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毒入煎茶 -事件編

 ――変な夢を見ていた気がする。

 六畳一間のアパートに橙の夕陽が射している。少し開いた窓から、なまぬるい四月の風が吹き込んでくる。大学用の鞄を枕代わりにして寝ころんでいた速見は、床から体を起こした。はためくカーテンに気を引かれて顔を上げると、ちょうど窓の外を行く雀の影があった。雀たちの影の遙か向こうの空に、白い飛行機雲が見える。どこからか嗄れた声で鳴くカラスの声。この星のどこにでもある、よく晴れた日の夕暮れ。

 なんで寝ていたんだっけ?

 軽く伸びをすると関節がきしむ音が聞こえてくる。腕時計に目をやると、まだ大学から帰って一時間と経っていない。玄関を目で確かめてみると、左右バラバラに脱いだスニーカーが見えた。どうやら、帰宅するなり部屋に鞄を放り出して、すぐに寝てしまったらしい。ひとたび眠気を覚えれば前後の記憶もあやふやになり寝入ってしまうというのは、速見の悪い癖だ。ひとつかぶりを振って、玄関から部屋の隅に鎮座している透明な水槽に目を移す。水槽の中では、ザリガニが退屈そうに、薄く敷いた砂利に腹を伏せつつ、触角をゆらゆらとさせていた。じっと見つめていると、速見に気づいたのか、ザリガニはハサミさみごと頭の向きを変えた。

「なんか用?」

「いや、べつに」

 言葉の通り、ザリガニに注意を向けたことは、深い意味があってのことではない。ただ、この部屋の中で動いているものは、速見と、時計の文字盤と、このザリガニだけで、なんとなく消去法的に目をやってしまったというだけだ。速見の用はそれだけだったが、ザリガニのほうはよほど暇を持て余していたのか、ハサミをカニカニ開閉しながら、なおも話を続けてくる。

「なあウォーター・ロウ。やっぱりあんた、昨日のこと、後悔してるんじゃないの?」

 昨日のことは、もう聞きたくない。速見はザリガニに一瞥をくれて台所に立った。位置的に、ザリガニと水槽が見えなくなる。

「あっオイ無視すんなよ!」

 抗議の声とともにばしゃばしゃと水音が聞こえてくる。速見はコンロの上に乗せっぱなしだったヤカンを取り上げて、蛇口をひねった。勢いよく流れ出る水が雑音を遠くに押しやっていく。きゅ、と水を止める頃には、ザリガニの立てる水音は止んでいるようだった。代わりに、テテテチ、とフローリングの廊下を進む小さな足音がある。コンロに火を点けて、速見は足下を見た。やはり、水槽から抜け出したザリガニがそこにいた。

「床が濡れるだろ」

「悪いのはおれじゃないよ。こんな入れ物しか寄越さなかったやつが悪い。一日のほとんどを水浸しにしてなきゃ壊れるって、なんだよそりゃ」

「ザリガニはそういう生き物なんだ。本当は、跳ねたりもしない」

 暗に水槽から跳びだしてきたことを揶揄すると、ザリガニは、けっ、と毒づいた。不機嫌そうに触角を揺らしているそいつをもう一度水槽に戻そうと、赤い甲殻に手を伸ばした、そのとき。

 ――ぴんぽろりーん。

 聞こえてきた音に、速見は反射的に息をのんだ。本格的なそれでなく、番組内のつなぎとして使われるようなクイズの一コーナーで鳴らされる正解時の効果音より安っぽい、しかも人間の喉によって発声されている、救いようのない間抜けな音だ。速見は顔をしかめることも眉間にしわを寄せることもできなかった。彫像のように、たっぷり数秒の間固まっていると、速見の時を動かそうとでもいうのか、途端に玄関先が急かすようにうるさくなる。ぴんぽろりん。ぴんぽろりん。ぴんぽんぴんぽんぴんぽろりぴんぽろりぴぽぴぽぴぽん。極めつけに、連打の音まで真似をする……こんなことをするやつは、速見の知っている顔で一人しかいない。

 だが、なぜ?

「あの女、なんでまだここに来るんだ?」

 内心の困惑をそのまま代弁したザリガニをわしづかみにして、速見はもう一度赤い甲殻をあるべき場所である水槽に押し込みんだ。黙ってろ、と目線で告げて、コンロの火を消して恐るおそる玄関に向かう。チェーンをかけていることを確認して、内鍵を開けて、そういえばチェーンは意味がなかったのだと思い出し、わざわざ不気味さを増幅させるようなことをする必要はないかと、諦め気味にチェーンを外す。ドアを薄く開く。

