第136話 到達
男の名はセザル=バルマ=メーナード。
彼は平民を甘言で誘惑し、彼らを殺害することで結界内を生きながらえていた。その内容は、一致団結して苦行を乗り越えようというもの。
結界という異常空間に放り出されて判断力を鈍らせた平民は彼によって容易に騙され、その多くが遺体として結界外に吐き出された。
セザルは最初こそ生きるためという意識で殺人を犯していた。それがいつしか、殺しを愉しむようになっていた。そこには貴族社会で馬鹿にされ続ける生活からの反動があったのかもしれない。
男爵位は正式な貴族ではなく準貴族としての扱いを受けている。
今まではセザルなど領地を持たない最下級貴族に従う者は皆無だったし、上級貴族に媚び諂うことでなんとか男爵位を維持してきたくらいだ。
それがどうだ。セザルは結界に入り込んだことで他者を虐げる手段を得た。
馬鹿な平民はコロッと騙すことができるし、殺すことさえ容易だ。
そんなことが何度も続き、簡単に物事ができるという事実はセザル本人に優越感を与えた。
彼はエサを釣るための手下を常に補充して抱えていた。
手下を得る方法はまず、数人で行動している人間を襲うところから始まる。
そしてそのうち一人を殺さずに置いておき、殺されたくなければ……というやつだ。
結界内には生き残る条件を理解できた者も複数存在している。
しかしそれ以上に何も知らない人間が多く、そんな人間は次々に供給されている。だからこそ用済みの手下は早々に殺し、また新たに補充することさえ容易だ。
謂わば永久機関にも近い手法を編み出したことでセザルの優越感は増長し、絶対的強者になったという思い違いを生じさせるに至る。
今度セザルの目に飛び込んできたのは、衣服が傷だらけでいかにも苦労を感じさせる学生二人。彼らは頭上に数字を持たず、それは結界内で最下級の立ち位置だということを示している。セザルにとって最も歓迎すべきお客さまだ。
「次のお客さんだねぇ!ほらほら、いつもみたいにやっちゃいなよ!」
「……」
肥え太ったセザルの隣には、三十代半ばの女性──サンドラ=ブラントが怯えるように佇んでいる。
「返事もできない犬は屠殺しちゃおっか」
「あ……や、やります……!だから殺さないでッ!」
「じゃあ早くやっちゃお!あと十人ばかりやったら逃してあげるからさ!」
サンドラは少年少女の前に飛び出した。
「ちょ、ちょっと待ってくれない!?」
「……あんたは?」
「……ッ!」
クロからは予想外の冷静な反応。当然だ。クロはサンドラの位置をあらかじめ把握している。そしてもう一人も。
「何か用か?」
「え、ええ……。あなたたち、酷い目にあったように見えるけど……そ、それはどうしたのかし、かしら?」
サンドラは緊張からか過度に発汗し、上手く口も回らない。
疑念を感じさせる前にサンドラは続ける。
「わ、私は、あなたたちのような困ってる人を集めてるの!一緒に協力しない!?」
「いや、結構だ」
「でも、二人じゃ心細いでしょ?」
「俺たちは群れることを好まないんだ。だから他を当たってくれ」
「そちらの彼女は特に辛そうじゃない!?あなたも彼女さんをずっと苦しい目に合わせておきたくないでしょう?私たちはそんな人たちを集めてるから、来てくれたら安心させてあげられると思うわ」
「いや、俺たちはここがどんな場所でも二人で生きていく。助けが必要になったらこちらから声をかけるよ」
「その様子じゃ無理よ!無理に決まってるわ!」
「無理かどうかは俺たちが決める。誰かを救いたいとか思ってるなら、まずはその悲壮感たっぷりの顔をなんとかした方がいい。じゃあな」
「私はそんなッ……!」
全てを見透かしたような少年の視線に、サンドラは何も言えなかった。
