第133話 薄暮
「そこのお前、止まれ!」
フランシスの声が届いて、逃げる男が一瞬だけ彼の方に振り向いた。
奇妙な白塗りの面に赤い鼻。
加えてぷっくりと丸いシルエットは道化師のそれだ。
白と赤のコントラストが男のいる空間を一気に不気味なものに塗り替えている。
男は視線を進行方向に戻すと、近くにあったゴミ箱を宙に放り投げた。
フランシスは目の前に現れた異物に驚き、壁を蹴る方向を上に向けた。
男はその隙を見て路地の交差を九十度方向転換し、フランシスの視界から消える。
「いよいよ怪しいな。
そういう事なら……システムマジック、ロード──」
戦いに備えて、万全の準備を。
フランシスは男を捕らえるべき明確な敵と判断し、力強く壁を蹴った。
目まぐるしく動く視界の中、数名の人間に目撃されながらも追走劇が続けられる。
「これではまた通報の対象だな。
こちらで処理できる内に処理しなくては」
相変わらず物を投げるといった抵抗は続いている。
魔法を使わないのか?
いや、周囲を気にして使えないのか。
「僕の魔法も無闇に放つべきではない、か。
しかしこれで……」
両側を住宅の壁に挟まれた長い路地に入ったあたりでフランシスは勝利を確信した。
結局男たちは大した距離を稼げなかったようだ。
数条の通りを経たあたりでフランシスは男の頭上を抜けて男たちの前に躍り出た。
ザッ、と砂埃が舞い上がる。
「鬱陶しい人ですねぇ」
追い詰められたにも関わらず、男の口調は軽い。
夕陽は男の背後から差しており、逆光で表情をはっきりとは窺い知れない。
が、その立ち姿からは余裕が溢れているようにも見える。
「それだけ怪しい姿と動きをしていれば、追いかけられても文句は言えないだろう?」
「なかなか愛嬌があって良いと思うのですが、どうやらあなたのお気に召さないご様子」
「お前と会話に興じるためにここにやってきたわけではない。
お前が抱えているそれは何だ?
そしてお前は何者で、何を目的に活動している?」
「一度に聞きすぎでは?
あなた、その喋りではお友達が少ないでしょう?」
「はぐらかすな。
いいから、さっさと僕の質問に答えろ!」
「それに答える義理が私にありますか?」
「あるかないかで言えば、無いな」
フランシスはファルシオンを鞘から抜き出した。
刃の擦れる音を伴って、男に圧を掛ける。
「おやおや、物騒ですね。
話し合いに来たのでは?」
「話すつもりがないなら武力で押し通すまでだ。
──エンチャント:ワールウィンド。
これでお前は話さざるを得なくなった」
ファルシオンは脈動するように緑の光を帯びている。
フランシスが一振りすれば、鎌鼬が男を切り刻むだろう。
「風属性の武装強化魔法ですか。
あまり派手に魔法を使えば死にますよ?」
「お前が僕に勝てるとでも言うのか?」
「はぁ……文字通りの意味ですよ。
あまり長居もしたくないですし、殺されたくもありませんので話しましょうか」
「良い心掛けだ」
「話せば見逃す。
この条件であれば、あなたの希望通りにしましょう」
「何を言い出すかと思えば。
お前が犯罪者ではないという確証がない以上、それを約束はできない。
内容如何によっては僕は武力行使を躊躇わないぞ」
「その正義感は未熟な人間のそれですね。
あなたこそ分かっているのですか?
私を殺してしまったら情報を得られないことに。
そして魔法の使用はあなた自身の首を絞めることに繋がります。
これは比喩でも何でもなく、紛れもない事実」
「言っている意味が分からんな。
煙に巻いて時間稼ぎか?」
「時間がないと言っているでしょうに。
……それで、どうしますか?
条件通りにできないのなら交渉は決裂です。
その場合は地獄にご招待いたしますよ?」
フランシスは男の言っていることが全くもって理解できない。
いつから交渉になった?
地獄とは一体どういうことだ?
