《傘・小説・アイロン》
ザーザー…ぼつん、ぽつん。
ぽつ、ぽつ、ぽつ……
ザーザーザー…
部屋の中から、雨の音を聞く。
アパートのガラス窓に当たり、心地の良いリズムを奏でる。
そんな雨の日が、私は好きだ。
でも、窓の外を歩いている人たちは、どこか憂鬱そうだ。きっと、雨が嫌いなのだろう。
「あーあ、今日も雨ね。洗濯物、乾かないじゃない」
お母さんが、嫌そうにつぶやいた。続けて、お母さんは
「今日もアイロン掛け、お願いね」
と、私に言う。
「うん、わかった。いってらっしゃい」
いつもと同じように、お母さんを玄関まで見送る。そして、自分の部屋に戻り、お母さんから頼まれたアイロン掛けをする。
毎日、毎日、同じ事の繰り返し。
少し退屈だけど、それが日常なんだ。
この年にもなって、 外に出るのが怖い。だから、外に出るのは極々稀である。
アイロン掛けをしながら、外を眺めている。すると、ちょうど向かい方の本屋さんの屋根の下に、誰かが立っているのが見えた。
だれだろう?
背が高くて、同い年ぐらいの男子だ。髪の毛は短くて、少し癖のある感じだった。
雨が降る中、屋根下で本を読み続けている。時折、空を見て、嫌そうな顔をして溜息をつく。
その姿を見て、私は気づいた。
あの人、傘がないんだって…
きっと、買ってきたばかりの小説を読みながら、雨が止むのを待っているんだ。
部屋においてあるテレビから、
「○○市は、今日1日、雨が降る予報です。段々と激しくなるため、注意してください」
と、アナウンサーの声が聞こえた。
……雨は止まない。
もう一度、視線を外に移す。その人の制服の肩の部分は雨で濡れていえ、寒さのせいか咳き込んでいた。
風邪をひいちゃう…。でも…
アイロン掛けしたばかりのタオルをぎゅっと握る。
外には出たくない…
絶対にいや…
でも、このままじゃ…
外の世界で起きたたくさんの嫌なことが蘇り、気持ちが揺らぐ。頭の中がぐるぐるして、一向に決断を下せない。
でもでもでも…
きっと雨は止まない、あの人は風邪を引いてしまう。
私には、なんとなくだけど、その人には見覚えがあった。見覚えがあったからかは分からないけれど、他人だから関係ない、と決めつけることが出来なかった。
゛行こう!゛
そう決心したときには、もうアパートから駆け出していた。
外に出ると雨は滝のごとく降り出し、地面のアスファルトには水溜まりがいくつもあった。
私は傘を差して、左手に折りたたみを持って、ゆっくりと歩き始めた。
あの人の元へは、たったの5メートルぐらいなのに、自分には遙か遠くに感じられた。
パーカーのフードを深くかぶり、目立たないようにして歩く。
目の前にはたくさんの人、人、人…
立ちすくんでしまいそうな程、怖かった。
でも、あの人に傘を届けようという気持ちだけが、私を前に進ませていた。
あと、3メートル、2メートル…。もう、ちょっとだ。
気がついたときには、真ん前にその人がいて、私のことをきょとんとした顔で見ていた。
「あ、あの…傘…どうぞっ」
反応がない…
フードからチラッと見たが、その人の顔は何故か驚いて、私を凝視していた。目線を離してくれない。
そのことに、更に自分は焦ってしまい、慌てた。
私は折りたたみ傘を押し付け、そのまま背中を向け走ってしまった。
「…待って!」
と、その人の声が聞こえたけれど、私は気がつかないフリをして走り続けようとした。
しかし、後ろからギュッと腕を捕まれる。
その瞬間、後ろに力が入り、濡れた地面で足を滑らせてしまった。
「……うわっ!?」
そのまま後ろに倒れそうになる。
だめだっ、転ぶ!!
体に力が入る。転ぶのを覚悟して、身構えていた。しかし、思っていた痛さは感じない。
気がつくと、何かが自分を支えてくれた。暖かくて、思わず安心してしまうような温もりに包まれる。
「…あ、あの、大丈夫ですか?」
「だだだだ大丈夫です…。ご、ごめんなさいっ!」
それだけ言うと自分は、
「あ、ありがとうございます」
と、だけ言ってすぐさま体勢を整えた。
「ううん、こちらこそ。ありがとう」
その人は、優しく微笑んだ。
その人の澄んだ目と声に、耐えきれなく、自分は顔を下に向けた。
「あの…か、風邪を引かないようにしてくださいね」
「うん、わかった。ありがと」
他人からこんなに笑顔でお礼を言われたのなんて、いつぶりだろう。
そして、傘を持ち直し、その場から離れた…
アパートの部屋に戻ると、気持ちを押し沈めるように自分の胸を抑えた。
段々と恐怖感が湧き上がる。呼吸も苦しい。けれど、外の世界に出れたことが何よりも嬉しかった…
そして、あの人に出会えたことが、どんなことよりも幸せに感じられた。
その日から、私は雨の日になると窓から外を眺めるようになった。
アイロン掛けを済ませると、毎日のように本屋の屋根下を見ていた。
゛今日はいないのかな?゛
゛また、傘を忘れたりしないのかな?゛
なんていう意味の分からない期待をして、雨の日になる度、思い出してしまう。
そんな自分がなんだか少しだけ恥ずかしくて、でも、嫌いじゃなかった。
゛また、会いたいな…゛
そんな想いが届いたのか、視界にあの人の姿が写った。
困り顔のあなたが、また、小説を片手に空を見上げる。
でも、同時に少しだけ嬉しそうに見えたのは、私の気のせいだろう。
゛また、傘を忘れたんだ゛
そのとたん、急に頬がゆるみ、胸の奥があたたかくなった。
あの日のように、折りたたみ傘を片手に大きな青い傘を差し、アパートから駆け出す。
雨の心地よいリズムを聞きながら、私はあの人に傘を届けるのだ。
あなたと出会えたことが、私の生きる希望になった。
きっと、
雨の日に雨音を聞き、
あなたを思う度、
あなたに恋をするんだ。