2.ソフィア
ラウラを嫌ったわけではないのだと、ミアは思った。確かに、近頃のラウラの様子はおかしかった。やたらと体をすり寄せ、唇を寄せ、ミアの体を撫で、勝手に上気してゆく。機械ではなく、人間でなければできない行いをするのは、密かな学校に通う生徒が心得るべき決まりだった。でもラウラのその行為が、それに該当するとはミアには思えなかった。特に、互いの唇を合わせるなんて、背筋が寒く感じる。だからなるべくそんな行為とは距離を置きたかった。でも、ラウラを嫌ったわけではない。むしろ、ラウラのことは好きだった。学校が終わると、いつも部屋に来てくれた。ミアはいつでも待っていた。
ここ何日か、ラウラとあまり口をきいていない。学校が終わっても部屋にも来なくなった。ラウラは別の子と親しくなった。最近来たソフィアという子。背が高く、いつでも鮮やかな、青いワンピースを着ている。流れるようなブロンドの長い髪。顔立ちも美しく、微笑がとても似合う。力も強そうで、見えている手足の皮膚も固そうだった。あのワンピースの下は、細くて引き締まった筋肉の塊かもしれないと思った。それだけでも自分とは違いすぎるし、気の強いラウラが選んだ以上、自分は何も勝ち目がないのだとミアは思った。
食事の時は、ソフィアと一緒になることもある。それは以前から、ミアとラウラが一緒に食事をしていたから、そこにソフィアが加わるという形だった。しかし、ラウラの関心が自分よりソフィアの方にあると感じることが多くなった。ラウラの自分に対する態度が、近頃はそっけない。ソフィアは話し方も穏やかで、やや低い声も落ち着いていた。大声で笑ったりしない。この子は大人なのだとミアは思った。ソフィアは違う学校から来たというが、その学校は機械に侵入されたという。
「学校は閉鎖した。先生の何人かは、自ら命を絶ったわ」
二人はそれを聞いて驚く。
「どこにあった学校なの?」
ラウラが訊く。
「ここからずっと東の方。海沿いよ」
「知らなかった……そんなところに学校があるなんて」
「当然よ。決められた人以外、学校同士の連絡は取ってはいけないし、その存在も知らせてはいけない。機械に侵入された時、それ以上他の学校が発覚しないために、知っている者は、自害しなければならない」
「学校はここだけだと思ってたよね?」
ラウラがミアに同意を求めた。
「うん。外に行っても誰とも会わないし」
今のところ、外に行けるのは夜だけだ。ほとんど無人の街。
ソフィアのいた学校も、やはり工場を装っていたらしい。機械に侵入されたといっても、具体的に何が起きたのか、ソフィアも知らないと言う。夜中に一人一人に対し待ち合わせ場所の指示が出され、夜明け前に荷物をまとめて住んでいた場所から移動した。ソフィアも指示通りある場所で待っていて、そこにダニエラ先生が来たという。
「やっぱり一つだけじゃないんだ……学校は何ヶ所もあって、それがいつか一斉に立ち上がり、この世界を人間のものに取り戻す……」
ラウラが夢を見ているように言う。ラウラは学校で教えられた通り、機械に支配されたこの世界は変えるべきものだと信じていた。でも、ミアにはそれがどうしてなのか、今一つ分からない。これは入学してからずっと同じ疑問だ。口には出せないけれども。昼間の世界では、人は何不自由なく暮らしている。
そういう意味でも、ソフィアはラウラに近いのだと思った。自分の役割をちゃんと分かっている。ソフィアからミアに話しかけられることはなかったが、一度だけ、食事中、ラウラが飲み物をおかわりしに行った時に、なぜか小声で話しかけてきた。
「ねえ、あの子どういう子か知っている? ラウラもよく知らないみたいだけど」
ソフィアが控えめに指さす方、見慣れない、というわけではないが、他の子とは違う少女がいる。工場の作業着ではなく、エプロンを付けたスカート姿だった。食事の時はいつもいて、一人で食べている。
「私もよく知らないけど……名前はジュディって言ったと思う。何かのお手伝いかな」
「何のお手伝い?」
「さあ……話しかけても答えてくれないし。口がきけないんだと思う」
学校でもずいぶん前に、少し話題にはなった。工場勤めではない子がいると。でも、それ以上の情報は得られない。話した人もいない。工場勤めではないが、学校に来ているというわけでもない。
「気になるの?」
「ん、全然違う場所の人みたいだし」
それ以上ソフィアは何も言わなかった。ラウラが戻ってきて、その話も終わってしまった。また、ミアだけが乗れない話題に戻っていく。