少女の方は一度だけ弱々しい視線をサンドラへ送ると、少年に連れられてヨロヨロと去っていく。
その背中を眺めているだけか?否、追うべきだ。追わなければ殺されるのはサンドラだ。
しかしいつまでもセザルに従い続けるのも無理のある話だ。
あまつさえ、殺人の片棒を担ぐなど。
「捕まえないと殺されてしまう……。でも、殺さないと私が死んでしまう……!」
セザルは高みから彼らのやりとりを見ていた。サンドラが服の下に隠していた包丁を取り出すところまで。
包丁はサンドラがセザルを殺害するために忍ばせていたものだ。セザルが継続的に殺しをすることで睡眠さえも必要のないほどに健康状態を維持していたために、それを使う機会は訪れなかったが。
「あの女はダメだねぇ!殺されないことより死なないことを優先しちゃった!」
セザルはサンドラに結界内での殺しの意味を伝えてはいない。しかし、気づかれてはいた。
サンドラが足音を殺して少年少女に近づいている。そのまま殺しを完遂する腹積りだろう。
「さてさて、悪い犬には仕置きが必要だねぇ!」
サンドラがナイフを振り下ろした。
少年は気がついていない。
かと思いきや、包丁が触れる直前で撥ね上げられた。
同時に、近くの壁面に叩きつけられるサンドラ。
あまりの速度にセザルは少年が何をしたのかを理解できなかった。本当に少年が何かをしたのかさえわからなかったのだ。
次の瞬間、少年はセザルの頭より高い位置にいた。
どうやった?いつ魔法を発動した?それ以前に、どうやってこちらを捕捉した?
数々の疑問が脳内を駆け抜け、それらに対する解答が得られる前に。
──セザルの足元が、爆ぜた。
「ジュリエット、やるんだ!やらなきゃ殺されるのは俺たちの方だぞ!?」
ひどく憔悴した表情で叫ぶのはクロ。唾液が飛沫することも構わず、自分の言葉の正しさをジュリエットに叩きつけている。
そんな彼の目の下の隈は濃く、長期的な睡眠不足を思わせる。それでもクロは肉体的にはいたって健康だった。
「だ、駄目だよ……。私には……」
ジュリエットは震える手で対象に狙いを定めたが、弱音を吐いて泣き崩れてしまった。それに合わせて彼女の魔法は形を失い、バシャリと弾けて地面を濡らす。
クロとは対照的に、現在の彼女は病的に窶れている。元の可愛らしい姿は見る影も無い。
もう一つ彼らの異なる点と言えば、頭上に数字があるかどうかだろう。クロの頭上には1が点灯している。
「……ご、が……ァ……」
苦しみに悶える声ならぬ声。
ジュリエットの魔法の標的は、傷だらけで地面に転がっているセザルだった。
彼はもはや自発的に発声できない状態に追いやられている。喉を掻っ切られ、両の手足は潰されているのだ。やったのは勿論、クロ。
抵抗できない状態なのは、ジュリエットに殺人を犯させるための下拵えに他ならない。
逃げ出すこともできず、魔法の発動すらままならないセザルは死の恐怖に怯えながら身を悶えている。その双眸は血と涙で溢れ、生を求めて遠くへ、なるべく遠くへ。
しかし──。
「ロード、ストーンバレット」
「ッ……ァ……ッ」
無慈悲な一撃を追加されたセザルは痛みで視界が明滅する。
もはやセザルはクロから人間だとは認識されていない。
初めにクロとジュリエットを殺そうと仕掛けてきたのはセザルだ。
襲い来る魔の手に対して容赦はしない、というのがクロの行動指針。
結界内において自分達を害する者は人間ではない。そう思い込むことによってクロは正当防衛としての殺人を許容した。
「こいつを逃せば、どこかで誰かが死ぬ。これは俺たちのためじゃない。誰かを犠牲にしないためにも必要な行為なんだ!」
「私にはできないよぉッ……!」
「いつまでも泣き言言うな!やらなきゃジュリエットが死ぬんだぞ!?」
「誰かを殺すくらいなら死んだ方がマシだよッッ……!」
