桜色の指先と、三日月のような君
「お疲れさまでしたー!」
片付けはお母さんのお弟子さん達が中心にやってくれる。
俺と真琴は広場に置かれた椅子に座った。
机には残して置いてくれたお餅と煎茶がある。
「あー、疲れた」
俺は置いてあった煎茶を飲んだ。
少し冷えていて美味しい。
よく考えたら、水分を全く取らずに杵をふり続けてしまった。
俺は薪割りの鉈といい、杵といい、振り回すのが好きなんだな。
掌に出来た小さなタコを指先でいじる。
「肩がもう……あがらない……」
真琴は机に突っ伏している。
「途中で止めればいいのに」
「一馬が楽しそうに杵ついてたから、一緒にやりたくて」
真琴は突っ伏したまま言う。
「楽しかった?」
俺は聞く。
真琴の顔が突っ伏したままクルリと動いて、俺の方を見た。
「疲れた」
「そりゃそうだ!」
真琴の体型は杵を振り回すには細すぎる。
それでも今日は頑張ったほうだと思う。
俺は餅を食べた。
最後についた餅だから、まだ温かくて美味しい。
砂糖醤油は偉大だ……いや、一番はきな粉だけど。
「あの学校に行ってたの?」
真琴が少し遠くに見える学校のほうを見て言った。
「小学校な。そう、あれ。近くて最高だったよ、五分前に家を出ればオッケー」
「さすがに遅刻じゃないか?」
真琴が小さく笑う。
「学校の奥に川があって、よくそこで水切りしたわ」
「まだ出来るの?」
「誰か流されて禁止になった。すぐに助けられたけどな」
「あるあるだな」
「だろ? あとで川辺散歩しようぜ、神社もあるわ。小さいけど」
「いいね……でもちょっと疲れたよ……」
真琴は瞳を閉じた。
長いまつげが影を落とす。
「疲れたんだろ、部屋に戻れば?」
「いや、ここで良い……」
真琴は小さな声で答えた。
俺が餅を食べていると、杏奈と美波さんが来た。
「一馬! 久しぶりにやらない?」
杏奈は手にサッカーボールを持っている。
「お、いいね」
俺は立ち上がった。
「見たい!」
美波さんも走ってきた。
隣に座った真琴は目を閉じて動かない。
俺は椅子から静かに離れた。
「よし来い!」
杏奈が俺の頭に向かってボールを投げる。
俺はそれをヘディングで下に落とした。
そのままドリブルで加速して、大きく開かれていた杏奈の股を抜く。
「ギャーー!」
杏奈が振向くより早く、団地の壁に向かってボールを蹴り込む。
ボールは薄汚れている壁に当り、砂煙が上がる。
「よし、先制」
「マジか」
今度は杏奈がボールを支配して、反対側の壁に向かって走り出す。
俺の前に立って、右側を一瞬見たので、重心を動かしたら、杏奈は一瞬で左に消えて反対側の壁にボールを当てた。
「はい、同点ーー」
「あー、やっぱ強いな。しかしここでサッカーするの、懐かしいな」
俺はヨタヨタと花が植えられてない花壇に座った。
餅つきで8割の体力を使い果たしたようだ。
「ここで練習してたんだ」
美波さんが両腕を大きく広げて言う。
「そう、ここでずっと練習に付き合って貰ってた」
杏奈は壁にボールを当てながら言う。
ここは、古くて誰も住んでない団地がそのまま残っている場所だ。
杏奈がサッカーを始めてからずっと、俺や団地の子は、みんなここで杏奈と戦っていた。
3対1でも1対1でも、杏奈は最強だった。
「歴史だね、二人の」
美波さんは壁の汚れに触れて言った。
「歴史っていうか、経年劣化?」
杏奈はリフティングを始めた。
おおお……と道側で見ていた子供たちが寄ってくる。
「杏奈選手だ」
「すごい!」
杏奈はアーバンに所属している俺や真琴より、地元の有名人だ。
そりゃそうだ、女子サッカーのU18や20にも呼ばれているんだから。
「かかっといでー!」
杏奈は子供数人を連れてサッカーを始めた。
まさに団子サッカー。
「おほほほ取れるものなら、取ってみなさい~~」
「杏奈お姉ちゃん、待てーーー!」
五人の子供達が杏奈を追いかけるが、杏奈は全く手加減しない。
ヒョイヒョイと逃げていく。
「待ってよーー!」
子供達は必死だ。
「可愛い」
美波さんが笑う。
「懐かしいわ」
俺は言う。
よく俺たちも、あんなふうに杏奈を追っかけたな。
全く敵わなかったけど。
「こうして見てると、小さい一馬くんや、杏奈が見える」
美波さんは静かな波のような声で言った。
納得するように、知らないのに懐かしむように。
そして俺の方を見た。
「ありがとう。来られて良かった」
俺は小さく頷いた。
そう言ってもらえて嬉しい。
でも、なんとも言えない気持ちだった。
だって俺は……。
振向くと、机に突っ伏していた真琴が居ない。
あれ、どこ行ったんだ……?
