。まさしくヘビに睨まれたカエルである。
「あ、あぁっ……クロ君、傷が……あああ……」
クロの後ろではジュリエットが半狂乱に陥っている。
彼女の思考は、どう止血すべきか、どう腕を繋げるべきか。逃げ出せばいいのか。戦えばいいのか。視線が敵とクロと彼の腕の間で揺れている。
「あ゛あ゛あ゛……許さ、ッ──」
敵が使用した魔法は風属性だろう。
今まさに振り下ろされんとしている攻撃もその類のはずだ。
敵のゆっくりとした動きは走馬燈によるものなのか、それとも先程より高威力の攻撃を狙っているのか。
そういったクロの思考は確かに存在する。
周囲の事象は余すことなく情報として脳に流れ込んでくるが、身体が思うように動かない。動けないのだ。
それは、失血による影響もあるだろうか。
「──なッ!?」
クロの身体がズンと重くなった。
ここに来て、重ね掛けしていた強化魔法が次々と効力を失い始めたのだ。
同時にクロはハッとした。
超速で接近する高密度のマナを知覚したからだ。
「うぐっ……!」
クロは何とか魔導印へのマナ注入を間に合わせた。
目の前で風が解けて弾け、突風が環境を蹂躙。
ジュリエットも思わず尻餅をついてしまっている。
敵の魔法が弾けたことでクロも反射的に仰け反ってしまったが、直接的なダメージは無い。
クロの判断が間に合ったのは、魔法解除の感覚に襲われたからだ。
俊敏な動作こそできなくなってしまったが、即死だけは免れた形だ。
その一方でMPがごっそりと削られている。今の一撃だけでその二割ほどが失われたのだ。恐らく強化魔法を掛ければ削られる量も減るだろう。
「おやおや、どういう原理かのぅ。今ので死なんとは、珍妙な魔法を待機させていると見える」
「てんめ゛ェ……うッッ!ジュリエット、止血を……!」
「あ、うん……そうだった……」
指示を受けて、ようやくジュリエットも正気を取り戻して動き出した。
ジュリエットは制服の袖の辺りを破り、急いでクロの傷口直上に巻きつけた。
「ロード、ストーンスキ……ンッ!?」
直接的な命の危機に際して忘れていた痛みが再びクロを刺激している。
応急手当てですら激しい痛みを伴う。
魔法を中断されそうになりながらもなんとか詠唱し切る。
「地属性か、厄介だのぅ」
言葉と共に再び攻撃が振り下ろされた。
クロは無い腕を後ろに振って、ジュリエットを隠す。
「ゔ……!」
風が弾けて消える。
削られたMPは一割強。
対抗属性だからこそダメージ減衰は大きいが、ジリ貧なのは変わりがない。
敵から同じ攻撃が来たとして、耐えられるのは精々あと五回。
回避するのが最善だが、現状生身の肉体ではそれも難しい。
回避が困難だとしても、防御力を上げずに攻撃を受けるのは得策ではない。
「これも防ぐか。腕を失っても逃げ出さないあたり、見た目通りではないということかのぅ」
言葉の割には敵に焦った様子もない。
じっくり殺せばいいとでも考えているのだろうか。
敵はクロから情報を引き出そうと攻撃を繰り返している。
いずれクロの魔法を看破してくるに違いない。
それよりも先にMP切れを起こす方が早いかもしれない。
「ジュ、ジュリエット……ぐッ……絶対に俺の背中から出るなよ……?」
「えっ、うん……無理しないで……」
クロは小声で背後へ指示を飛ばす。
敵の標的を増やすことでのクロへのメリットは無い。
痛みに倒れ込みそうになるのを我慢していると、三度目の攻撃が。
「無駄なことは、やめろ……」
「ふぅむ、無駄と言えば無駄か。腕を切り落とされた時には発動していなかった魔法ということは、魔導具か魔導印かのぅ」
「……。ロード、コンプレックス」
これで強化魔法は二つ。
時間を掛けるほどに、手札が晒されていく。
クロは痛みを無視して思考に全力を注ぐが、解決策はそうすぐには浮かばないものだ。
俊敏な移動を行うためには、地属性以外の強化魔法も必須だ。
しかし地属性以外の手札も見せて構わないのだろうか。