「綺麗事言うな!こいつらは生きるためじゃなく、愉しんで殺しをやってるんだ。こんなやつは死んで当然なんだ!」
「それはどうだけど……」
「ジュリエットは魔法を発動させるだけでいい。あいつを溺れさせたら、あとは目を閉じていろ。そうすれば全て綺麗に終わる」
「でもッ……あ……クロ君、それって……」
ジュリエットが震える手で指差すのはクロの頭上。
「多分さっきのあれだな……」
「私のせいで……?」
「あの人には申し訳ないけど、ジュリエットを狙った以上手加減をするつもりはなかった。ここはこういう世界だ。決して君のせいじゃない」
「でも……」
「本当に無理ならそれでいい。だけどそのままだとジュリエットは死んでしまう。俺は君に死んで欲しくない。だからこうやってずっと言い続けてるんだ。ほら、あいつの数字を見ろ。30を超えてるやつなんて、到底まともじゃない」
「あれが生きるために仕方なくやってたとしたら……?」
「さっきあいつが喋ったろ?初めは生きるためだったかもしれない。でも今は違う。あれは殺人の快楽に取り憑かれた魔物だ。決して人間なんかじゃない」
「これが続いたらさ……私たちもああなるんだよ?」
「いや、ああはならない。俺は殺そうとしてくる相手から身を守るためでしか攻撃はしない。たとえ数字を重ねても、手段と目的を履き違えたりはしない」
「クロ君はそうでも、こんな状況が続いたら、私は狂ってあんな風になっちゃうかもしれないんだよ?」
「その場合は俺が止める。俺が頬を叩いて目を覚まさせてやる。それでも駄目なら、俺が殺してやるから安心しろ」
「どう安心しろって言うの?」
「君は俺のものだ。俺が生かして、俺が殺す。俺以外には絶対に殺させない」
「クロ君の、もの?」
「ああ」
「私の意志で殺さなくていいの?」
「そうだ」
「クロ君の言う通りにすればいいんだね?」
「少なくともここでは、そうしてくれると助かる。だけど君を物とか道具扱いしたいわけじゃない。それだけは分かってくれ」
「……」
「駄目か?」
「私はもう、クロ君無しじゃ生きられないよ?」
「ああ、それでいい。ずっと一緒だ」
「それなら──」
一時的に肉体の健康を取り戻したクロとジュリエット。
クロがジュリエットの不安定な発言に対して冷静に返せたのは、先に健康になっていたからだ。
しかし殺しの感触を実感したあたりで、二人は吐いた。吐くものさえ胃の中には無いのに、出せるだけの胃酸を撒き散らした。
それは肉体の健康と精神面の不健康からくるギャップによるもの。
殺しを行ったという事実によって精神は苛まれ、心身は耗弱していった。
精神と肉体は不分離だということを身をもって実感させられた形だ。
八日目──。
クロとジュリエットが結界に取り込まれたのが先週の土曜日。
そして今日が一週間経過した土曜日だ。
しかしながら、ここでは現実の時間経過など解ろうはずもない。
その日も、二人はなるべく人との接触を避けて行動していた。
殺しを意図する人間たちは二人の思惑を無視して襲いかかってくる。
それは期せずして二人の健康を維持することにも繋がるわけだが、精神的疲労はいつまでも溜まり続ける。
「ジュリエット、大丈夫か?」
「身体の方は、ね……」
二人の目の下の隈がひどい。
睡眠を取れていないわけでもないが、精神的影響が身体症状としているのは間違いない。
現在の二人の健康状態を正確に示すのはまさにこれだろう。
ゆっくり休んでいることも到底不可能な環境下で、日毎に刺客は顔ぶれを一新している。
結界にはエサが絶えず供給され、それを狩る人間さえもエサになりうる。
それは絶妙なバランスで需要を満たし、結界の住人に安定を許さない。
しかし、その中でも安定を得られる存在はいる。
