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隣人幻想 -依川恵子の事件にならない話

 依川恵子の朝はそれほど早くない。

 というより、典型的な尾名中大学の一回生の朝が早くない。午前に九十分の授業が二コマ、午後に三コマでシラバスが組まれている尾名中大学だが、一限目と五限目に必修科目がほとんど入っていないので、余程受けたい講義でもなければ、たいていの学生は朝と夕方の講義を避ける。そのために磨いた智謀ではないはずだが、あるものは使うのが世の摂理。惰眠をむさぼりアルバイトに明け暮れるため、大学生は知恵を絞ってスケジュールを組むのだ……等々の事前知識を、恵子よりも一年先んじて大学生となっていた高校の友人たちからさんざん浪人時代に聞かされていたので、恵子自身もその例に倣って怠惰な大学生らしい単位ギリギリの時間割を組んでいた。あの頃は嫉妬に歯噛みしては枕を濡らし、唯一夢の中で薔薇色の大学生活に思いを馳せていたものだったが、今年の四月からは恵子も晴れて大学生なのだ。やったあ。

「恵子、朝だよー、恵子、朝だよー」

 そういうわけで恵子の朝は八時に起床するところから始まる。電子ノイズがかった母親の声を目覚ましのアラームに設定しているのは、親元を離れて暮らす郷愁の念からではなく、単純にこの声を聞くと身体がすっきりと起きられるように十九年間育てられてきたからだ。……十九年は言いすぎかな。正確には、朝も夜もなくぎゃんぎゃん泣いていた小児期をのぞいたほぼ十九年間だ。

「はい、はい」

 寝起きの声でむにゃむにゃ言いながら、布団から手を伸ばして目覚まし時計のスヌーズボタンをぶっ叩いたら、一日の始まりだ。

 午前八時十五分。

 恵子は可燃ごみの袋を一つ持って安アパートの部屋を出る。この地域のごみ収集は午前八時半と決まっているので、だいたい恵子はこの時間にごみ出しをすることにしている。アパート階下の共同玄関を出て、道路の向かい側にあるごみステーションにごみ袋を入れる。近所の野良猫が滑りこんでくる前にネットをかけて重しを乗せる。サンダルにつっかけていた裸足の指が四月の朝の寒さにこごえてきたので、少し駆け足ぎみに階段を駆け上がって自分の部屋へと戻る、つもりが、階段の途中で見知った顔とすれ違う。

「あっ、お、おはようございます!」

「……おはようございます」

 狭い階段上でめいっぱい隅に体を寄せて、階段を降りてきた隣人さんに朝の挨拶をする。今日の隣人さんは黒いスーツを着ている。ネクタイもばっちり締めていて、いつも見かけるときみたいな大学生然とした格好ではない。見慣れない姿だけれど、似あっている。こういうところはきちんとした大人の男性に見えるなあ、とか考えていたところで、恵子は自分の寝起きのままのぼさぼさ頭が気になりはじめた。近所にごみを捨てるだけだから、起きぬけのまま髪はとかしてないし服はジャージだし足は裸足でサンダルだ。顔はかろうじて洗っていて、それはまあ良かった。でも……。

 恵子はなんとなく髪の毛を直す必要にかられてしまった。だが、困ったことに、そのタイミングがちょうど隣人さんが恵子の横をすれ違うタイミングにどんぴしゃだった。手を上げようとした恵子の肘が、通り過ぎる隣人さんのわき腹にうまいことめり込んでしまったのだ。

「あっ。すみません、すみませんっ」

 普段から恵子はこの隣人さんのことを整った顔立ちをしているなあ、などと秘かに思っていたのだが、そのちょっと硬めの容貌が痛みにしかめられたのを見て、とっても焦ってしまった。そういうことをするのが仕事ですよとプログラムされた機械みたいに、恵子はひたすらぺこぺこ頭を下げた。いや、そんな機械、あったとしても誰もいらないと思うけど。

「ごめんなさいごめんなさい!」

「いや、大丈夫ですから。そんなに謝らなくても」

 恵子ががばっと顔を上げると、隣人さんは既に普段の顔に戻っていた。恵子のエルボーなんて始めからなかったみたいな、整備された後のグラウンドのような整えられた表情だ。恵子はちょっと心配になった。大丈夫なフリをしているだけなのかもしれないと思ったのだ。