この男は、何を知っている?
少なくとも、この男を見逃すと情報は得られない。
その情報の真偽はともかくとして、だ。
「良いだろう、お前の条件を受け入れよう」
その上で情報を絞り出す。
「そういうことでしたら、一つずつお話ししましょう。
まず私が抱えているこれは部下の肉体です。
と言っても、まだ死んでいる訳ではありません。
しかしこのままでは失血死は免れないでしょう」
「それが、時間がないと言っていた理由か。
では次だが、お前は何者だ?」
「私が何者か、ですか。
さて何者なんでしょうかねぇ」
「お前、いい加減にしろよ」
「あなたは自分が何者かを理解しているのですか?
果たして、自らのことを理解できている人間など……おや?」
男はフランシスの鋭い眼光を見て、おどけたような仕草を見せてくる。
「はいはい、分かっていますよ。
私はファッティ=リバー。
帝国内への闇物資の搬入などを主な生業としております」
「やはり犯罪者か……!
そんなお前が、いやお前の部下がどうして怪我を負っているんだ?」
「それを説明する前に、これを安全な場所へ移しても?」
これとは、リバーが抱えている項垂れた人間。
「なぜそれを僕が許すと思うんだ?」
「であればここに警察が辿り着いた時、彼はあなたにやられたと証言しましょう」
「……許可しよう」
「ではあなた、彼を安全なところへ」
黒衣の男は傷ついた男を抱えてリバーの後方へ消えていく。
「話を続けろ」
「なぜ怪我を負ったか、でしたか?
襲われたんですよ。
巻き込まれた、というのが正しい表現方法ですかねぇ」
「誰に、そして何にだ?」
「あなたもご存知の有名な事件にですよ」
「有名?どちらだ?」
「どちら、とは?」
フランシスは白い悪魔事件と失踪事件を意図して聞いてのだが、リバーはピンときていない様子だ。
またはフランシスの知らない複数の事件が巻き起こっているということだろうか。
ただ単純にとぼけているだけなのかもしれない。
「ところであなたは刑事か何かなのですか?」
今のフランシスは学生服ではないため、彼の正体は到底窺い知れないはずだ。
これは正体を探りにきている可能性もある。
「僕のことは何でもいいだろう」
だから、そう返答しておいた。
「そうですか、ではもう聞きませんよ。
あなたの知りたいことは知れたでしょう。
私はここには居たくないので、この辺りで失礼しますよ」
「待て、まだ話は終わっていない!」
「いいえ終わりです。
そして、我々も。
あなたの後ろ、ほら来てし──」
リバーはフランシスの背後を指差している。
「はぁ?そんな単純なひっかけに……」
馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、フランシスは後方へ振り向く。
「──ぁガッ!?」
その過程で横目に映るリバーの身体から、突如血飛沫が上がった。
まるで風船に穴が空いたように、リバーから激しく吹き出す赤色。
ゆっくりと膝から崩れ落ちる姿。
しかし驚き以上に、フランシスはぞくりとした寒気も感じていた。
呼吸することを忘れるような異常なプレッシャー。
だから、どうしても振り向く動きを止められなかった。
まずフランシスの目に映り込んで来たのは、細長いシルエット。
次に、暗い空間に際立つ青白さ。
遥か高い位置からフランシスを見下ろす視線は、同種の人間に向けられるものではない。
「子なる男よ、我が問いに答えよ」
地の底から響くような声。
心臓すら握りつぶされそうなその声に、フランシスの背後で倒れるリバーにすら視線を移せない。
問いを無視すれば殺される。
そんな確信がフランシスにはあった。
だから彼が何者かは一目で理解できた。
「な……何に答えろ、と言うんだ?」
この瞬間、フランシスは必死に白い悪魔についての対応方法を思い出していた。
まず、質問を無視すれば殺されるという話。
これは思い出す前にフランシスが身をもって実感していた。
「強さとは、斯くも美しきものか?」
次に、質問に対しては肯定的な意見を提示するべきという話。
「それは、当然だ……。
誰もが強さを望んでいる」
ひとまずここまでテンプレ通りに答えれば殺されないということが確定した情報として知られているのだ。
「そうか……」
得心したような白い悪魔の様子を見て、フランシスはほっと胸を撫で下ろす。
ここまで来れば安心だ。
あとはこいつが去るのを待つのみ。
しかし。
事態はフランシスの想定を上回る。
「誰も彼も似た反応で退屈以外の何物でもない。
……強さを望む貴様に続けて問う。
強さを得るためなら、貴様は親友をも殺し得るか?」
「それは、どう……いう……?」
予期せぬ問いに、フランシスは狼狽える。
これは彼の知る情報にはない。
「答えを持たぬか……。
然らば貴様はここで──」
白い悪魔がゆらりと揺らぐ。
「ま、待て、待ってくれ!