「まずい、来たぞ!」
「に、逃げなきゃ……。逃げなきゃまずいよ!?」
それは現状結界内で確認されている最強の一角。
ここでランキング制度があるのなら、彼がキルカウント一位であろう。
彼はそもそも男かどうかが不明だ。その全身は黒い靄に覆われ、容姿の判別が困難なのだ。
クロはそれを、黒い悪魔と呼称している。
「掴ま──くっそ、容赦ねぇッ!」
クロがジュリエットを抱えた瞬間、黒い悪魔から魔弾が降り注いだ。
二人はこれまで何度も襲われており、彼に捕捉された場合は何がなんでも斜線を切って逃げ続けなければならない。
魔弾は着弾地点を黒く染める。
染められた場所から、黒い腕が伸びる。
クロは身を屈めてそれを回避し、地面を蹴って建物の上へ。
「ジュリエット、来てるか!?」
「あ、上がってきてるよ!」
「奴の腕は何本だ?」
「今のところ二本だけ!」
「四本になる前に撒くぞ!」
黒い悪魔に攻撃を仕掛けてはいけない。
下手に戦おうとすれば、彼から追加の腕が二本生えて攻撃形態に移行し、手痛いしっぺ返しを喰らうことになる。
以前交戦した時は、逃げ回る過程でジュリエットの片脚を失った。
恐らくあれは魔人の類だろう。そうでなければ異形の説明がつかない。
「振り落とされるなよ!ロード、ロック──」
「は、はい!」
「──ウォール!」
クロはすぐ下の路地へ着地する。
その後も二方向の分岐が来るたびに壁を形成し、二分の一の選択を強いる。
左右に、ときには上下に、黒い悪魔がクロたちを見失うまでそれは続けられた。
逃げている間にも複数の人間を探知できた。
しかし、それが誰なのかなどを確認している余裕はなかった。
運良く……否、運悪く巻き込まれてくれなどとクロは祈ったほどだ。
最優先は自分の命。
それ以外に構ってやれるような強さはない。
黒い悪魔──その災害にも等しい魔の手から逃げ延びることが先決だったのだ。
「何人か前に見た人がいたね。良かった」
「ああ、ここにきてすぐの時に居たな。生きてたんだな。巻き込まれてないといいが……」
名前は確か、オーステス、エトヴィン、オーガスタだったか。
あの時にいた全員じゃない。
ジュリエットの言葉を聞いても、クロは素直に喜べない。
さっきまで黒い悪魔の標的になってほしいと願っていたのだから。
彼らは複数人で固まっていた。
彼らのように陣を築いて結界内の戦いを攻略しようとする派閥は少なからず存在する。
セザルなどがその典型例で、自分優位の環境を作り上げることで物事を円滑に推移させることができる。
しかしながら最も効率が良いのは、移動しながらの狩りであろう。
黒い悪魔──クロがそう呼称しているだけ──のような行動の読めない強者を前にしたとき、陣は容易に崩壊する。
それでも陣を維持できる強者は一握り。
「この辺りは人が多いか……。おいそれと安心できる場所じゃないな」
「どうして?」
「今や誰しもが敵だ。さっきの三人だって、数字を持ってただろ?」
「それは、確かに……」
「ここのルールを知る人間が増えてきてる。現状唯一信じられそうなのは、ここにきたばかりの新人だけだ。それ以外は全員敵だと考えた方がいい」
「それだと、人の少ない場所ってあんまりないね」
「だがこっちはある程度周囲を調べられる。あまり人目につかないように移動を続けるしかないな」
黒い悪魔から逃げのびたクロとジュリエットには、周囲に気を配る精神的余裕はなかった。
まずは安心して休める場所の確保が先決だった。
その男は何気なくそこにいた。
誰かを待っているような自然体での佇まい。
結界内においては自殺行為にも等しい立ち振る舞いだが、何かがおかしい。
一人で居るということでクロは警戒を下げていたが、男の頭上には明らかな異常性が現れている。