現時点では、相手に警戒させないまま放てる《爆身》が一番の有効打となりそうだ。
詠唱が必要な魔法では、時間が掛かるばかりでなく敵の警戒を誘いそうではある。
「やる気も目も死んでおらぬのぅ。ではこちらも趣向を変えるとするか」
「何をッ……しても、無駄だぞ……」
「無駄かどうかは、おいが決める」
周囲のマナ密度が濃くなった。
クロはこれが嫌だったのだ。
敵に油断させたまま逃げ出す、ないしは攻撃できれば御の字だったのだが。
そう上手くはいかないようだ。
「そうか……よ……」
急にクロの頭が傾いた。
動き出そうとした途端の立ちくらみは、多量の失血が原因か。
「ふらふらではないか」
「黙ってろ、この殺人鬼が……」
「このおいが殺人鬼か。おいにはトナライと言う高尚な名があるんだがのぅ」
「テメェの名前なんか知るかよ……」
「最近の若者は礼儀がなってないのぅ。それだけでも万死に値するというもの」
「どうせ元から殺すつもりだろうが……!」
「後ろの嬢さんを差し出せば、小細工なしでやってやるぞ?」
「はぁ?急に何を言ってやがる」
「その嬢さんはおいたちが丁重に扱うと言っているのだ。そちらはどうあってもやる気らしいしのぅ。嬢さんには手を出さぬから、タイマンでやってやると言っているのだ」
「俺がそんな戯言を信じる、と……?」
「愚かな若者だのぅ。せっかくの好機をフイにするとは」
「誰がお前の言うことなんか信じるか、よ……?あァ、クソ……意識が──」
またも倒れそうになったクロだったが、
「──ッ!?」
小さな振動がクロを現実に引き戻した。
振動は腕の魔導具から伝わってきた。
一瞬のことだったが、クロは縋るような気持ちでマナを込めた。
すると、そこから振動は絶えることなく生じ続けた。
それが嘘だと思わせないように、魔導具の一部が青く輝いている。
この現実がいつまでも続くようにと、断続的にマナを注いだ。
クロの意識が自身の腕に行っている間も、トナライは口を開いている。
「おいも残酷なことはやりたくないんだがのぅ」
「黙れ……下衆め。お前は絶対に、殺す……!」
「ここのルールに従っているだけなのにのぅ」
仕方がない、とトナライは続ける。
彼はクロの変化に気がついていない。
先ほどのクロの反応も、負傷によるものだと判断されたようだ。
「ロード……」
クロは足元に魔法陣を三つ同時に展開させた。
「スピードアップ、ブレッシング、プロテクション」
「む、同時展開か。器用なことをするのぅ」
いずれバレるのなら、先にクロ側から手札を開示する。
速度を重視したこの手法によって、総合的な詠唱時間を大きく軽減できる。
現時点では三つが限界だが、いずれは《爆身》発動に必要な魔法全てを同時展開できるようになることが目標だ。
だからこそ、ここで死ぬわけにはいかない。
なにせソフィアラが、そこまで来ているのだから。
「ロード……スウィフト、テイルウィンド、エアリアルステップ」
「すでに三属性か。生意気なのは伊達ではないということか。これは気を引き締めなければならんのぅ」
「余裕の顔でなに言ってやがる……!ロード……ウェイトコントロール。ストーン──」
準備は整った。
トナライはそんなクロの様子を感じ取ったのか、大きく息を吸い込んだ。
「──バレット」
「フッッ!」
クロの魔法発動と同時に、トナライは肺の中の空気を撃ち出した。
そのブレスは、激しい風爆で以ってクロの攻撃を軌道から外させる。
「どこに──」
攻撃とほぼ同時に、クロは宙へ一歩を踏み出していた。
直下にはキョロキョロと左右を見回しているトナライがいる。
明確な殺害対象として捉えた彼に向けて、クロは全力の《爆身》を。
二歩目は宙を足場に。
単なる体当たりにも見えるその攻撃は、数多の強化魔法を帯びて隕石へと姿を変えた。
「……!?」
クロの視界が激しく揺れた。
攻撃を回避されて地面に激突したのか?
