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無力

作者: 黒森牧夫

 密度の有る実体を持った重い泥の要な闇の中で光を失った瞬間、胃をきりりと締め付ける様な強烈な異和感が躰の中から湧き上がって私と云う存在の核をその規模に於て収縮させ、闇が私を取り囲んで、皮膚の表面と云う表面から捕食者の様に侵食して来るのを許した。私の内圧が一気に下がり、穴の空いた風船の様に萎んで行く様な感覚が私を臆病に、そして鋭敏にし、パニックに近い恐怖の中に私を包み込み、「時よ止まれ」とばかりに正常な宇宙のリズムを掻き乱した。私の中でありとあらゆる情報が膨らんで破裂せんばかりに外界との正常な経路を遮断し、現状が把握出来なくなった私は、単に視覚情報を失ったと云う以上に、この狭く閉じられた空間の中で孤立し、隔絶し、見慣れてよく知ったフィードバックの感触から切り離されて、ぽつんと小さな取るに足らない点と成り、且つ同時にあらゆるものを埋め尽くす無意味な騒音と化して、悍ましい当惑の中で彷徨った。見当識の喪失は身を切り裂かんばかりの凄まじい衝撃と成って無言の轟きで周囲を満たし、私はぽっかりと空虚を抱えた腹を押さえる様にして蹌踉き、立ち止まり、接着剤を足元に流し込まれた様にその場に固まった。頭の後方から頭頂部へ掛けてゾワゾワとする意識の集中が駆け上がり、まともな呼吸も儘ならなかった。何か大きな塊が喉を迫り上がって来て口から出ようとしている様だった。感情の動揺はその儘認知の歪みへと変換され、殆ど痛烈な肉体的苦痛を伴って、更に私を恐怖させた、私は息が出来ず身動きも出来ない儘、その重過ぎる時が過ぎ去るのを凝っと待ったが、何度かの満ち退きの後に多少なりとも精神の視界が晴れて来るまでには、暫し数瞬を―――或いは永遠を要した。私は闇の中に氷漬けになっていたのだ。

 息を止めた儘、私は数歩後ろへ蹌踉いた。足元でパシャパシャと甲高い音を立てて水が撥ね、奇妙に不快で心騒がせられる音と共にまた水面に取り込まれた。私の耳は何かに塞がれてでもいるかの様に最初は半ばまでしかその音を伝えては来なかったが、少し間を置いてみると、それが周囲の壁面に反響して幾重にも折り重なって合わせ鏡の様に繰り返されて行くのがぼんやりとだが判別出来る様になって行った。私は更に暫く、大砲を撃っている様な心臓が、或いは完全に死んで冷たくなってしまったかと錯覚させられる心臓が再び人間らしい鼓動を打ち、血液が体内の血管を巡り、肺臓の入り口をぎゅっと縛り上げていた紐がようやっとゆるゆると緩められて行くまで、一瞬たりとも気を抜かずに、しかし依然として驚愕に呑み込まれて呆然とした儘、取り残された様に立ち尽くし続けた。気の遠くなる反復―――音とリズムとが互い違いに入れ替わっては相手を罵倒し、蹂躙し、書き換え合うのを、私は霞掛かった遠い記憶の中でのことの様に感じ取った。何と云う混乱、何と云う狂気、何と云う出鱈目か! 衝撃が徐々に薄れるにつれて反撥と怒りが顔を見せる様になった。その後で蛮勇と錯乱した希望とが身ぬちを貫いて行くのを、私は抑制もせずに抱き止めた。硬化していた形が崩れて行く感触は爽快ですらあった。