「一馬? 戻ったのー? 汗臭いから風呂入りなさいー」
部屋に戻ると、真琴の靴があったので、安心した。
入ろうとすると、中からお母さんが叫ぶ。
「風呂に行きなさい!」
なんだよ、少し横になりたかったのに。
「分かったよ」
俺は玄関を出て、風呂が使えるほうの部屋に向かった。
そして汗だくの服を全て脱ぐ。
汗をかくときはアウトドアメーカーのインナーを着ているが、それでも汗だくだった。
久しぶりの湯船に少し感動する。
寮はシャワーオンリーで、みんな第一寮の大きなお風呂に入りに行ってるようだったが、真琴が行けないから、俺も一度も行ってない。
だから湯船は久しぶりだった。
足なんて到底伸ばせないけど、それでも肩までお湯に浸かるのは気持ちが良い。
特に冬は。
スッキリして部屋に戻った。
「真琴、居るの?」
寝ていた部屋のふすまを開けると
そこには着物をきた女の子が立っていた。
深紅の中に白い百合が咲き誇る見事な柄。
光の変化で黒にも玉虫色にも見える帯。
まっすぐに伸びた背筋にまとめらた髪の毛の上には、大きな簪が踊っている。
俺は一瞬ですごく……綺麗な人だな……と思った。
でも我に返る。
「……どなた、でしょうか」
俺は下着にTシャツ一枚だ。
慌てて転がっていたズボンを履く。
着物を着ている女の子がクスリと笑う。
「どなた、じゃないよ、僕だよ」
その声はいつも聞いていたあの声で……
「ええええ、真琴?!」
俺は叫ぶ。
着物を無視して、何とか顔を見る。
ああ、真琴だ、真琴だ!
着物だけ見ると、本当に分からなかった。
だってさっきまで餅つきに若いお弟子さんが部屋に出入りしていたし……その中の誰かかと本気で思った。
ウィッグの力はすごい……いや、それだけじゃない。
「化粧……も?」
「口紅だけ。すっぴんだと変だって言うから」
そう言う唇は、着物と同じ深紅に塗られていて、それだけで真琴はもう、真琴じゃなかった。
「いやいや……なんでそんな、突然、なんだよこれ」
さっきまで一緒に餅つきしてたじゃないか。
何なんだ、何でそんなこと……。
女装だ、と思う反面、さっき本気で「綺麗な人だな」と思った気持ちを思い出す。
冷静になると、女装でもない。
だって真琴は……女の子なんだから。
俺は恥ずかしくなって目をそらす。
うしろのふすまが開いて、お母さんが入ってきた。
「良い着物でしょー? 貰ったけど、梨々花には地味で、舞台で使うには良い物すぎて」
お母さんが奥の部屋から出てきた。
手にはフェイクファーを持っている。
それを真琴の首にかけた。
「これで寒くない!」
「ありがとうございます」
真琴は笑顔を見せた。
その表情は間違いなく真琴で、でも口紅のせいなのか、全然知らない女の人のようで……。
「これなら真琴さんだってバレないで、デート出来るでしょ?」
お母さんは胸を張った。
「デート!」
俺は叫ぶ。
「デート」
お母さんは深く頷く。
「デート……デート……」
真琴は小さな声で繰り返す。
ぺったんの次はデート連呼する三人。
なんだこの空間は。
お母さんは着付けの荷物を片付けながら言う。
「真琴さんがね、簪は髪の毛短くても付けられますか? って聞いてきてね、ウィッグ付けてたら、そのままこんなことに」
あはははとお母さんが笑う。
簪。
それはきっと美波さんが付けていたから。
「もういっそデートでもしてきたら? なんて事になって、着せちゃった。どう?」