「ぎッ──」
「……えっ?」
風が通り過ぎた。
クロの脳がその異常性を認識する前に、痛みが思考を全て塗り替えている。
ジュリエットの視界には、クロの腕と鮮血がゆっくりと舞い散る様が。
「──ぁああああ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
顔面を赤く汚すジュリエットの視線の先では、タクトを振るが如く腕を跳ね上げている男がいた。
▽
ソフィアラとアヴェンドロトは結界に侵入した。
「成程、広闊な結界だ」
「うッ……!」
アヴェンドロトが何やら周囲を見渡していると、ソフィアラが頭を押さえて膝から崩れた。
ソフィアラは脳を締め付けられるような苦痛に苛まれている。
「貴様には刺激が強かろう。領域から切断するか?」
「い、いえ……大丈夫よ。それにしても濃密なマナ、ね……」
結界内では多くに人間によって多種多様な魔法が行使されている。
それは即ち、マナを可視化できる現在のソフィアラにとっては情報に溢れていることと同義。
それらが視覚を通して脳内に流れ込めば、揺さぶられるのも当然だろう。
「臨機に静養するがよい」
「いえ、慣れてきたわ……」
「然らば、件の男の捜索に転ずる。所在の目星は?」
「居場所は分からないわ。だけど、ここに居るのなら反応があるはずよ」
「不通であればどうする?」
「たとえそうだったとしても、しっかり探すわよ。でもその場合、あなたには私を守ってもらわないと困るのだけれど?」
「……好きにせよ」
アヴェンドロトは呆れるようにそう言った。
ソフィアラはその様子を好意的に受け取ると、左手首の魔導具にマナを込めた。
これは以前ジュリアーナが仲間の証として五人に提供してくれた腕輪型の魔導具。
まさかこれがこのような形で役に立つとはソフィアラ自身思いもよらなかった。
帝都内を隈なく調べるにあたって適宜使用してきたが、クロからの応答はなかった。
今回は──。
「反応無し、ね……」
ソフィアラが軽く肩を落とした。
アヴェンドロトにとっても骨折りということになる。
「どう動く?」
「この魔導具にも精度の限界があるの。だから、範囲内にクロがいないだけって可能性が残ってるわ」
「左様か」
「それに……さっきあなた、ここが広いとか言ってなかったかしら?」
「いかにも。見ろ」
ソフィアラはアヴェンドロトの視線を追って空を眺めた。
結界内の空は暗く、常に陰鬱とした雰囲気だ。
そして何やら壁のようなものが確認できるが、その端までは見えない。
「あれが結界の壁ということかしら。そう考えると、かなり広い空間ね」
「空間把握が必須か。魔導具の使用頻度限界は?」
「特にないわ。マナを多少消費する程度よ。ただ、ここに来る時みたいにあまりに移動が早いと見落としがあるかもしれないわね。適度に止まってもらえると助かるわ」
「心得た」
アヴェンドロトは肩にソフィアラを抱えて移動を開始した。
ソフィアラを気遣ってくれているのか、移動によって振り落とされるような心配はない。
それにしても、チラホラと人間の存在を確認できる。
「さっきからかなり視線を浴びているわ。みんな何をしているのかしら?」
ソフィアラが不快感まじりにそう言った。
浴びせられる視線はどれも好意的なものではない。
しかしそれも当然のことだろう。
普通に考えて、不気味な長身の男が美少女を抱えて走っている姿など恐怖でしかない。
加えて、二人の頭上には数字がない。
それら複数の要因が視線を集めるという結果を生んでいる。
「然らば、姿を隠すか」
ソフィアラの発言を受け、人気のない場所でアヴェンドロトは足を止めた。
「どこかに隠れるのかしら?」
「否。魔法を変ずるだけのこと」
「わ……!?」