ソフィアのことは気にしないようにした。自分がいくらラウラを好きでも、選ぶのはラウラだし、それに前にみたいに、体や唇を寄せてくるような関係なら、今の方がましかもしれない。それでも、ソフィアに何かほころびがないかと、いつの間にか観察している。
工場のラインの人員配置では、ミアはラウラと離れていたし、ソフィアとも離れている。ソフィアはやや離れていて、横目で見ることはできたが、別に自分の仕事以外変わったことはしていなかった。表情も特に変わらない。作業中は個性のない人間みたいに見える。もっともほとんどの人はそうだった。工場にいる間は、機械のしもべに過ぎない。
ラウラは工場での仕事が好きではなかった。それは顔にも出ている。顔だけなら監視機械にも注意されないだろう。ミアは仕事が嫌いではなかった。手さえ決められた通りに動かしていれば、いろいろなことを考えることができたから。考えることは自由だった。時々工場の窓の外を、監視機械が通るのが見える。車輪が付いていて、家一軒ほどもある機械の塊が、低い音を立てて通り過ぎてゆく。何か異常な行動をする者がいれば、機械が従える機械に連れ去られてしまう。どこに行くかは分からないが、二度とは戻れない。この工場から、そんな人間が出たことはなかった。嫌々仕事をしているラウラも、監視機械のことは分かっていて、極力普通の工員のように振る舞っている。学校が発覚しないために、生徒も最大限の用心をしていた。
ミアはソフィアを時々見ながら仕事をしていたが、ある瞬間、ソフィアと目が合った。確かにソフィアはミアの方を見ていた。そして目を合わせると微笑を返した。それは完全に計算された何かだと思った。
その日、学校も終わって、外はすっかり暗く沈んだ。ミアは今日も一人だった。ラウラはもう来てくれないのだろうか。体を寄せてもミアが離してしまうから。でも、それは違う。嫌ってるんじゃないと、ここのところ毎日同じことを考えている。分かってくれないのかも。ミアはため息をついた。そして、待っているだけではだめなのだと思った。こっちからも行って、ラウラが求めてくるものとは違う必要性を伝えなければと思った。ミアはそっと部屋を出た。そしてラウラの部屋の前に来た。ドアをそっとノックする。中から返事はない。もう一度ノック。反応はない。思い切ってドアを開けてみる。中は真っ暗で、明らかに誰もいなかった。シャワーでも浴びに行っているのだろうか。いや、そんな時間ではない。ミアの手が震えている。ラウラはソフィアと一緒なのだと思った。どこに行ったのだろう。寄宿舎の中では、誰かしらにすぐ見つかる。だから密かに過ごすには外しかない。夜の、無人の街。壁の向こうで機械だけがうごめく街。
ミアは玄関に行き、外に出た。道路に。今日は月の明かりで、比較的に明るい夜だ。目が慣れると、割と遠くまで見える。左右を見た。どっちの道も直線状に長く続いていて、道の果てまで誰もいない。外なんかではないのだろうか。それでもミアは左を選んで歩き出した。最初の四つ角を過ぎる、その左右を見た時、右の方の向こうに人影を見つけた。二人だ。遠くて誰かはよく分からない。でも体つきを見て、背の高い方は多分ソフィアだ。もう一人はラウラだろう。ミアは人影に見つからないように、道の隅の方を音を立てないように歩いていく。二人はゆっくり歩いている。互いの腰に、腕を回しているのが分かった。そんなに親しいのだ。月明かりの中で、一人はやはりソフィアで、青い服が見えるようだ。もう一人はやはりラウラだ。うねるような髪型で分かる。ミアは胸が苦しくなった。予想はしていたが、実際に目にすると、光景が自分の心に襲いかかってくる。
そして二人は狭い角を曲がった。ミアは見失わないように足を早めたが、二人はもう歩いてはいなかった。向き合って、体を寄せ合って、唇を重ねていた。ミアは動けなくなる。見てはいけないものを見てしまったように、それ以上近づけない。でも目を離すこともできなくて、ミアは物陰に身を潜めて、二人の様子をうかがう。
二人は何度も唇を重ね、離してはまた重ねている。あれがラウラが自分としたかったことだ。ミアはそう思うと、背筋に震えが走った。しばらくして、ソフィアは背をかがめ、ラウラの唇だけでなく、頬や、首筋にまで唇を当て始めた。そしてソフィアの手がラウラの胸を撫でている。ラウラのスカートがめくられていて、白い脚のほとんどが見えている。ソフィアが脚の方のどこをどう触っているのかは分からない。ラウラは声を出してはいないが、喘いでいるのは遠くからでも分かった。ミアは思わず自分の胸をつかんで、声を上げそうになる。誰かに触られるなんて決して望んではいないけれど、もしかして望んでいるのかもしれない。ミアは耐えられず、飛び出すようにその場を逃げ出した。暗い街の中をひたすら走ってゆく。