いや、違う。攻撃を阻害されたのだ。
爆撃でもされたような揺れを感じながら、クロは必死に状況把握に努める。
「強化魔法の質からして、接近戦を仕掛けてくるのは目に見えているからのぅ」
どんな魔法かまではクロも理解できない。
だが、トナライの仕掛けた罠に飛び込んでしまったのは確かだ。
使われたのは恐らく設置型の攻撃魔法だろう。
放出タイプの攻撃と違い、指向性を攻撃力に全振りできる設置型魔法の威力はそこらの攻撃魔法を遥かに凌ぐ。
「や、っば……」
クロは体表面の岩体が崩壊し、勢いさえも殺されてしまっている。
そして空中で失われたバランスは、トナライの次なる攻撃を引きつけるには十分だった。
「そろそろ死んでくれると助かる」
トナライが腕を振るうや否や、烈風がクロを薙いだ。
クロは急ぎ岩体を全身に張り巡らせた。
回避は到底間に合わず攻撃に身体を逸らすも、顔面を覆った岩体が大きく抉れてその下の肉体が露出する。
防陣によってダメージはMPとして消費され、クロの残りMPは四割。
まだか……まだなのか。
クロは焦る。
一分一秒が何十倍にも引き伸ばされて知覚される。
極限状態の戦闘はクロの認識能力を引き上げる効力を発揮しているが、それが体感時間を伸ばす原因にもなっている。
「死が近づいて焦りが顔に滲んでおるぞ?」
焦りがクロの加速された思考を無為なものに変貌させていく。
だが、焦っているという状況はなにも悪いことばかりではない。
クロが何かを待っている。
これをトナライに悟らせないことに貢献しているからだ。
だからこそ、どちらにも転びうるこの状況が恐ろしい。
「黙りやがれ」
クロが地面に降り立ったことで、戦闘が再開された。
「それがいつまで続くかのぅ」
「効かねぇ……ッつってんだろ!」
「ならば何故焦る?」
「だから──ッア゛!?」
今度はクロの背後が爆ぜた。
残りMPは二割。
防御の薄い背中をやられたため、MPへのダメージは大きい。
ここまでクロはトナライの動きを観察しながら小刻みに攻撃を放ってきた。
そこに綻びが生じ始めている。
触れれば発動するトナライの設置魔法──エア デトネイションは、彼が広範囲に拡散させたマナによりその存在を覆い隠す。
だからクロはなるべく大きなアクションを起こさず、最小限の動きだけでトナライの攻撃を捌いてきた。
しかしながら、そのせいでトナライ自身から発せられる魔法の回避を困難なものにさせている。
「背後の攻撃にも対応するか。優秀な手札を備えているらしい……のぅ!」
トナライは腕を下から上に振るった。
クロはその軌道を避けるようにステップを踏む。
見えない攻撃だが、予備動作を見れば回避も可能だ。
そう安易に考えていたクロの腹部が引き裂かれた。
「な……ッに……!」
トナライの魔法は横一線に放たれていた。
腕の動きは単なる罠だった。
クロはそれに引っ掛かってしまったに過ぎない。
だが、その代償は大きかった。
今回は薄く避ける程度の傷ではない。
クロは回避できると踏んでいたからこそ、岩体の裏に防陣を張っていなかった。
岩体が損なわれ、腹部内臓が飛び出さない紙一重で筋層が離断されている。
痛みも腕を落とされた時ほどではない。
しかし体幹の維持に必要な筋を傷つけられてしまったために、着地が上手くいかず尻餅を付いてしまった。
それはクロに致命的な隙を生じさせる結果となった。
▽
クロ救出への途上──。
「アヴェンドロト、領域で附与できる魔法って他に何があるのかしら?」
「何を望む?現下発動中の魔法との関連か?」
「ええ。光属性は防御や保護に関係する魔法が多いじゃない?だから魔法を体内に留め置くような魔法がないかと思ってね」
「無くはない。だが、楽をするな」
「……そうね。都合の良いお願いをして悪かったわ。自分でやらなきゃね」
ソフィアラは手元の魔法に意識を戻した。