答える、答えるからッ!」
その雰囲気が変わったことにフランシスは生命の終焉を感じ、必死に言葉で訴えかけた。
「──何故?」
「ぼ、僕には親友と呼べる人間がいない!
だから少し、考えさせてくれ……!」
「……猶予を与える」
「お、恩に切る……」
フランシスは考えに没頭する中、視界の端にリバーの姿を捉えた。
倒れ伏す彼は、今もなお血の池を広げている。
自分もああなるのだろうか。
フランシスは気になって視線を白い悪魔に動かした。
「答えは出たか?」
そんなフランシスに、白い悪魔は軽く眉を上げた。
「いや、その前に聞きたいことがあるんだが……名は……」
質問内容以前に、名前も知らないことに気がつく。
「アヴェンドロト」
フランシスは彼が名乗ったことに驚いた。
まさか名乗るとは思ってもみなかったからだ。
少なくとも、ただの殺人鬼ではなさそうな印象をフランシスは覚えた。
しかしこれも、ヤクザが猫を飼っていたら印象が良くなる程度の感覚だが。
「アヴェンドロト、僕の名はフランシス=フリア=スペデイレ。
……あなたは僕を殺すのか?」
「返答如何」
フランシスはグッと唾を飲み込む。
息が止まる思いがした。
なぜ殺すのか。
そこまで質問する意味はない。
聞いたところで、何も変わらないからだ。
「……そ、そうか。
だがその前に、仲間に遺言を伝えさせてくれないか?」
「死を覚悟するか……良いだろう」
遺言と聞いて、アヴェンドロトはそれを快諾した。
「感謝する……」
フランシスは震える手で鞄から連絡用の魔導具を取り出した。
そして大きく息を吸い込み、魔道具に呼びかけた。
「ソフィアラ、僕は白い悪魔と対峙している。
身勝手な行動で命を危機に晒してしまったようだ。
恐らく僕は……ここで死ぬ」
言葉にしたことで死という事態が現実味を帯び始めた。
思考が窮迫し、呼吸が短くなる。
「……ッ……僕を友と呼んでくれたお前には、本当に、心から感謝している。
クロカワに会ったらよろしく伝えてくれ……」
魔道具から反応は無い。
ということは、ソフィアラは何かしらの行動をしているはずだ。
こちらに向かってくれているならフランシスにとってはありがたいが、このまま会うことは難しいだろう。
アヴェンドロトに対し、時間を引き伸ばすことで命を長らえられる可能性は低い。
ソフィアラがこちらを目指していた場合、長引かせることで彼女を危機に晒してしまうことにも繋がりかねない。
それは容認できない。
出来ることなら、自分の命一つで終わらせる。
フランシスは魔道具鞄に戻し、アヴェンドロトを見据える。
気分は絞首台に立たされた人間のそれだ。
「答えは出た」
「聞こう」
フゥ、とフランシスは息を吐く。
「親友を殺せることを、強さとは呼ばない」
思ったことを言ってやった。
アヴェンドロトの期待する答えなどは知らない。
「そうか……それは残念だ」
フランシスは彼の目が一層黒くなるのを見た。
同時に右腕も振り上げられる。
彼の満足する返答を用意できなかったことは、間違いない。
「……ハ、ッ……!」
フランシスは息を呑んだ。