道はまっすぐで、どこまでも続いている。直行する道が等間隔に四つ角を作っている。まるで何度も同じ場所に来たような錯覚を覚える。走っていたミアは足を止め、崩れるように地面にひざをついた。どこだか分からない建物の壁にもたれる。息が切れていた。周囲を見ても誰もいない。月明かりの中で、ソフィアに唇を何度も当てられ、体中を撫で回されて、喘いでいるラウラ。あの光景が焼きついてしまった。ラウラはあそこから、ソフィアの腕の中からもう逃れられないと思った。どうしてソフィアは、わざわざラウラを選んだのだろう。いや、選んだのではなく、誰に対してもあんな風に接しているのかもしれない。いずれにしても、自分の大切なラウラを奪っていったのだとミアは思った。何か胸の奥で焼けるような、憎しみが沸き上がる。ソフィアが憎い。ラウラのことも好きだけど、同じくらいの憎しみがラウラに対しても沸く。
ふと何か重い、音が聞こえた。何かが動いている。もたれている壁の中だ。いくつもの重いものが組み合わさり、動いている。機械だ。この街の建物の中は、少しずつ機械に変えられているという。シモーヌ先生が調査をしていて、一度それに同行したことをラウラから聞いていた。この奥がその現場だろうか。それにしても音がしだいに大きくなっている。近づいてくるのだろうか。何かが回る音、叩きつけるような音、引きずるような音。壁のすぐ向こうに来た。ミアは思わず立ち上がって、慌てて壁から離れた。同時に壁が音を立てて壊れ、流れ出るように機械が道に出てきた。暗い金属部品が無数に組み合わされ、複雑に動いている。月明かりの中、全体の形もよく分からない、ただの大きな塊のようだが、それは音を立てて移動する。腕のようなものが生えていて、何かの意志を持って振り回されていた。ミアは恐ろしくなって後ずさった。機械がミアにゆっくり近づいてくる。襲われると思った。
その時、ミアは機械の奥にある赤い光に気づいた。いくつもの部品に囲まれた中に、赤く燃える光を抱えている。あれは憎しみの光だ。この機械は憎しみを抱えて出てきたのだ。自分は機械に憎まれている。でも、機械は近づいては来るが、なかなか襲ってこない。憎しみの光とともに、何か自分を見つめられているような気がする。自分に対する憎しみじゃないと思った。多分、自分の心に共鳴して出てきたのだ。
「帰りなよ……出てきちゃいけないよ」
ミアは機械に話しかけた。機械は何も答えず、ミアに近づいてくる。ミアはまた後ずさる。何かを話すわけでもなく、黙って近づいてくるのは怖い。
いきなり機械の腕が伸び、金属の手でミアの腕をつかんだ。ミアは驚いて、恐ろしくて声も出せない。ミアはつかまれていない方の手で、金属の手をつかんで必死に腕から放そうとするが、力は遙かに強い。ただ、つかまれているミアの腕が壊れないし、痛くもないので、加減はしているのだと思った。
「放して……放してお願いだから」
機械は放すどころか、もう一本の腕を延ばし、ミアのもう一つの腕もつかんだ、両手でつかまれている形になる。必死に逃れようとするができない。機械は赤い光を自分に向けている。腕に引かれ、ミアの体が機械に引き寄せられる。機械は黒い部品の塊で、ミアの身長より遙かにに大きい。ミアは怖くて震えた。何かの危害は免れられないだろう。涙が出てくる。目に入るのは赤い光だけだ。しかし、そのまま機械は動かない。どうしたらいいか分からないという様子だった。
「ねえ、あなたは誰なの?」
無駄だと思いつつ、話しかけてみる。
「もしかして、私と同じように、誰かを憎んでいるの?」
光の色が変わっていった。赤から紫になり、青くなってゆく。落ち着いたのだろうか。腕をつかんでいる力が、少し緩んだ。
その時、聞き慣れない音がした。空中を羽ばたいて飛んでくる音。それは次々と機械にとまった。そしてかわいらしい声でさえずる。鳥が何羽も飛んできて、機械にとまっている。鳥の声が増えていった。
「ねえ、あなたは鳥と友達なの?」