現在準備している魔法は、“ダイヤモンドダスト“。球体の中で細かな氷の粒子を暴れさせて、電気を発生させる魔法だ。
腕試しでのゾナ戦以来、ソフィアラは雷を落とす魔法を追求してきた。
ダイヤモンドダストはその縮小版であり、この応用で天候魔法の完成に至れるとソフィアラは確信している。
しかしそれは生半可な努力でどうにかなるものではない。
天候魔法は空間魔法の極地。上級魔法ですら届かない場所にある魔法なのだ。天候を操るともなれば混合魔法や犠牲魔法などが必須の条件となってくるが、ソフィアラはそのどちらともを満たしていない。
ではどうするか。
ソフィアラは必死に考えた。
考えた末に、フランシスの魔法から着想を得た。
現時点でそこへの到達が難しいのなら、発想を変えて別の用途に転用する。
「先日我に浴びせた魔法か」
「その応用ね。あれを強化魔法として身に帯びるの」
前回単発の攻撃魔法として用いたそれは、攻撃の主体である水に電気を帯電させていた。
今回はそれをソフィアラ自身の肉体に帯電させる。
強化魔法として使用することで、自身への悪影響──麻痺してしまうようなことは避けられる。
攻撃魔法として使用した場合は影響が出るというのに、実に不思議な現象だ。
「発想力こそ人間の武器。尊ぶが良い」
「まだまだ未完成だけどね」
「だが、拙劣な力を信じる勿れ。常套こそ成算高い手段ゆえ」
「そうね。でも今ならできそうな気がするの。あなたに影響は出てるかしら?」
「我への影響は皆無」
「それならもう少し出力できそうね」
バチッ──バチバチッ──。
ソフィアラの体内に収まりきらなかったエネルギーが放出され、アヴェンドロトを刺激する。
「あ、ごめんなさい」
「漏出する英気は貴様の許容上限の意。無駄が目に余る」
「そうよね」
「留め置けぬなら、別形態への変換を推奨する」
「言いたいことはわかるけれど。そうできないから、常に発電する必要があるのよね」
「因果を遡行すれば容易なことだ」
「どういう意味かしら?」
「生じた魔法を即座に使用可能な形態で保存する。原理は肝腑が糖原質を蓄積する過程に似る」
「魔法は一度発動したら、固定や放出しかできないんじゃないの?」
「否。因果の順行に比して、遡行に要する労力が割に合わないだけのこと」
「じゃあ、発動した魔法を別の形態で留め置いて、いつでも発動できるようにできると言うことよね?」
「然り」
「でも私の場合は魔法というよりそこに至るエネルギーよね。エネルギーを別の形で保存するとなると……」
ソフィアラもアヴェンドロトの言う原理は理解できた。
今まさに放出されて消えていく電気を別の形で体内に保存しておき、必要な時にそれを取り出す。ここで言う別の形とは、マナだろう。
確かに、生じた結果を元の形に戻すには相当のエネルギーが必要だ。
それならそのまま放出したほうが無駄もない。
それに魔法を一つ保存していたところで、それほど優位に立てるとも思えない。
クロのディレイマジックのように複数待機させられるわけでもなければ、状況に適した魔法を常に準備できるともえ思えないからだ。
「だけど電気に変換可能なマナなら、それそのものが攻撃手段にも使用できるわね。魔法の前段階のエネルギーであれば、用途は色々ということかしら」
「理解が及んだのなら何より」
「少し集中するわ。何かあったら教えてね」
ソフィアラはそう言うと、目を閉じて自分の周囲のマナにのみ意識を向かわせた。
バチッ──……。
徐々にではあるが、ソフィアラから漏出するエネルギーが鳴りを潜め始めた。
要領が良い女だ、とアヴェンドロトは思う。
今まさにソフィアラの体内ではマナの激動が生じているはずだ。
一度その手法を体得しさえすればあとは容易だが、そこへ至る過程は過酷なものだ。
しかしソフィアラはその壁を強引にぶち壊す。