お母さんはピースして微笑む。
どう? ってそんな、急に……。
俺と真琴はお互いを見たまま動けない。
俺の目の前に、俺が良く知っている真琴だけど、そうじゃない真琴がいる。
女の子になったって知ってたけど、それでも……
「誰だか、分からない」
「やりすぎたか!!」
お母さんがガクリと畳に膝をつく。
だって本音だ。
ウィッグに着物まで来ると、正直着物になれてる俺でもちょっと……。
「まあ誰にもバレないってことでしょ。神社でも行ってきなさいよ。あ、一馬も簡単に袴着せてあげる」
「え、俺も?」
言うより早くお母さんは袴を出してきて、俺に着せた。
着物に比べて袴は本当に簡単に着ることができる。
そしてチューリップハットをかぶせた。
「ほら、某名探偵みたいよ。一馬も変装完了! やだ、超似合う!!」
言われて鏡を見ると、袴にダウンコート、チューリップハットをかぶると……
「湖に頭から刺さってる現場はどこだ」
俺は開き直って言った。
「縁起でも無い!」
お母さんは俺の肩を叩いて笑った。
「トランクも持たないと」
口元を左側だけ持ち上げて目の前の女の子は言った。
違う。
この皮肉の言い方は、ちゃんと真琴だ。
「……足袋もはかないと」
俺は続けた。
「事件はどこだ!」
真琴が続ける。
「僕も白い仮面かぶらないと」
「本当にお前なのか……!!」
俺たちはふざけ合った。
お互いに照れを隠すように。
俺は足袋、真琴は履きやすい柔らかい下駄を履いて団地を出た。
下で浜田さんに会ったが会釈されただけで、何も言われなかった。
「気が付いてないね」
真琴は小さな声で言って、くくく……と笑う。
その仕草は小さな子供がイタズラをするように、優しくてズルい。
小学校を抜けて川沿いに出る。
途中、何人かお母さんのお弟子さんにも会ったが、誰も俺たちに気が付かない。
むしろお触り禁止な雰囲気だ。
きっと俺の金○一コスプレが効いている。
「なんか楽しくなってきたーー!」
真琴は嬉しそうにクルリを回った。
袖が風を纏って空間を踊る。
「着物って、温かいね」
真琴は川の風を受けて、気持ちよさそうに言った。
でも頬は少し蒸気して、赤くなっている。
またそれが色っぽく見えるから……困る。
俺は帽子を少し深くかぶった。
なんて役に立つんだ、チューリップハット。
「この川?」
真琴が指さす。
「そう、あそこから下りて……よく遊んだよ」
「へえ。僕もやりたかった」
「真琴に初めて会ったのは……小六だったな」
「そうだね、レッスン場以外の一馬は、あんまり知らないや」
真琴は風で乱れる髪の毛を戻しながら言う。
その指先が桜色に塗られていることに気が付く。
俺がよく知っている景色に、真琴という女の子が立っている景色に、俺は苦笑してしまう。
なんか、俺が知らない、もう一つの世界にきてしまったようだ。
「どうしたの?」
それでも微笑む真琴の瞳は夕日に照らされて美しくて。
「……真琴だけど、真琴じゃ無くて、でも真琴で。落ち着かないんだ」
「いや、僕が一番落ち着かないよ。でも、衣装を着て舞台に立ってる感覚に似てる。僕なのに、僕じゃないみたいだ」
「真琴だよ……真琴だと思うし、素直にキレイだと思うよ、その姿」
俺は帽子で少し顔を隠しながら言った。
きっと俺の頬はダラダラと緩んでいる。
そして泣きそうな顔をしている。