アヴェンドロトはフランシスが死を覚悟したと判断したが、そんなことはない。
それは十五や十六歳そこらの学生が持てる覚悟からはあまりにも程遠い。
無造作に振り下ろされる凶刃。
殺すことに特化したそれは、袈裟斬りの軌道を描いている。
「ぁ……」
それを見て、フランシスはようやく死を確信した。
ピ……シャッ──
鮮血が宙を舞った。
▽
「ソフィアラ、僕は白い悪魔と──」
リバーの指先がピクリと揺れた。
聞き慣れた名前が耳に届いたからだ。
「このまま死んだふりでやり過ごすことも考えましたが、あの方の関係者となれば……」
リバーは倒れ伏した状態のままブツブツと呟いている。
スペデイレと言えば、学園へ入学した生徒の一人にスペデイレ家の人間がいたはずだ。
関係性までは窺い知れないが、フランシスがリバーを追うということは足並みが揃っていない。
少なくとも深い間柄ではなさそうだ。
その間もアヴェンドロトとフランシスのやり取りは続いている。
「この状況を利用しようとも思いましたが、仕方がない。
アドバンスドマジック、ロード……やはり」
リバーは地面に接している部分の肉体を影の中に沈めている。
加えて、アヴェンドロトは周囲のマナの変動をそれほど気にはしない。
強者ゆえの特性だろうか。
これはリバーが彼と接触した時点で分かったことだ。
しかしそれが分かったところで勝ち目がないので逃走した訳だが。
そして先程、アヴェンドロトはリバーを視界に入れるや否や攻撃を入れてきた。
あの時点でリバーを殺し切ったと判断していると期待したい。
アヴェンドロトは一度殺すと決めた人間には容赦をせず、自身の力に絶対の自信を持っている。
そこに付け入る隙がある。
「そのはずだったんですがねぇ……」
行動指針を定めたあたりで、フランシスの命を諦めたらしき発言が聞こえた。
どうやら彼はアヴェンドロトの問いに正解できなかったらしい。
死ぬくらいなら醜くも足掻いたほうがマシ。
そんなことをドクターが言っていたなと考えつつ、
「ブラッドサーカス」
魔法の準備が整った。
アヴェンドロトが右腕を振り下ろした。
彼の意識が完全にフランシスに向いたタイミング。
リバーは臥床姿勢から超速で飛び出し、アヴェンドロトの攻撃軌道に合わせて鉈を跳ね上げた。
「これは柄じゃないですねぇ!」
「邪魔を」
リバーは邪魔だと言わんばかりにフランシスを押し退けている。
「な……!?」
フランシスが驚いたのはリバーが動き出したことではなく、その身の細さ。
誰だ、というのが一番濃い印象だった。
まず鉈が何かに触れ、金属音ではない衝撃音が響く。
続く断絶音でリバーの身体が引き裂かれた。
かと思えば、その身がパシャリと赤い液体に変化した。
ベクトルはそのままに飛散した血液はアヴェンドロトへ。
分裂したそれぞれは、大小不動の獣へと姿を変えてアヴェンドロトに襲い掛かった。
虎や狼の姿のものは鋭い牙で噛みつき、鳥や小型動物の姿のものは嘴や爪で。
しかしそれらが触れる直前にアヴェンドロトの姿が消失した。
「やはり、予備動作の無い魔法発動……!