 私を凍らせていた氷が次第しだいに融けて行くと、私は今度は意識的に呼吸を再開する様になった。吸気は私の神経細胞を活性化させるべく全身を駆け巡り、呼気はまるで火山から吹き上がる水蒸気の様に周囲の大気を灼き焦がした。視界には一筋の光すら存在していない筈だったが、私の憤激の所為か、或いは幻想の為せる業だったのかも知れないが、瞬きの度に真っ赤な圧力が視界を覆い尽くすのを見た様な気がした。靴の縁を乗り越えて足や裾を濡らす水の感触や、両生類の様にじっとりと肌に貼り付いて来る湿り気を帯びた生温かい大気の息苦しさは、私の肉体の生命活動自体が齎す過剰なまでの騒々しい轟きの前では些細なものに過ぎず、客観的に見ればその時私は沈黙と静寂に包み込まれていたのだろうが、私からしてみれば森羅万象が激変しその(かんばせ)を取り替えようとする時のあの独特の狂乱に満ちていた。だがその興奮もそう長くは続かず、一時の昂りが収まってしまうと、今度は逆に底冷えする様な寒さ―――殆ど悪寒に近い寒さが濡れた毛布の様に全身を包み込んで行った。それを否定し拒絶するかの様に私の鼻息は荒くなり、気が付くと両の拳は、視界が利いていたら恐らく白くなっていたであろう程にきつく握り固められていた。熱が退潮し、ものみな全てが―――その触知出来る現象に関してはと云うことだが―――冷淡に青醒めて行くと、それまでフィルターで濾過されてしまっていて殆ど私まで届いて来てはいなかったものどもが取り残されて姿を現し、その存在を私に知らせ始めた。私はあらゆる方向から包囲されていた。私は孤立無援で途方に暮れ、徒手空拳の儘そこに辛うじて存在することが許されているだけの―――或いは単に無関心にも目溢しされているだけの存在だった。私の愚かしさが、私が私自身に課した制約によって寧ろ私を守ってくれていた被膜が無くなり、掛けられていた覆いが取り払われることによってテーブルの上にそもそも載っていたものどもが露わになってみると、曾て予兆と予感の中で朧気にその姿を仄めかしていたに過ぎなかった否定も誤摩化しも出来ぬこの現実と云うものが、私の肩に手を置き、背筋を這い上がって首筋に纏わり付き、冷たく無慈悲で、しかも悪意に満ちた息を私に向かって吹き付けて来た。私は戦慄し、身構えた、そしてまた為す術も無くやはりそこに立ち尽くし続け、露わになったものどものひとつひとつがそろそろと私の触知出来る範囲内に忍び込んで来るのを、麻痺と略同義とも言える無為と共に見守った。

 先程から………いや、ここに入って来た瞬間から聞こえていたが、今まではそれ程意識していなかった音が、何かおかしな具合に耳にくっ付いて来る様な嫌らしさと共に大きく響いて来た。天井か何処かから水滴が落ち、私の動き以外にはさざ波ひとつ立てるものの無い掃き清められた様な水面を騒がせているのだろう、ポチャリ、ポチャリと、粒の大きさも落ちる間隔も不揃いでバラバラの儘、恰もそれが世界で生起している事象の全てでもあるかの様に、それは大気に満ちていた。それは何処か遠宇宙の果てから届いて来る解読不能だが確かに何等かの意図の込められたメッセージか、或いは地下にどよもす群衆の間で囁き交わされる何か秘密の符牒のざわめきを思わせた。私には理解の及ばない、何処か深淵から這い上って来る盲目の秩序、ヒントの無い儘何千年も放っておかれた古代の記録、或いは当事者達もまた自覚の無い儘に展開される、一見して不可解で理解を拒み、理解しようとして失敗する者達を嘲笑する、と云うか寧ろそうした者達の地上的な思惑から超然として沈黙の裡にその務めを遂行する神々のデザイン―――それはそうした何かだった。私はその不規則な水音に誘われ、呼び掛けられると同時に拒まれ、挫折させられ、その静かで底意地の悪い暗闇の中に自分を見失い、屈辱を味わい、息の詰まる様な失望と凡そ耐え難いまでの恥の感情の中に取り残されることとなった。