途端、ソフィアラの視界が切り替わった。
というより、普段の彼女の視界に戻っただけだ。
「あれ……?領域って魔法のことだったの?」
「領域とは其其の結界。魔法を附与し、展開が可能」
「結界魔法とは……趣が異なるような言い回しね」
「貴様が仔細に知る必要はない」
「どうして?」
「知れば、欲する。貴様は此方に来るべきではない。領域など、存在するべきではない」
「そう……。あなたがそう言うなら、無理に知ろうとしないわ」
「賢明な判断だ」
「お利口さんでしょ?」
「……ゆめ、その怜悧さを損う勿れ」
ソフィアラもアヴェンドロトとのコミュニケーションを図れるようになってきた。
外見には現れないものの、彼の当惑が見てとれる。
「ええ、心しておくわ」
ソフィアラはアヴェンドロトのアクションを待つ。
彼の言葉によれば、今は切り替えの最中とのこと。
領域の原理を教えてもらうことは叶わなかったが、知るなと言うのなら知らない方が良いはずだ。
あのアヴェンドロトがソフィアラを気遣っているのだ。
これもソフィアラを守るという協約に含まれているのだろうか。
「今しがた領域に不可視を附与した」
「今度は不可視なのね。随分便利だと思うのだけれど、デメリットもあるのよね?……ああ、教えてくれなくていいわ。準備ができたのなら行きましょう」
「移動する。捜索を続けよ」
不可視の魔法を得たことで顕著に行動が円滑化した。
一方、マナの視覚化が失われたことで目に見える情報量は激減しているが、目視されないことの恩恵は大きい。
「あれは何を争っているの?」
戦闘がそこかしこで散見できる。
絶叫が木霊し血肉が舞い散る様は、お遊びでもなんでもなく正真正銘の殺し合いだ。
その中でも気になるのは、頭上の数字。
「あの数字も何かしらね」
「大方、脱出条件に関わる要因だろう」
「ここに居ると頭が狂うのかしら。気分が悪いわ」
ソフィアラは、殺し合いを見たところで怯えない程度には胆力を得ている。
学園では怪我をすることが日常茶飯事であり、そのあたりに対する免疫ができてしまっているからだ。
加えて、帝国までの道中で命を狙われた過去もある。
不安にならない一番の要因は、自らがその渦中にいないということが大きい。
アヴェンドロトが側に付いているというのも影響しているだろう。
だからといって、ソフィアラが安心できるということにはならない。
裏を返せば、自分一人では何もできないということと同義なのだから。
今まではクロがいて、リバーがいて、友人がいた。
今回結界に侵入するにあたり誰の手も借りなかったのは、決して友人たちが力不足ということではない。
彼らの力があれば困難も困難ではなくなるという自信がある。
しかし失踪事件という未確認な事態において最も懸念すべきことは、全員が共倒れしてしまうということだ。
犠牲はなるべく少ない方が良い。
六人グループにおいて、ソフィアラは自らを最も下の地位に置いている。
戦闘能力では間違いなく最下位だし、咄嗟の判断に優れているとも言い難いというのがソフィアラの自己評価である。
その点クロはなんだかんだと最適な行動を取ることができる傾向があり、能力も高い。
他のメンバーもクロと同様だ。
ここまでソフィアラが生きながらえているのは、ひとえに運の要素が大きい。
だからこそ、死んでしまうのは運の尽きた時だ。
だとすれば、結界内で殺されていく人間は運が無かったと割り切れば良いのだろうか。
「畢竟、極限下の人間は無為なことはすまい。あれは意味のある殺しだ」
「殺しの意味、ね……。あんなのは単なる自己満足よ」
「自己満足か。的確な表現だ」
「正直、気持ちよく殺人を犯せる人が羨ましいわよ。何も考えなくていいんだから」
「殺しを知るか、奇なる女よ」