そこのサラブレッド、見てる暇があったら背後を切りつけなさい!」
空を切った獣たちは再び形を崩し、宙で合流してリバーの肉体を形作った。
そうなるや否や、リバーはフランシスへ檄にも近い指示を飛ばした。
「あ、ああ……!」
フランシスは理解と同時に背後も見ずに剣を振るった。
その太刀筋から放たれた一閃が通路の両壁を削り、鎌鼬を爆裂させる。
「判断が遅いですねぇ。
もう敵はあなたの上ですよ」
「何故我を捉えて……成程」
声はフランシスの頭上。
アヴェンドロトは微細な血液が付着していることに納得して姿を現した。
「くそッ!」
言われるがままに繰り出された攻撃は容易く読まれる。
壁を蹴り剣閃とすれ違うように一気に落下したアヴェンドロトの背後で、鎌鼬が再び爆ぜた。
狙いはフランシス。
それが理解できているリバーは、すでに複数の血の鳥を飛ばしていた。
アヴェンドロトが気がついたのは、それらが顔のすぐ側まで近づいた時。
彼を取り囲んでいた鳥たちだったが、今度は襲い掛かることなくバシャリと形状を崩した。
「目下、差し置く」
実体を捉えきれないものを相手する必要性はない。
アヴェンドロトは先にフランシスを仕留めるつもりだ。
振り抜かれる腕。
その直前に血液がアヴェンドロトを覆い尽くした。
ド……クン──。
アヴェンドロトは全身が痙攣したような感覚を覚えた。
斬撃が逸れる。
「あ゛ぁ……ッ!」
しかしその一部はフランシスの肩から胸を抉ってしまっている。
必殺の一撃が致命的な一撃に変わっただけのことだ。
動きを止めたまま地面に落下したアヴェンドロト。
リバーによる拘束は内側から無理矢理に破られそうになっている。
すぐに血液がアヴェンドロトの体表面から弾けるように飛んだ。
フランシスの側に出現したリバーは、彼を抱えてアヴェンドロトから距離を取る。
「これは単純な力量差が大きすぎますねぇ。
拘束一回に対して重症者が一人。
これではまるで割に合いません」
リバーは状況を言葉で再確認しながら、フランシスに対してポーションを雑に投げつけた。
苦悶の表情が一瞬だけ緩む。
だからといって、予断を許さない状況なのは明らかだ。
「どういう、つもり、だ……?
そしてその、姿は……ごぼっ……」
身長はそのままに横幅が縮んでしまったリバーに、フランシスは違和感を禁じ得ない。
「お話をしている時間はありませんよ。
あなたはそこで転がっていてください」
吐血しながらも喋る余裕があるだけに、リバーはフランシスの重篤度を少しだけ下げた。
「殺し損ないは幾久しい。
貴様らに出し惜しみは不躾。
デュアルマジック、ロード」
アヴェンドロトの足元には、白黒二つの魔法陣が重なるように展開されている。
彼の両手には白と黒の魔法球が。
そしてそれらを目の前で合成し始めた。
相反する属性が、アヴェンドロトの膂力によって強引に捩じ込まれていく。
「今までは本気ですらなかったということですか。
これは非常にまずいですねぇ……」
リバーは濃密なマナが空間を圧倒的に支配していく様子を全身で感じながら頬に冷や汗を伝わせる。
元々アヴェンドロトと再び戦闘に入り込む予定はなかった。
フランシスが介入し、逃走が困難となったあたりでリバーは方針を変えた。
アヴェンドロトが新しい獲物に食いつくタイミングを狙うという作戦だ。
実際その作戦自体は機能していた。
誤算があったのは、フランシスがソフィアラの関係者だということ。
そして彼が思った以上に脆弱だったこと。
最も予想外だったのは、リバーがアヴェンドロトにまともにダメージを与えられなかったことだ。
これはフランシスを保護していなくても結果は同じだっただろう。
現在も睨み合いの状態が続いており、アヴェンドロトの魔法発動までが思考時間の限界。
逃げ出すことは得策ではない。
そもそも逃げ出せるかどうかが怪しい。
リバーの使った魔法ブラッドサーカスは大量の血液を使用して、一時的に流動体に変化するもの。
その上で、闇属性魔法ということで血液自体にデバフ効果を付与できる。
血液の貯蓄は、普段からブクブクに太っているように見せかけて存在させていた。
