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藤の庭  作者: 真夜中緒
5/6

殯の庭

 さくり、と音をたてて髪が落ちる。

 輝子の中で声にならない悲鳴があがる。

 身体が、軽い。

 なんて気分がいいのだろう。

 読経に混じる驚愕のざわめき。

 輝子はこの日この場で髪を下ろす事を、ほとんど誰にも伝えていなかった。

 もちろん、光る君にも。

 光は今どんな顔をしているだろう。

 あの日、光が捕らえた黒髪を切り落とし、輝子は今度こそ自由になる。

 光からも、輝子自身からも。

 輝子の中の悲鳴は啜り泣きに変わる。

 もう二度と、光の手に触れられることはない。

 その巨大な喪失感は確かに輝子に強い痛みを与えたが、同じくらいに大きな開放感を輝子にもたらしてもいた。

 不殺生

 不偸盗

 不淫

 不妄語

 不飲酒

 不塗飾香鬘

 不歌舞観聴

 不坐高広大牀

 不非時食

 不蓄金銀宝

   保つや否や

 「よく保つ。」

 静かなはっきりとした声で、答えることができたと思う。清らかな水晶の念珠を手にかけて、輝子は戒を受けた。

 

 院が崩御されて一年。父院という歯止めを失った光は今までにも増して輝子を求めようとするようになり、輝子はそれをかわすのにひどく苦労させられた。

 院が崩御されたとて、中宮である輝子に再嫁はない。光との仲が噂にでもなれば東宮の御位も危うくなるだろう。

 せめて喪中だけでもと逃げ回り、必死に身を守っていたのに。

 裏切ったのは、命婦だった。

 光の嘆きを聞き、かき口説かれた命婦は輝子のもとへと光を招き入れてしまったのだ。

 それでも、輝子はなんとか逃げ切ろうとした。光の言葉から耳を背け、具合が悪くなったからと女房たちを呼び込んで、光に触れられることから逃げ切った。

 はずだった。

 まさか、思わなかったのだ。

 光が自分のそば近くに長々と身を潜めているなどとは。

 油断をして一人になった途端に、香りに気づいた。あの聞きなれた衣づれがする。

 光の指が輝子に触れようと伸び、身を翻した輝子の衣をつかむ。

 しゅっ

 とっさに輝子は衣を肩から滑らせて、衣は音を立てて落ちた。そのまま部屋から抜け出そうと、御簾に手をかける。

 けれど、

 輝子はそこからもう、動くことはできなかった。

 脱ぎ捨てたはずの衣ごと光の手に残った黒髪が、輝子が立ち上がるのを拒んだのだ。衣を捨て、輝子の黒髪だけを手に巻いて、光が輝子に迫り、引き寄せる。

 真っ暗な絶望感の底から湧き上がってくる歓喜。

 それはもう、地獄だ。

 甘く絡め取られ、力づくで押し流される。

 拒んでいるのか、誘い込んでいるのか。輝子にさえもわからない。

 ふと、院の指先を思った。

 輝子の背をはう光の指の感触が、院を思い出させたのだ。

 なぜ、こんな目ばかりに合うのだろう。

 院の臥床で光を思い、光の腕で院を思う。

 これほどの罰を受けるどんな罪を輝子が犯したというのか。

 忌まわしいこの歓喜。

 輝子の身体の奥深くから湧き上がり、真っ黒にぬりつぶされた、輝子の中を暴れまわる。

 その夜、いつ光が帰ったのか、輝子にはわからなかった。

 混乱と絶望の中で輝子は気を失い、高熱を出したからだ。

 熱に浮かされて、輝子は夢を見た。

 輝子を苦しめた院の寵愛、光の執着。

 妬ましさのあまり、魂が抜け出した光の嫡男の生まれた夜。

 愛執の激しさに衝撃をうけたあやかしと化した女。

 それから全てを知ってなお、輝子を寵愛した院の微笑み。

 そうだ、院は全てを知っていた。

 「心配せずとも、光は私の子。皇統に乱れはない。」

 穏やかに微笑んで、院はむしろ晴れ晴れとおっしゃった。

 「これで光の血筋を、皇統に残すことができる。」

 院は全てをご存知で、喜んで東宮を御位に据えたのだ。光の血を皇統に戻すために。

 なぜ、どこまでもこうなるのだろう。

 かつての寵姫の形代の私が、その寵姫の血統に連なる皇子を生み、臣下に下ろされた光の代わりに即位して皇統に連なる。