ただでさえ危険な環境にあることと、時間に限りがあること。それらはソフィアラに焦りを生じさせるわけではなく、むしろ集中力を高める作用を示させる。
作り出されたエネルギーは全て、外界に放出されずにソフィアラの体内へ。
「暫し揺れる」
ソフィアラから返事のないことを肯定と捉え、アヴェンドロトは地面を蹴って建物の上へ。
ここからは住宅地だ。
ソフィアラは気づいていないが、ここまでの景色は見事に現実の帝都を再現している。その距離も大きさも寸分違わぬものであり、アヴェンドロトはこの事実に内心驚きを禁じ得ない。
これほど精密で広範囲な結界など、そう多くはない。その代表が帝都や王都を覆う大結界だ。それらは一度成立して仕舞えば無類の効力を発揮するが、完成には相当な準備が必要だ。
この結界も恐らく、遥か以前から入念な仕込みが行われていたに違いない。だからこそこれは突発的な事象ではなく、次なる事象への序章に過ぎないと言うことだろう。
それが分かったところでアヴェンドロトにはどうでも良いことだ。人類の守護者でも何でもない彼には、それを態々誰かに伝えてやる道理はない。それがソフィアラであっても。
ソフィアラを危機から救うことと、危険から遠ざけることは同義ではない。
加えてアヴェンドロトは、最大目標を視界に捉えた。
件の男とソフィアラの命。彼女から、優先すべきは前者だと言われている。
「目標を捕捉した。準備は?」
建物に阻まれていた視界がクリアになると、複雑に絡み合ったマナの波動が見て取れる。
それは激しく魔法がぶつかり合った末の結果だ。
そこには命を削り合う死闘が広がっているはずだ。
「大丈夫。完璧よ」
「それは重畳」
「現場に着いたら不可視は解除してもらっていいわ。その代わり、マナを視覚化する魔法をお願いするわ」
「心得た」
「あなたは黒髪の男の子を最優先に、次点で私を保護してね。その他はあなたの判断に任せるわ。敵は私が相手するから」
「貴様の危機は──」
「自分のことは自分で何とかするわ。危なくなったら逃げ出すから、その時はよろしくね」
「好きにしろ」
自分勝手な物言いだが、それによってアヴェンドロトの命が危機に瀕することもない。
だから特段それを気にもせず、何度も地を蹴ってより高い場所へ。
奇しくもそこは、ソフィアラたちが結界を探す際に集合した住宅地。
結界へ進入すると、ランダムな地点に飛ばされるようになっている。
この辺りで最も高い建物に登ったのは単に目の前に聳え立っていたからというわけではなく、標的を確実に捕捉するため。
そして──。
「あれね。戦っている黒髪の方が目的の彼。相手は知らないわ。あとは……あ、居たわ。建物の影から覗いてる女の子は味方だから手出し無用でお願い」
「承知した。その女が不穏な動きを取った場合は?」
「彼の保護優先でお願い。あんまりそんなこと起こってほしく無いけれど、敵対した場合は殺さない程度に動きを止めてもらえると助かるわ」
あくまでも最優先課題はクロを助け出すこと。
詳しくは確認できないが、どうやらクロも劣勢に見える。
急がなければ。
「彼奴等の眼前へ躍り出る」
「いつでも」
アヴェンドロトは足の裏を縁に触れさせたまま、建物の最上部から身体を投げ出した。
その過程で両脚は屈曲し、しゃがみ込むような体勢へ。
「征くぞ」
アヴェンドロトは狙いを定め、側壁を足場にして、弾丸のようにその身を射出させた。
▽
遠くで小さな爆発が起きたような気がした。
だが、この結界内では大して珍しいことではない。
小競り合いから広範囲を巻き込んだものまで、日夜至る所で戦闘が繰り広げられているからだ。
それも恐らくは自分たちには関係のないものだろう。
大きな隙を晒したクロは焦る思考の中で、そんなことを脳の片隅に考えていた。
轟──。
突如、クロとトナライのちょうど真ん中あたりで爆発が起こった。
否、爆発とは言い難い。
