またいつか穏やかな場所で
僕がこれから葬るのは、一人の少女。
大国の独裁者としていくつもの国を滅ぼした、悪鬼だ。
つい先刻研いだばかりのナイフを服に忍ばせ、最上階まで続く螺旋階段を駆け上がる。
息は、乱れていない。
配置されている見張り兵たちを急所突きで眠らせながら、さほど時間を要さずに最上階の小部屋にたどり着き、重厚な扉を開け放った。
ゆっくりと、一人の少女が振り返る。
漆黒を基調にした幾重にも重なる柔らかな布地の長衣が、ふわりと揺れていた。
「お待ちしておりました」
紡がれた言葉の穏やかさと意外さに、目を見開く。
「何故…?」
「私を、救って下さるのでしょう?」
少女は、なおも微笑む。
腰まであるブルーグリーンの透き通った髪は、全てを知っているような海の色だった。
「あなたは、綺麗な人ですね。その耳飾りもよくお似合いです。異国の…どちらでしょうか?」
僕は思わずそれに手を伸ばす。
紅い珠の耳飾り。
片方だけのそれは、幼いころ生き別れた妹の形見だった。
遠い農村に引き取られた妹は、戦火に巻き込まれ命を落としたと、後に知った。
左耳のこの飾り珠は、故郷では絆を意味する、ありふれた石だ。
だが僕の村も、目の前の少女が君臨するこの大国によって滅ぼされ、領土と化した。
「ご存知でしょう? あなたが滅ぼした村だ」
少し声を荒げると、少女は悲しげに首を振る。
「存じません。私は、この国のことも、ほとんど何も知らないのです。知識を得ることは、許されておりません」
「え…?」
「他国では、私が巫女であり王であると見なされているのでしょう。ですがそれは、私が単に巫力があったからに過ぎません。この力が何に使われているのか、初めてその一部を刺客から知らされた時は…驚愕しました」
「…あなたは、たくさんの小国を滅ぼした。得体の知れない、その禍々しい力で…力を利用した兵器で」
「そのようですね。そして…あなたの村も…国も、そうだったのですね…?」
全てを知っているかに思えた少女は、全くの無知。
ただ、都度現実として知り得た全てを、全身で受け止めようとしているようだった。
少女は、なおも微笑む。
「あなたは、今までの刺客の方々より幾分穏やかでいらっしゃる。…それに、おそらく強い力をお持ちです。……私を、刺すことも可能ですか?」
柔らかなその微笑みに、僕の心臓の辺りが鈍く痛んだ。
今まで何人…何百と相手にしてきたのに、こんな感覚は初めてだ。
だいぶ前から、暗殺を生業にしてきたというのに、この指先の震えは、一体…?
「アミリアナ・レーシュ・リイセさん…でしたね、あなたの名前。略称はお持ちで?」
少女に問うと、再び首を振った。
ありませんし、と、小さな声で呟く。
「…そうですか。でしたら、今この場での勝手を、無礼をお許し下さることを願います」
「はい?」
不思議そうにまばたきをした少女の表情は、あどけない幼子のようで。
僕は、懐のナイフを取り出し、先端を少女に真っ直ぐ向けてから、一礼した。
「ミリィ、安らかに」
ささやいた僕の言葉は、少女の耳に、確かに届いたようだった。
もっとも、その瞬間には、僕の手のナイフは少女の胸に埋まっていたのだけれど。
血生臭さとはかけ離れた、優しい涙のような赤い血溜まりが、床にじわりじわりと広がってゆく。
僕は、左手の袖口に仕舞ってあった小型の最新式兵器…噴霧状の毒素発生装置を、扉の外の螺旋階段に放り投げた。
散布されたこの毒素は、塔一帯の大多数の兵を葬るのだろう。
「…ああ、やっぱりか」
ここに赴く辞令が下る少し前、複数の人間に押さえつけられ体内に埋め込まれた、手の爪より小さな温度のない異物が、両腕と腹部で仄かに発光するのを確認し、僕は深い溜め息をつく。
「因果、かな…」
苦笑いは、爆音に掻き消されて。
紅く赤い色が二つ、眠りにつく。
長い、長い夢に。
(いつか…争いのない、穏やかな世界に……)
*FIN*