「こんにちは!」

 はたして外には、なぜか喜色満面の隣人依川が立っている。

 二月の寒い日に一度、それよりは暖かかった三月にもう一度。チャイムの声真似での呼び出しは、これで三度目だ。隣人は、在京球団の野球帽をかぶり、パーカーのポケットに手を突っ込んで、濃い色のジーパンを穿いて、細い足首をスニーカーの中にきゅっとおさめている。速見が目線を上に戻すと、隣人依川はにやにや笑いを引っ込めて、少しだけ緊張したような表情を見せていた。

「あのう、ちょっと、お尋ねしたいことがありまして……少しお時間いただけますか?」

 隣人依川が若干固い声で告げてきた内容に、速見はごくわずかの希望を抱いてしまった。そういえば、二月に初めて顔を合わせたときの態度に似ている、と思ったのだ。まるで初対面の二人のような距離感は、速見を早合点させるのに十分だった。

「すみませんが、ぼくは今忙しいので、失礼します」

 覚えた安堵をそのまま表情にのぼらせて、速見がドアを閉めようとしたとき、依川の顔に悪辣な表情が浮かんだ。悪辣な、というのは速見の主観によってであり、もしかしたらどんぐりまなこを輝かせて口の端を上げてみせるのは、余人の目にはかわいい笑顔と映ったかもしれなかった。

「こっちが下手に出たら、そうゆう態度になるわけですね。なんで逃げるんですか? 昨日の祝賀会の話ですよお、速見さん」

 夕陽が隣人依川の笑顔を不気味にいろどっている。速見は戦慄した。やはり、この隣人は昨日の出来事を覚えている。そして、速見を責めにきた。

「……祝賀会って?」

 とりあえずとぼけてみる。

「隣に住んでいるケナゲな元・浪人生が大学に合格できて良かったね祝賀会のことですよ。そもそも、やろうって言いだしたのは速見さんじゃないですか」

「そんなことは言ってません」

「あれ、花の大学生デビュー頑張ってね壮行会、のほうでしたっけ」

「言ってません」

 真剣に首をかしげている様子の依川を後目に、速見は目の前の隣人を丸めこんでごまかす方法を探っていた。こんな小手先のやりとりで、追及をかわせるだろうか?……いや、結果は分かっている。隣人依川が覚えていてはならないことを覚えていた時点で、速見の負けは確定している。何らかの間違いがあって、速見は昨日失態を犯してしまったのだ。それも、どうやら致命的な。

「言ってなくても、ナントカ会はやったんですよ。そのときのことで、ちょっと質問があるというわけです」

 また、迷惑な訪問にセットでついてくる恒例の質問とやらがくるらしい。速見はドアを抑えていた手を離して、眉間にやった。ここをごしごしやっていると、少しだけ疲労感が薄れるような気がしてくるのだから、人の体は不思議だ。目に痛い夕陽を視界から追い出して眉間を揉んでいると、反論する気力が、ほんのわずか、戻ってくる。手をもう一度ドアにかけて、いつでも閉められるように準備をしたあと、速見は目を開けた。

「きみの質問にいちいち答えなきゃならない義務はないです。さっきも言いましたが、ぼくは忙しい。帰ってくれますか」

 愛想笑いを浮かべてドアを勢いよく閉めた瞬間、がごっ、と異音が足元から聞こえてくる。目線を下に落としたところで、依川がひょいと突き出した爪先がドアと玄関の隙間に割り込んでいるのを速見は見てしまった。なんだこれ。

「おっとお、今日のスニーカーは可憐な女子大学生に必須の護身アイテム、安全靴なのでしたー。爪先の鉄板は裏切らない! これは依川選手ファインプレイ!」

 なんだそれ。

 速見が唖然としている間も、隣人依川の口上は止まらない。

「べつに、速見さんがお家に入れてくれなくったって、わたしは構いませんよ。この話を外で聞きたいというなら、そうするだけですからね」

 ふうと依川がため息をついた。やれやれと言わんばかりの顔つきは、まるで、速見が聞きわけのない子どもであるとでも言いたげだ。かと思えば、突如としてその場で反転し、依川は背中を見せた。夕陽に暮れなずむ閑静な住宅街を、安アパートの二階の廊下から睥睨しつつ、隣人は右の拳をグーに固めて天に突き上げた。

「おい」

 嫌な予感を覚えて速見が止めにかかったときには、既に依川の喉元まで用意されていた言葉は上がってきていたに違いない。速見の控え目な制止に抑止力などなかった。

「説明しよう! 花も匂い立つたおやか十九歳、一人暮らしの新大学生・依川恵子は昨晩薬を盛られて、」

 不穏すぎる単語を容赦なく口にした隣人依川は、やはり引き寄せる才能を持っている。アパート階下を通りすがりの主婦が口をぽかんと開けてこちらを見ていることに気がつき、速見は反射的に依川を部屋に連れ込んでしまっていた。

 一瞬だけ、主婦の浮かべた表情が呆れ顔に見えたような気がした。

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