巨大な投擲物が着弾したような、大質量による大地の蹂躙だった。
何が起こったのか。
砕け散る破片を浴びながらもクロが認識した事象──爆発の中心には、何もなかった。
だから単に、何かが起こったとしか認識できなかった。
しかし次の瞬間には、クロはぐいと引っ張られてトナライから離れた場所にいた。
クロはそんな状況にありながらも、左腕の魔導具に視線を落とした。
何かを意図したわけでは無い。ふと、そうしていたのだ。
一瞬にも満たない視線の動きだったが、そこには目の前を指すように青く灯る存在証明が。
気づけば、いつの間にかソフィアラの姿が浮かび上がっていた。
クロが久々に見た彼女の姿は、トナライの顔面を右脚で蹴り貫いているところだった。
「なん──」
トナライは顔面を醜く歪ませながら耐えた。
どうやらソフィアラの蹴りにトナライを吹き飛ばすほどの威力は無かったようだ。
それに対しトナライは反撃に転じるべく腕を振るったが、それよりも早く電撃が走り抜ける。
バ……チッ──。
「──のォ!?」
生涯受けたことのない電撃を浴びて、トナライの身体が熱と痛みとともに硬直した。
追撃するには格好のチャンス。
だがソフィアラは追撃に移らず、トナライの顔面に二撃目を入れつつその場から飛び退いた。
その瞬間、トナライを巻き込むように風が爆ぜた。
「クロ、大丈夫?」
「え、ええ……なんとか」
ソフィアラはクロの側に着地していた。
クロを背後に置きつつ、トナライの動きとマナの流れを目で追う。
当然トナライは先程の風爆に飲み込まれてしまったわけだが、それは彼の意図したもの。
軽く吹き飛ばされた位置で、トナライは身体をもたげながら不満を吐く。
「惜しいのぅ。そこの小僧をあと少しで殺せたんだが……。どうした、攻めて来んのか?」
「それなら遠慮なくいかせてもらうわ」
電撃痕を残してソフィアラの姿が消えた。
かと思えば、トナライに肉薄している。
「お嬢様、そいつは──」
「貴様は疾く傷を癒せ」
クロがソフィアラを案じて声をあげると、アヴェンドロトが手を翳してそれを制した。
同時に治癒魔法がクロの身に施され、全身の傷がゆっくりとその活動性を減じていく。
「あんたは……?」
「我はアヴェンドロト。貴様はハジメ=クロカワに相違無いな?」
「そ、そうだけど……。い、いや、そんなことよりお嬢様を止めないと!あいつは危ない男なんだよ!」
「あれは身の程を知る女。心配あるまい」
「だけど……!」
「窮地には我が参ずる。まずは貴様の治療だ」
「あ、ああ、傷が……。ひとまず感謝する。あんたは一体何者なんだ!?」
ソフィアラが気になって仕方がないクロの視線の先では、トナライと対等に渡り合う彼女の姿がある。
いつの間にそこまで動けるようになったのか。
クロは再開できた感動よりも驚きの方が優ってしまっている。
「我は矮小なる存在に過ぎぬ。素性など瑣末なこと」
「そうか、話したくないならいいんだが……。あんたはどうしてお嬢様と?」
「貴様の救出を依頼されたまで」
「じゃあ、もう俺のことはいい。だからお嬢様を助けてやってくれ!」
「承服できぬ。貴様の保護が最優先だ」
「一体何を言って──、……え?」
アヴェンドロトは徐に背後を見た。
クロもつられてそちらに視線を向けた。
クロが驚いたのは、二匹の白い獣が刃で差し貫かれていたから。
獣と言うよりは、人形のようにも見える。
刃は地面から突き出すように生えている。
「これ、は」
クロが驚いている間にも、それらは光の粒となって消えていく。
クロが状況を飲み込めないままその様子を眺めていると、ふとジュリエットの存在に意識が向いた。
「え……ジュリエット?」
唐突に訪れた不安にクロの鼓動が速くなる。
ジュリエットは本来居るべき場所に居ないのだ。
左右を見渡しても彼女の姿が見えない。
どこかに隠れているのだろうか?