どんな表情をしたらいいのか、分からないんだ。
真琴は一歩俺の前に出た。
真っ白なうなじが見える。
風に揺れるウィッグと、簪についている華が舞う。
「もっと嫌悪感があると思った。一馬の前で、女の子の服をきて、市ノ瀬真琴として立つことに」
真琴は背中を向けたまま言う。
白いフェイクファーが、夕日でオレンジ色に染まる。
「でも実際着たら、一馬に見て欲しいって思った。面白いね」
そう言って立ち止まり、振向いた。
「どう? 悪くないでしょ」
その微笑みは、いつもの真琴の挑戦的な表情で、それでも俺が知らない女の子だった。
甘やかされて育てられた少女のようで、でも漆黒の闇に浮かぶ三日月の先っぽのように凜としていて。
「……夢に見そうです」
俺はポツリと風音より小さな声で言った。
「なにそれ!」
真琴は大きな口開けて笑う。
その口紅は赤い淵で笑う薔薇のようで、その棘になら、俺は刺さりたいと心底思う。
「……キレイってことだ」
俺は声を絞り出して言った。
真琴は目を細めて、深紅の唇を開いた。
「ひとつ分かったことがあるんだ」
俺は帽子をズラして、顔を上げた。
真琴は続ける。
「僕が本気だしたら、龍蘭の女の子の中で一番可愛い」
真琴は断言した。
とても偉そうに胸を張って。
俺は思わず吹き出して笑う。
「なんだその自信は!」
「だって現にそうだろう。なのに一馬は……美波さんのが良いのか」
「美波さんなら、告白は、もう断ってる」
「やっぱり告白されたんだ」
「……言ってなかった、け?」
あれ、話して無かったっけ……誕生日プレゼントのくだりを思い出すが……なんかゴタゴタしてて……話して無いかも知れない。
「聞いてないなあ」
真琴が分かりやすく唇を尖らせる。
「いや、だって、言いにくくて。それに、ちゃんと断ってる」
俺は真っ直ぐに真琴をみて言った。
「断ってるよ」
「…………別にどうでもいいけど」
真琴はそう言って目をそらした。
その態度が、どっからどう見ても嘘で、俺は真琴を、どうしようもなく可愛いと思う。
川側に反らした顔に、水面が反射して光っている。
真琴はふうと小さくため息をついて、そらした目を戻す。
もう一度俺を見る。
「……嘘だ、どうでも良く無い。どうやら僕は、一馬の女の子ランキングで一番で居たいようだ」
ランキング……?
「なんだよそれ」
俺は小さく吹き出す。
でも、これは真琴の必死の言葉だと、理解する。
真琴が俺に一歩近づいてくる。
「正直、一馬と付き合うとか、そんなのは考えられない。でもこの場所は譲りたくない。我が儘?」
本当に自分が言って居ることが我が儘だと一ミリも思ってない自慢げな表情で真琴は言った。
「いいよ、全然、いい」
俺は頷く。
何度も何度も、頷いた。
そんなの、ずっと前から決まり切っている。
ふと、指先に温度を感じる。
見ると、真琴が俺の手を握っていた。
その指先は、朝一番で触れた風のように湿っていて、口の中に氷を入れたように冷たく、洗う前の布のように柔らかかった。
俺も、真琴の指を握る。
真琴が静かに握り返す。
真琴の桜色の指先が、さっき俺が杵を握りすぎて出来たタコを薄い爪でなぞる。
その動きに心臓が野獣のように動き出し、真琴の手を少し強く握った。
真琴の指が、俺の掌を包む。
俺たちは川沿いを、神社に向かって歩き出した。
静かに、ゆっくりと。
でも川の風に押されながら、確実に歩き出した。