 ピチャン、ピチャンと気儘に跳ね回り、辺りに野放図なまでの谺を響かせるその音は、正に悪魔の哄笑だった。それは私の無知と無力さを嗤い、宇宙の真理を嗤い、秩序と誠意と正義を嗤っていた。それでいてそれ自身は何処までも空虚で、捉え所が無く、全てのものの焦点であり乍ら、その中心に大いなる空無を敷き広げていた。音は繰り返され、繰り返され、繰り返された。その空ろなトリルがひょっとしたら未来永劫繰り返されるかも知れないと云う考えが何処からともなく浮かんで来たが、それは私を殆ど狂気の縁にまで追い遣り、焦燥で私の脳髄を炙り責め苛み、猟師の逞しい太い腕にがっちりと捕まえられた獲物の様に死に物狂いにさせた。私は罠に掛かったのだ。この凝縮された永劫の中に囚われ、絡め取られ、巻き付かれて、手も足も出ない様な窮地へと追い込まれたのだ。全身の皮膚が毛羽立つ様な怖気を覚え、私は二、三度蹌踉きつつ後退(あとじさ)った。空間がぐるりと捻れて、私の周りで歪な渦を描きつつ撓んで行く様だった。様々な音程、様々な音色、様々な音量で奏でられるその千変万化の夢魔の交響楽の背後には、もっと何か冷厳で金属的な、非-生命的な怜悧さの気配が漂っていた。それでいてそれは何か活発に動いている様な、一定の振幅を持って様々に強弱を行き来し乍ら振動している様な感触を与えるもので、私はこの空間全体が得体の知れぬ巨大な狂ったエンジンによって何処(いずこ)へともなく運び去られている様な印象を受けた。大気は緊張に満ちていたが、それと同時にその緊張は大気から来ているのではなく、何かそれを超え出た所から発する悍ましい冷気の様なものに起因するもので、若しそれがその気になりさえすれば、一寸した切っ掛けによって回転する氷の刃の様に空間そのものを切り裂いてバラバラにしてしまう力を秘めているのだろうと云う予感がした。「その気になったら」と私は言ったのだろうか? 莫迦ばかしい! まるで私がそれが人間や生物の様に何等かの意図や志向や性向を持っていると考えている様ではないか? その行ったり来たりする全く規則性の見えない不安定の戦きの手触りは、非-生命的、或いは没-生命的と形容すべきではないのだろうか? あらゆるものを冷笑するどころか、一切の事物や事象に対して無関心な性質をそれは仄めかしてはいないだろうか? 何と云う愚かな発想を………そう私が思い惑っている内にも、その振動は水音と縺れ合って互いに強度を増し、徐々に空間を喧噪で埋め尽くして行く様な気がした。重層に重層を重ねて、互いに浸透し、侵蝕し合い、輻輳的な交差によって複雑に影響を与え合い、影響を与えられ合うその運動は、次第に轟きと成って私を貪り食おうと襲い掛かって来るかの様だった。この圧力の高まりを支えているのは一体どんなエネルギーなのだろうか? 気が狂いそうだった。それにしても、あれらの背後で冴え渡る悍ましいざわめきは一体何処から遣って来るのか! あの、口角から泡を噴き乍ら世界の解放を喚き散らして回る歓喜の声は………!

 と、不意に、そこで有り得ないものを聞いた気がした。本来その場所、その空間からは期待出来ない筈の音、期待するべきではない音、決して耳にする筈の無かった音だ。それは暗がりの中から手を伸ばして来て私の心臓をきゅっと掴み取り、覚束無い私の動きをその場で停止させた。それは水の撥ねる音、何かが水面を掻き分けて動き、水面上に跳び上がった水滴が立てるパシャッと云う軽くて何の変哲も無い水の音だった。何かが………? いや、それは私の足だったろうか? 私は自問してみたが、それが単なる心理的な自己防衛であることは判っていた。そんな筈は無い、私の足が動き、それによって周囲の水が音を立てた瞬間と、問題の水音がした瞬間との間には、明らかに間が有ったのだ。そして私の足は二、三度動いたのに、その音はそれとは別に一度切り。その音の原因が私の足であることは有り得ないのだ。