血液を使う利点は、それそのものが触媒として有用であるという点。
武器にも触媒にもなり、また相手を騙すということにおいてもリバーは血液を非常に上手く活用できている。
あたりに散らばった血痕も全てまだ武器として使える。
が、それが有効打になりうるかと言えば話は別だ。
着実に目減りしていく思考時間。
アヴェンドロトは流動体にも対応できる魔法を準備しているはずだ。
現に、混ぜ合わさらないはずの二つの属性が斥力を超えて不安定な塊を作り上げている。
リバーの流動体は物理攻撃に対してはほぼ無敵の性能を発揮できるが、ここからはその限りではない。
アヴェンドロトの魔法がそう告げている。
凶悪な効果を撒き散らそうと構えているのは、彼が両手で覆うことでようやく形状を維持している状態の反物質。
「然らば寂滅せよ。
アンチマ──」
「ハイドロエレクトラ」
声は、新たなる襲撃者のもの。
アヴェンドロトに向けて放たれた魔法を、彼は直感で察知した。
攻撃準備はそのままに、身体を傾けながら背後を見遣る。
それは回避するだけなら問題ない程度の攻撃。
未熟な襲撃者がどんなものかとアヴェンドロトが確認しようとした矢先。
勢い良く通過するそれは、内包したエネルギーを彼に向けて放出。
アヴェンドロトの視界に飛び込んできたシルエットは、少女と言って差し支えない。
しかし彼がそれをはっきりと認識するより早く、電撃が彼を貫いた。
「ッ……!」
全身が痙攣し、折角ここまで彼が温めてきた魔法が解けた。
向かうべき先を見失った混合魔法は、粒子となって霧散している。
「……」
アヴェンドロトは手元を見つめる。
未だに指先は軽く痺れを残している。
電撃を身体に通すなど、彼にとっても初めての経験だ。
だからこそ、未知の魔法を使う敵には喜びを禁じ得ない。
リバーもフランシスも成り行きを見守っている。
暫くした後アヴェンドロトがゆっくりと視線を動かすと、闖入者は彼の狩るべき獲物と認識されていた。
「……子なる女よ、何用だ」
「私の友達に、それ以上手を出さないでもらえるかしら?」
間一髪リバーとフランシスの命を存えたのは、蒼い髪の少女──ソフィアラだった。
▽
「ソフィアラ……関わるんじゃ、ない、逃げろ……」
動き出そうとしたフランシスは、リバーにより制止を受ける。
ひどい傷だ。
白い悪魔に遭遇してまだ命があるのは流石に幸運と言ったところだ。
「駄目よ、私はこの男に用があるの。
それと、あなたの隣の人に見覚えがあるのだけれど……。
どこかで出会ったことがあったかしら?」
ソフィアラの視線は、フランシスの隣のリバーの元へ。
と言っても、今のリバーはソフィアラの知る身体の大きさではない。
「おやおや、私のことをお忘れですか?
それはそれは悲しいと言わざるを得ませんねぇ。
リバー=ファッティという名をお忘れということはないでしょう?」
「えっと、そう、久しぶりね……。
随分痩せているから分からなかったわ、ごめんなさい」
ソフィアラはリバーの変わりように若干引いている。
過酷な労働環境でも想像したのだろうか。
「そういうわけでもないのですが、ひとまずそういう理解で置いておきましょう。
まずはその男から離れることをお勧めしますが?」
一触即発の空気が弛緩している今こそ、逃げ出せる好機だろう。
未だ彼女は、リバーの保護すべき対象だ。
「私は用があると言ったでしょう?
大丈夫よ、問題ないわ」
「だと、良いのですが……」
リバーは納得しきれないような苦笑いを浮かべている。
「我を下したい類の子か。
貴様の身内が我に葬られでもしたか?」
「全て違うわ。
あなたを倒したいとも思わないし、身内を殺されて復讐に来たわけでもないの。
でもそうね……身内といえば、フランシス君がやられたのがそれにあたるかしら」
フランシスが彼女の視界の端でフッと苦々しく笑っている。
「然らば何を欲する?」
彼女の話を聞いても、何が目的かはアヴェンドロトには分からない。
彼に会いたい人間など、力自慢か復讐者くらいのものなのだから。
「単刀直入に言うのだけれど、私に力を貸してくれないかしら?」
「何を、言っているんだ……!