ミアがそういった瞬間、光は一瞬にして赤く戻った。そしてミアを乱暴に放り出した。ミアは地面に投げ出される。鳥のさえずる声が続いている。その声は機械を囲んでいた。機械は鳥から逃れたいかのように激しく動き回った。もうミアのことは見ていない。ミアは起きあがる。暗いからよく分からないが、機械にとまっている鳥は全部青い鳥のようだ。少し前にラウラが青い鳥を見たと騒いでいた。機械から火花が散った。鳥の声が機械を壊しているかのようだ。火花は増えてゆく。やがて部品の一部が落ちた。一つ落ちると次々と落ちてゆく。火花を散らして落ちてゆく。やがて、機械の体が音を立てて崩壊して、部品がバラバラになり、地面に山のようになっていた。鳥は飛び去っていって、何も動くものがなかった。あたりは静まりかえった。誰もいない街に、ただ機械部品の山があって、その近くにミアがいるだけだった。
あの機械は確かに生きていた……ミアは思った。あの鳥はただの鳥ではなく、機械を狂わせる何かを持っていた。機械は鳥達に殺されたのだ。ミアは立ち上がり、呆然と機械の残骸を見つめた。
「ミア!」
ラウラの声がした。見るとラウラとソフィアが来ている。
「ラウラ……」
「どうしたの? 大きな音がしたから来てみたら、何があったの?」
「機械に襲われそうになった。でも、鳥が何羽も来て、機械を壊してしまったの」
ミアは割とありのままを伝えた。なぜ一人で外に出ていたか、訊かれたらどう答えようかと思っている。
「鳥? 鳥に襲われたの?」
ラウラが慌てたように訊いてくる。
「鳥じゃないよ。機械に襲われたの。鳥は助けてくれた」
「なんで……?」
「なんでって……理由なんて分からないよ」
ラウラの訊き方が少しおかしいと思ったが、それより、外に出た理由を訊かれたくない。訊かれる前に、こちらから訊いてみる。
「ラウラは、ソフィアとお散歩でもしてたの?」
「えっ……」
ラウラは一瞬困った顔になり、ソフィアの方を見た。ソフィアが答えた。
「私が誘ったの。こっちの街では、建物の中で機械化が始まっていて異様な音がすると言うから。ラウラは先生と何度か街に出ているし」
ミアの視線がソフィアとぶつかる。ソフィアは嘘をついているようには見えないが、路地で絡み合う二人を見ているから、嘘のはずだった。でも、ソフィアの視線は揺らぐこともなくミアを見つめていて、むしろミアの方が視線をそらしてしまう。
「ミアこそなんで外に出ていたの? 夜の街は危ないよ」
案の定ラウラが訊いてきた。
「ラウラがいなかったから、外に探しに出た」
乱暴な答えだが、変な嘘はつかない方がいいと思った。
「私を? 探してたの?」
「……うん、まあね」
ミアは一瞬ソフィアの方を見る。ソフィアは、全て分かっているような顔をしている。何だか腹立たしい。
「あとで話すよ」
「分かった」
三人で、寄宿舎に戻ることにした。
戻ったあと、ラウラが久し振りにミアの部屋に来た。体を寄せられることはないと思った。それはソフィアとしていることだからだ。来てくれたことは素直に嬉しいけれど、ソフィアの姿がちらつくようで、ミアは少し苛立っている。でも、それをラウラに知られたくはない。
「ミア、私に何か用があったの?」
「ソフィアって、いつも青い服でしょう? あなたが前に言ってた青い鳥と関係あると思う?」
「それを訊きたいだけ?」
「さっき、機械を壊した鳥っていうのが何羽もいたけど、多分全部青かった。青い鳥だった」
ラウラはしばらく答えなかった。何を言おうか考えているようだ。ソフィアから自分に言えない何かを聞いているのかもしれない。
「偶然だと思うな……青い鳥は、もう私のところには来ていないよ」
「そう……」
「用はそれだけ?」
ラウラは早く帰りたそうだ。ミアは自分の気持ちをどう伝えたらいいか分からない。何か言おうとすると、月明かりの中で体を寄せ合っていた二人の姿がよぎる。
「ラウラ……また時々来てほしい。ソフィアと一緒じゃなくて」
「やきもち?」
「そうじゃないよ……何か、何かあの人は怖い」
ラウラはしばらく考えていた。
「そういうところもあるね。気をつけるよ」
「うん」
「じゃあ、また明日ね」
そう言って、ラウラは帰ってしまった。ミアは抜け殻のようになった。
機械の中に光っていた、赤い光。あんなに燃えていればまだましだ。自分の火は消えてしまったかのようだ。でも、ソフィアを思うと、何かが燃え上がってくる。ラウラを返してほしい。
ミアはベッドに横たわった。自分で自分の体を撫でたところで、何も起こらない。誰かに体を撫でられることを想像する。ラウラではない誰か。ソフィア……ソフィアは嫌だ。そうは思っていても、ソフィアの姿がなかなか離れない。ソフィアの長くて白い指先が、ミアの胸に触れる。乾いた唇が、ミアの唇に押しつけられる。そこまで想像して、はっと我に返る。ソフィアに対する恐れと、不思議な甘い感覚が残っている。