 一体私はなんなのだろう。

 幾度も、幾度も聞かされて、すっかり諳んじてしまった、院と月の君の恋物語。

 あれは終わってなどいなかったのだ。

 輝子と光る君を取り込んで、院のお隠れになった今も綿々と続いている。

 それにつけても恐ろしいのは院のお心だ。

 輝子と光る君の中を知っていたのに、院の寵愛は衰えなかった。院のお心に怒りが微塵もなく、むしろ喜ばしく思っておいでだったとして、息子と関係のある女を、変わらず寵愛することなど普通ならできるだろうか。

 輝子はその事を光には伝えていない。おそらくはこれからも、知らせることはないだろう。光の歯止めが一層効かなくなるのを憂慮したということもあるけれど、それ以上にこの事実をどう受け止めて伝えたものか、まるでわからないからだった。

 院の、光の指が輝子の身体をなぞる。

 熱に浮かされた輝子はその指から逃れようともがき、一層深く落ちていく。

 底へ、底へ、底へ。

 思えば院の後宮へ迎えられたあの少女の日から、輝子がその奈落へ落ちるのは定められた運命であったのか。

 目が覚めた時、傍らで命婦が泣いていた。「お目覚めになられましたか。」

 かすれた声でホッとしたように表情を緩める。

 「申し訳のしようもございません。私は独り合点でとんでもないことを。」

 光が帰ったあと、気を失って発熱した輝子を見つけたのが命婦だった。もぎ取られ、押しひしがれた花のような輝子の有様に仰天しながらも、乱れに乱れた輝子の姿を繕って床をとり、休まず看取りをしていたのだ。

 「まさか、まさかこんなひどいことをなさろうとは。」

 看取りの間うなされる輝子を見、ときにうわ言を聞いて、輝子がどれだけ傷つき憔悴していたかに初めて気づいたものらしい。

 「いいのよ、もう。」

 輝子の声もかすれていた。口中の僅かな水分で唇を湿して続ける。

 「私は、出家します。」

 それが、輝子の結論だった。

 この浅ましく苦しい奈落から抜け出すために、東宮を守り参らせるために、輝子にできそうなことは、もうそれだけだ。

 世に知れれば光を刺激するかもしれない。そうでなくても知れば光は、阻止しようとするだろう。

 今や東宮を守る後援者の筆頭は、故院直々の命を受けた光の君だ。当然東宮御所の動向は全て光に知られている。輝子は命婦と二人策を練り、故院一周忌の法要で輝子の得度を行う段取りを密かにつけた。

 寡婦の喪は一年。

 一周忌の法要を終えれば喪は明け、普通の生活に戻る。しかし、輝子の喪は明けない。輝子は故院の冥福を祈るという名目のもとに、行いすました出家の生活に入る。もちろんもう二度と光と通じることもない。


 髪を下ろし、鈍色の衣の上から袈裟をかけて、輝子は目を閉じ手を合わせる。これから続く長い長い殯の時。

 それは故院のためと言うよりは、輝子の内に巣食うものをこそ、葬るためのものなのだ。

 恋心と呼ぶにはあまりに浅ましく、穢れた衝動。光の執着を喜び受け入れようとするもの。

 悲鳴を上げすすり泣くそれにとどめを刺し、しっかりと葬ってしまわなければ輝子は深く息を吸うことさえできない。

 たとえ奈落の底からでも、見上げれば小さく空が見えるだろう。せめて奈落を這うのではなく、空を見上げていたいと思う。

 僧都たちの読経に和し、細く経を誦す。

 細く、細く、途切れそうに細く。

 すがりつくにはあまりに儚い、けれども他にはすがるものがない。

 世の人は輝子の出家を惜しむだろう。輝子は若く、その春秋は殯に費やすにはあまりに長い。東宮はまだ幼く、母后としての輝子の役割も少なくない。

 もしかしたら、あまりに早まった出家であるとさえ言われるかもしれない。

 けれど輝子の心は、どこまでも晴れやかだった。

 長い、長い殯。

 それほどの時をかけなければ、おそらくは葬りきれないであろうもの。

 それでも、葬り去るための殯を始めることはできたのだ。それが遠い道のりでも、ひたすらに進んでいこうと思う。

 奈落の底から見上げる小さな空を目指して。

 

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