しかし彼女には、見える範囲に居るように指示してあった。
トナライは約束通りジュリエットには手を出さなかったし、クロとやり合っている最中も小細工は弄していなかった。
戦闘の途中もクロはトナライから目を離していない。
だとすれば、別の何者かが関与している可能性がある。
「貴様の身内か?」
「あれは──」
クロはアヴェンドロトの視線が上を向いていることに気が付いた。
「──誰だ……?」
白い髪の少女がジュリエットの襟元を掴んでこちらを見下ろしている。
クロはその少女を知らない。
ここに来てから一度も見たことのない少女だ。
こんな環境で存在していることが珍しい類の見た目だし、そもそも頭上に浮かんだ35という数字は異常だ。
「貴様は休んでいろ」
「え、えっと!白い方は知らないっていうか……」
「理解は終えている」
「それって……」
「ひどいの。ペリの人形を壊すなんて悪い人なの」
攻撃を仕掛けたのはペリで、それに対応したのがアヴェンドロト。
クロはそれを理解した。
アヴェンドロトはソフィアラからジュリエットのことも聞いているのだろう。
「ペリ、よくやった。そのまま隠れてくれて構わん」
背後から声が聞こえた時は、ちょうどトナライがソフィアラを壁に叩きつけた瞬間だった。
ソフィアラは衝撃で肺の空気が全て吐き出され、疑似的な窒息状態に陥っている。
加えて衝撃によるダメージがある。
地面に転がってよたよたと立ち上がろうとする姿は、いかに防御面で優れたソフィアラといえど相当なダメージと見える。
「お嬢様……!?」
「そろそろエネルギー切れする頃かと思っていたんだが、見立てに間違いはなかったのぅ」
「はぁ……はぁ……」
「しかしどういった能力だ?おいの設置魔法を全て見抜くことといい、その俊敏さといい、なんとも多彩だのぅ」
トナライはゆっくりとソフィアラに近づく。まるで引導でも渡そうとしているかのように。
ソフィアラが勢いよくサイドに身体を投げ出した。
直後、彼女が先程まで存在していた場所の地面が大きく切り裂かれた。
「これも見えるのか。相当目が良いらしいのぅ」
「おい、あんた!俺のことはいいからお嬢様を助けてやってくれ!」
「貴様の安全は未だ補償されておらず」
「ペリは乱暴な人は嫌いなの。だからここで死ねばいいと思うの」
ペリがそう言うや否や、彼女の周囲から白い動物人形たちが湧き出すように現れた。
それらはよたよたと歩いたり空を飛んだり様々だが、いかんせん数が多い。百には満たないまでも、五十は優に超えているだろう。
「俺はお嬢様のサポートに回る。あんたはこの群れを何とかしてくれないか?」
「貴様の優先順位を述べよ」
アヴェンドロトにそう問われ、クロは逡巡を見せた。
今の発言で概ね理解はできるだろうが、言葉にするとなると少し勇気が必要だ。
「……ソフィアラお嬢様が一番、あそこで抱えられている少女が二番だ」
ジュリエットに悪いという気持ちがあったとしても、やはりクロの中ではそうなのだ。
もちろん個人的にもクロの周囲のメンバー的にも、クロの命が一番だという意見が絶対的だろう。
しかし今回はあえてそれを言葉にはせずに、答えを二つに絞った。
そうすればアヴェンドロトはジュリエットにのみ対応できるし、クロもクロでソフィアラのもとに馳せ参じることができる。
クロの残りMPが少ないことと体力的にも限界が近いことは置いておいて、クロにはそれが最適解だという確信があった。
トナライは単発の攻撃には優れているが、多人数で攻めれば倒し切れる可能性が高い。