 ハッと身構えて指一本動かさず、そもそも呼吸するのを忘れてしまったかの様に息を殺して耳を澄ませていると、やがてまたその有り得ない音が二度、三度と空間全体に谺した。何だこれは? 明らかに他の水音とは違う。水滴の様に上から只落ちて来るのではなく、何かが横向きの力で水面を叩いている音だ。ではこの空間内に私とは別の何か、生命と意思とを持った何物かが存在していると云うことなのか? 私の知らない、少なくとも私がその存在を知らなかった何か未知のもの、その正体については皆目見当も付かないし、またインクを流した様に視界が真っ暗で、目を凝らしてみても見えるのが私自身の生命活動の兆候に因るものばかりなこの状況では、よく見て観察することも出来ない、私の既知圏世界を超えた所に存在している、何かが? それともこれはこうした地形に於ては有り触れた単なる物理現象のひとつに過ぎないのだろうか? 不安にさせられるのは、その音の余りの近さだった。いや、反響に反響を重ね、四方八方、空間全体から音が響いて来るこの状況では正確な距離感なぞ掴み様が無いのだが、それにしてもそれは耳元の極く近くから聞こえた様な気がした。同時にそれは遥か遠くから伝わって来たものである様な気もしたが、同時並列的な印象の中に潜むそうした不穏な仄めかしは、実に心騒がせられるものだった。こうした時に、想像力は諸刃の剣だ。想像力をふんだんに持つ者は愚鈍で具体的で限定された経験則からしか学ぶことをしない地上的な精神に比べて遥かに多くの未知の事柄を予想出来るが、それは同時により一層多量のノイズ、単に存在しないものどもの到来を告げ知らせる空疎な喚き声、在りもしない脅威を騒々しくがなり立てる扇動家達に悩まされると云うことだ。肉体を持つ生き物として身の丈に合った幸福と充足を得たいならば、想像とは縁を切ることだ、考えないことだ、数多の諸可能性の海に志向を漕ぎ出させたりはしないことだ。そうでなければ居る筈の無い悪鬼共、いや実際に居るのかも知れないが、その存在を私自身は決して確信を持って知ることが出来ない悪鬼共が、私の脳髄にへばり付き、しがみ付き、鋭い牙を立てて私の脳漿をそこから啜り出そうと躍起になるのだ。人間的な価値観に意味を持たせ、人間的な尺度で物事を測り、人間的な節度と倫理観を保持した儘その生を全うしたいのであれば、余計なことは考えないことだ、具象的な恐怖のみが真に恐怖すべきものだと思い込むことだ、己が生の限界を突破したその先に存在するものどもについてなど、想いを巡らせないことだ、既知の棲息圏内に安らぎを見出し、それ以外のものどもには目を向けず、敵視するか無視をするか、それともそもそもそうしたものどもが存在し得るかも知れないと云う可能性に気付かないことだ、徹底して自分を縛り上げ、牢獄の中に住まうことだ、牢獄の中で今まで見知って来た卑小なことども、それこそが世界の全てであって、それ以外の何物かが存在するかも知れないなどとは夢にも思わないことだ、それこそが気を狂わせずに正気を保っていられる、唯一の方法なのだ………。