こいつは殺人鬼だぞ……!」
吐血しながらも異論を唱えるフランシス。
常識的に考えて、ソフィアラの発言はまともではない。
たとえクロを助けるためとはいえ、アヴェンドロトは助力を期待すべき人間ではない。
そもそも人間なのかどうかも怪しいのだから。
「我に益もなく、理解不能だな」
アヴェンドロトもソフィアラの発言には理解を示せない様子だ。
しかし彼はソフィアラの言葉に妙な真剣さを感じるのも事実。
「利益ならあるわ。
許可するから、まずは私を見なさい。
話はそれからよ」
「……良いだろう。
ロード、ディテクト ステータス」
一瞬の沈黙。
アヴェンドロトの目が特定の項目で停止した。
“主神の加護”
「……!」
そして彼の眉がピクリと動いた。
「分かったかしら?」
「子なる女よ、貴様は……」
「それを見てもらった上で先程の話の続きをしたいのだけれど、よろしいかしら?」
「……話せ」
リバーとフランシスはソフィアラの行動が意外すぎて付いていけず、終始ポカンとしている。
しかし邪魔はしないように、そして彼女に何かあれば動けるように構えてはいる。
彼らはどちらもソフィアラを守るという一点においては考えが一致しているからだ。
ある種それが杞憂に終わりそうな印象を抱えながら、話に耳を傾ける。
「ありがとう、助かるわ。
現在、私の友人であるハジメ=クロカワが行方不明なの。
彼は数日前に姿を消したきりなのだけれど、私は彼が最近巷で有名な失踪事件に巻き込まれたと踏んでいるわ。
そこでまずはあなたに……」
「アヴェンドロト」
「そう、アヴェンドロトさん。
あなたが何か知っているか聞きたいのだけれど」
「知らぬと言えば偽り。
然れども我が貴様に与する益はない」
「そうね、そちらから話すべきだったかしら。
あなたは強者との戦いを期待しているというのを聞き及んでいるのだけれど、それは事実なのかしら?」
「然り。
我を滅し得る存在を欲している」
「あなたを殺せる人を……?」
「いかにも」
「そう、答えてくれてありがとう。
それなら好都合ね。
彼はあなたの希望を叶えてくれるわ」
「……何?」
「私は加護を受けているだけなのだけれど、彼は神の力を受け継いで、すでに神性を得ているわ。
でもそんな彼が今、命の危機に陥っている。
彼を失うことは、あなたにとっても損失のはずよ。
だからあなたにも彼を救う手助けをして欲しいの」
「其奴を救えば、我の願いは叶えられると?」
アヴェンドロトはすでにソフィアラの話に食いついている。
フランシスは完全に理解の外だ。
「いいえ、すぐには無理よ。
だって私たちはまず、世界を救わなければならないもの」
「世界だと?」
「ええ。
それに、私たちはまだまだ未熟。
今の時点であなたを倒せるほどの力量を持ち合わせていないわ。
だから、あなたの願いを叶えてあげられるのはもっと先の話。
これは彼が失踪事件でいなくなっているという前提のもとのお願いになるのだけれど、理解はしてくれたかしら?」
都合の良いお願いなのは、ソフィアラは百も承知だ。
それでも彼には──失踪事件のことさえ知ると語る彼には相当な利用価値がある。
それ以上に単純な力量だけでも、味方に加えるべき逸材だ。
彼が殺人鬼だという事実を加味しても、だ。
アヴェンドロトの思考時間のため、沈黙が流れる。
「その話、全て事実か?」
しばらく考えて出た言葉が、それだった。
ソフィアラが嘘八百を並べているとも思えないが、事実としてはあまりにも内容が突飛だ。
全て作り話と言われた方が信じられそうなものだろう。
「神に誓って、全て嘘偽りないわ」
しかし嘘と言われても、ソフィアラの話は全て事実。
「男が継いだ神の名は?」
「智神ティール。
彼は主神アラマズドから、神へ至れと指令を受けている」