一方ペリの方はどうしても手数が必要で、一見貧弱そうに見える光の人形も、どのような能力を持っているかが不明だ。
それらから総合的に考えた上でのクロの発言だったが、それがアヴェンドロトの行動を規定した。
「然らば眠れ」
「──え……?」
トン、と。
アヴェンドロトはクロの首筋に手刀を振り下ろした。
同時にペリに対面している方面に高く聳える光の壁が立ち上がる。
それらはあまりの一瞬に行われた。
アヴェンドロトはそのまま倒れるように意識を失うクロを抱えると、ソフィアラへ向けて一直線に駆け出した。
「ほえ?」
「なん……だと?」
驚くペリとトナライをよそに、すでにアヴェンドロトは目的を定めている。
クロがジュリエットなどという少女を優先しなかった時点で、アヴェンドロトの中で彼女の存在意義は消失したのだ。
それが今回の彼の行動を生んだというわけだ。
アヴェンドロトは虚を突いてソフィアラのもとまで辿り着くと、そのまま彼女も抱えてしまった。
「わっ!?」
「ロード、ミラージュダイブ」
アヴェンドロトは目の前の鏡に飛び込んだ。
鏡はなぜか一瞬で空中に無数に出現している。
口頭による魔法の詠唱と、異なる方式による反射鏡の生成。
それらが同時に行われることで、アヴェンドロトは鏡面を使った反射移動を可能にする。
オリビアとの腕試しでマリアが使用していた方法に似ている。
ソフィアラがそう脳内で考えた時には、見える景色が一変していた。
「移動したの……?」
「然り。此方の居場所特定は困難であろう」
ここでソフィアラに疑問が湧く。
「どうしてジュリエットを見捨てたのかしら?」
「この男が貴様を優先した結果だ。協約において最善の判断を下したまでのこと」
「最善って?」
「最優先目標を窮地から救い、次点の貴様も安全圏へ避難させた。奴らと対峙する益は無い」
「でもジュリエットがまだ残っているのよ?」
「次なる指針は結界からの脱出。貴様との協約に則した行動に過ぎぬ」
「ジュリエットを助けるという選択肢はないってことよね?」
「いかにも。協約は協約。貴様の手足に成り下がった覚えは無い」
「あ……。それは、そうね……」
アヴェンドロトはソフィアラの提示した条件の中で最善の行動を取ってくれたのだ。
例えば先ほどの状況でジュリエットの救出を行動目標に含めていた場合、戦闘の激化からクロやソフィアラの負傷は免れなかっただろう。
その上でジュリエットまでもが命を失うという危険性があったのだ。
それをほぼ無傷で二人救出したアヴェンドロトの手際は見事というほかなく、それを責められる謂れはアヴェンドロトには無いということだ。
しかしどうやって脱出するのか?
「あなたの働きは見事だったと言っておくわ、ありがとう。でもここから脱出するとなれば、先にここに来ていたクロたちの意見も大事だと思うの。だからここが安全だというのなら、一旦クロが目覚めるのを待ちましょう?さっきの場所に脱出方法を見つける鍵があったかもしれないわけだし」
「……良いだろう」
「助かるわ」
クロが目覚めるまではそう時間はかからないだろう。
ソフィアラは意識のないクロの顔を眺めながら、ひとまずクロの生存を喜ぶ。
彼の腕が失われているが、確かランゼがソーマなる秘薬を生成できると言っていたはずだ。後々何とかなるだろう。
最優先はクロ及びソフィアラの命であり、それで言えばジュリエットの命の順序はアヴェンドロトには劣る。
これに関してクロには色々言われそうだが。
ソフィアラはクロが目覚めた後のことを憂いつつ、脱出手段を模索するのだった。