 躰が動かなかった。腹の辺りには何か窮屈な塊がずっしりと沈殿し、体表一面に無数の小さな棘の有る毛皮で覆われてしまった様なむず痒い異和感が走り、頭の中は伽藍堂に成ってしまったかの様にガンガンと大きな音で自分の心臓の鼓動が、或いは耳朶を流れる脈流が鳴り響いているにも関わらず、知覚は何時にも増して鋭敏に成り、事象の裏側でこっそり進行していることすら何ひとつ聞き逃すまいと、あらゆる反響、あらゆる振動、あらゆる戦きと法悦を貪欲に捕え、取り込み、消化しようとしていた。相反するものどもが躰の中でぶつかり合い、溢れ出る混乱で以て私を死の恐怖で満たすのが判った。私は圧倒され、濁流に呑み込まれ、押し流されて行くのを感じていた。そしてこの異境で、私の他には誰ひとりその存在を知らぬ、真っ暗で外界から隔絶し、出口どころか最早入り口が何処であったかすら、いやそもそも入り口と呼べる様な場所が存在したのかどうかすら定かではないこの暗黒郷で、私の生命が尽きるかも知れない、何事も為さず、何事も知らず、何処にも到達し得なかったこの不様で愚かで矮小な精神がここで無為に無意味に果てるかも知れない、と云うことに思い至ると急に、人類全体に対する義務感とも呼ぶべきもの、この醜く詰まらない我が同胞達に対する崇高な使命感とでも言ったら良い様な感覚が、本当に一体何処から湧いて出たものかは知らぬが、唐突に私の全身を駆け巡り、何かせねば、とにかく何でも良いから何かを為さねば、と云う切迫した衝動が(おこり)の様に私を震わせた。何かを遺さずにむざむざ終焉を迎えることなど出来ない、文字通り私の全存在を賭けた飛躍が今、必要なのだ。だが私の両足は蟠る水にがっちりと掴まれでもしたかの様にびくとも動かず、不可知の敵の正体を見極め、出来る限り状況に合理的に対応しようとする冷静さも、何処かへ吹き飛んでしまったか、或いはそうしたものに重きを置く価値観が一気に萎んでしまったことで急速に影が薄くなってしまい、頭の中は反響する何層もの水の音がまるでピンボールの様な固さを持ったものの様に跳ね回ることで支離滅裂に掻き乱されてしまっていた。私は何をすべきか、自分には今何が出来るのか、さっぱり判らなかった。何故私の足は動かないのか、何故私は次の行動を思い付かないのか、何故私はこんなにも怯え、圧し潰されようとしているのか………その中で混乱を極める戦慄だけが一方的に高まって行った。

 気が付くと私は泣いていた。足首まで水に浸かって一歩も動けない儘、項垂れて静かに啜り泣いていたのだ。これは私には素晴らしい思い付きに思えた―――少なくとも、それ以上の選択肢を思い付かない程度には評価すべき、好ましい行為に思えて、私はそれに飛び付いた。私は声を出して嗚咽した。私は泣いているのだ、私は少なくともこの終焉を、この限界を、この不条理を、何か重大なものと見做して然るべく反応しているのだ、私にとってこれは単なる物理的な反射以上のことなのだ、と万有に向かって叫びたかった、証言したかった、耳を傾けて欲しかった。仮令私がここで終わるとしても、私にはまだ遣り残したことが有り、果たしていない約束が有り、未だ進むべき道が有ったのだと、全ての人々の肩を掴んで証明してやりたかった。私がこの恐怖に唯呑まれてしまっただけではないことを、誰かに向かって宣言したかった。が、私のその衝動は私自身にとって余りにわざとらし過ぎた。それは誘導されたものであり過ぎた。それは余りに芝居掛かっていた。それは私の欺瞞的な意識が導き出した自己慰撫の為の見え透いた嘘、いや嘘とは言わぬまでも、下手過ぎて真面目に受け取ることの出来ない演技に過ぎなかった。私の純真さを公正明大に世界に訴えるには、その行為は余りにも意図されたものであり過ぎた。その滑稽さと醜悪さは、今正にそれを行っている最中の私自身にとってさえも、些か耐え難い代物と呼ぶべきだった。こんなものを、私は恐怖の成果として差し出そうと云うのか? これこそが私の全経験を賭した跳躍なのか? 私はこんなにも酷く出来の悪いペテンで、この余りにも愚かな生をうまうまと糊塗出来ると、本気で思っているのだろうか?

 だが私に何が出来ただろうか? 私には一体そうする以外、嘘泣きと誰の目にもバレている懺悔を続ける以外に、何が出来ただろうか? 頭の中ではガンガンとあの音と振動の織り物が金切り声を上げ、私を私自身すらからも追い出そうとしていた。全身を拘束する冷気の中で、私独りが急激に下卑た汚物と化して行くのを、私は醒めた眼差しで見下ろしていた。嫌らしい愚かしさの直中に在って、私は一層声を張り上げて泣き始めた。

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