「何かと理由付けをすれば……いいえ、理由付けをしなければ、あんなもの抱えていられないわね。あなたはどうなの?」
アヴェンドロトが黙った。
即座に答えが出ないというのは珍しい。
正直ソフィアラにとって、アヴェンドロトは誉められた人間ではない。
もちろん、彼女自身もそこに含まれている。
人間に明確な正解と不正解があるのなら、間違いなく彼は後者の部類だ。
しかし殺しはいけないという綺麗事を並べても、結局は他人事。
その矛先が身内や自身に向いていないから無関係な物事だと切り離せるだけだ。
「我は自己満足を押し通す。満足できる生のために、全ての不都合は黙殺する」
満足して死ぬためなら何をしても構わないというのがアヴェンドロトの持論らしい。
結局それができないから人間なわけで、それができるのが人外だ。
人間とそれ以外を分ける線引きは、そこの意識の差だろう。
「事象の複雑化は原始的手法への回帰を促す。混沌たる世界もまた、原始的な暴力が跋扈するに至る」
安定を欠き始めているアルスという世界。
いずれ秩序が失われ、力こそが正義の時代が到来するだろう。
そしてその混沌を生き抜いた勝者が世界を作り直すのだ。
今は、長い歴史の中で何度も繰り返された流れをなぞっているに過ぎない。
「これからの時代的には暴力に準ずるのが正しいということ?」
「浮動する物事に明確な解は無い。正しさとは、己の信ずるものを言う」
「思うままに生きろってことかしら?昔の人は色々な法に縛られずに生きたと言うけれど」
「秩序の下で穏やかに腐敗できた過去の人間は果報者だ。同時に不幸でもある。無秩序下でこそ己の欲望が具現する。現代は秩序と無秩序の転換期。人間が欲望の成就を願う存在であるのなら、真の人間は無秩序にこそ顔を出す」
無秩序下で剥き出しの人間性をぶつけ合う日はそう遠くない。
アヴェンドロトはそう言っているのだ。
「この結界内がその縮図って感じかしら。ロクでもない──待って」
「どうかしたか」
アヴェンドロトが足を止め、周辺を見渡す。
しかしそうではない。
足を止めさせたのはなにも、クロを目視できたからではない。
「見つけた……」
「何?」
ソフィアラは左腕に違和感を覚えていた。
違和感の先は、これまでなんの変哲もなかった腕輪だ。
移動中の動作で気付くのがやや遅れたが、反応するはずがないと思われていた魔導具が振動している。
そしてその一部が黒く光っているのだ。
ソフィアラは結界内に来てから魔導具の反応が無いあたりで、半ば諦め気味だった。
クロを探すこともそうだが、見つからなければ自分の命を最優先に行動するつもりだった。
その過程でクロがここにいたかどうかを調べ、次なる可能性を追求するつもりだったのだ。
ここに来て、予想を超えて目的は達せらてしまった。
一発目で当たりを引いたのだ。
ここまでの活動が無駄ではなかったという感慨以上に、クロの無事を喜ぶ感情が大きく湧き上がる。
しかしそれも、たった一瞬のことだった。
表情を固めたソフィアラの頬を冷や汗が伝っている。
「見つけたのだけれど……急がないとマズイかもしれないわ」
「方角は?」
「腕輪の光る先。急いでちょうだい」
アヴェンドロトは言われるがままに足を走らせる。
肩の上の少女からは、ハッキリとした焦りが伝わってきた。
喜びも束の間、事態は急を要するらしい。
マナを込める度、接続されている自分以外の全ての魔導具が振動するという機構が組み込まれている。
その仕組みを利用して、ソフィアラたちはいくつかの合図を作っていた。
振動回数一回は警戒、二回だと緊急招集、そして三回が離脱の意味を持つ。
それ以外は特に決めていない。
だからこそ魔導具が無秩序かつ延々と振動し続けるのは、異常以外のなにものでもなかった。