「あのう……本当に大丈夫ですか? 感触的には結構なクリーンヒットだったような」

「気にしなくてもいいですよ。心配ありがとう。それじゃあ」

 最後には見る人を安心させるような笑顔まで浮かべて、隣人さんはさっそうと階段を降りて行った。うっかりすると、残像みたいにまぶたに焼きつきそうな表情だった。笑顔が素敵だなあ、朝だし急いでいたのかなあ、スーツだし何か面接とかだったのかなあ、わたしったらものすごく邪魔しちゃった感じだなあ。

 午前八時二十二分。

 しばらく遭遇の余韻をぼんやりを堪能してから、恵子は階段を登りはじめた。

 隣に住んでいるその人のことを、恵子はあまり知らない。浪人時代は部屋と予備校の往復で、帰宅時間は遅かったし、休日もこもりきりの日々が続いていたから、実はまともに挨拶したりちょっと話をしたりができるようになったのも、ここ最近の話なのだ。

 恵子が浪人生活を始めるにあたってこの安アパートに越してきたとき、実家の母親の入れ知恵で引越し蕎麦なるものを住人各位に配ったときは、その人はたしか不在にしていたはずだ。仕方がないので挨拶の手紙ごと蕎麦を袋に入れてドアノブにかけておいたら、翌日の朝にはなくなっていた。ほっとした。

 たぶん、大学生なんだろうな。まだ入学したてでよく分からないけど、構内で見たことはないなあ。尾名中大学の人じゃないかもしれない。スーツ姿が就職活動の最中っていうことなら、今年四回生になったのかな……。

 冷えた手をジャージのポケットに突っ込んで、鍵を取り出す。

「あ」

 かじかんでいた指がうっかり鍵を取り落とす。廊下に跳ねた鍵は、隣の部屋の扉の前まで飛んでいってしまった。それをもたもた追いかけて、かがんで、拾い上げて、立ち上がろうとして恵子はドアノブに後頭部をぶつけた。

 ごぬっ。

 けっこう、すごい音がした。恵子は思わずその場で転がりまわった。それはあつあつのアスファルトに乗っけられた芋虫のような動きだったかもしれない。

「ううっ、もしやこれは因果応報、神さまがわたしに与えた罰なのでしょうか……」

 痛みが引いたころ、恵子はうずくまったまま涙目でつぶやいた。ジーザス。素敵な隣人さんに肘鉄をぶちこんだ報いは、存外早くにやってきたのだ。

 そのとき、目の前のドアが薄く開いた。恵子は慌てて立ち上がり、迫ってくる扉をなんとか避けた。危ないところだった。

「朝から人の家の前で何をやっているんですか」

 半分開けたドアから顔を出して恵子を見下ろしているのは、もう一人の隣人さん、こと速見ナントカさんだ。下の名前は知らない。実は「速見」さんも「速水」さんなのかもしれない。表札がカタカナの殴り書きで「ハヤミ」としか書かれていないので、よく分からないのだ。

 こちらの隣人さんは、あちらの隣人さんと違って、びっくりするくらい特徴のない、どこにでもいそうを通り越して逆にどこにもいなさそうな顔をしている。恵子はふと二月の寒い日のことを思い出した。

 ……もし、将来、この人が犯罪を本当に起こして、すたこらサッサととんずらしても、身体的な特徴からモンタージュを作るのは難しそうだから、ひょっとしたら今のうちに写真かなにかを撮っておいたほうがいいんじゃないかなあ……。

 恵子はひそかに、機会を見て速見さんに写真撮影をお願いしてみようと決めた。地域社会の安全のために、一肌脱ぐのだ。今度こそは、お手柄大学生、ってことで。

「おはようございます、速見さん。いやあ、ごみ捨てに外へ出ていたんですけど、ちょっと鍵を落としちゃって。それで、拾ったひょうしにドアノブに頭をぶつけてしまって。うるさかったですよね。お休み中でしたら、ごめんなさい」

 あからさまに不信感まるだしで恵子を見下ろしていたもう一人の隣人さんは、話の途中で、もういいよ、みたいな表情になって、そしてやっぱりそう言った。

「ああ、はい。分かりました。お大事に」

 バタンとドアが閉まる。すぐにチェーンをかける音が続いて、最後に内鍵ががちゃんと下りる。まるできれいな様式美のような閉め出し。後頭部の痛みも忘れて、恵子はちょっと笑ってしまった。

 午前八時二十四分。

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