密室蜊蛄 -解決編
わずかに開いたカーテンの隙間から射した明るい光が、速見とザリガニを弾劾する依川の頬に落ちかかり、深い陰影を作り出していた。速見はまた壁時計を見ていた。三時五十分。まだ外は明るく、干しっぱなしの布団に対して焦りを覚える時間帯ではない。かといって、隣人の世迷言に付き合うほど暇を持て余してるわけではない。速見だって、今日の夜ご飯のことをそろそろ考えたいし、冬期休暇に入っているとはいえ、月曜日には大学の研究室に顔を出して先週の進捗を報告しなければならない。資料を用意しなければならないのだ。速見は立ち上がった。
「帰ってください。妄想もたいがいにしてくれませんか」
「ええっ!」
愕然! といった顔をしている依川を無視して、速見は玄関のドアを開けて退出の用意を整えた。隣人はまだザリガニと速見を交互に見てなにやら言葉を続けている。
「でもでも、ザリガニは無脊椎動物では初めて脳の神経細胞が運動準備電位とかいう信号を出してることが確認された高度なあれでそれで……」
なおもあきらめ悪く言いつのる隣人に、努めて冷めた声で告げる。
「ザリガニの頭が良くったって、どうやって床からテーブルに登ったっていうんだ? 排水溝から流し台を越えるのだって無理だろ」
「あれっ、怖いほうの速見さんになってる」
なぜか少し楽しそうな隣人依川を、速見は睨みつけた。言葉だけは丁寧にするように気をつける。
「反論がないなら、帰ってください」
「もちろんありますよ! じゃあ、どうしてわたしのきんつばはなくなっちゃったんですか? あと、床が濡れてた理由もわかんないです!」
またこれか、と速見はうなだれた。どうしてこの隣人は、速見に答える義務を負わせようとするのだろう。
ほんのわずかの間、速見は逡巡したが、結局はちょいちょい、と手招きのしぐさをしてしまった。隣人は存外素直に玄関までやってきた。……謎の答えを聞けると期待している顔つきで。
「実は、言っていなかったことがある。正確な時間は覚えてないけど、ちょうどお昼くらいに、きみの家に人が来ているみたいだった」
午睡の前だから、十二時くらいだったはずだ。思い出しながら言うと、依川は露骨に顔をしかめた。
「ははーん。ここで情報の後出しですかあ?」
反射的に手の届く位置にあった隣人の頭をはたきたくなったが、速見はこらえた。素敵なことを考えて、目の前の不愉快から気を逸らすのだ。たとえば、太陽の光を浴びてぽかぽかにあたたまっているであろう布団のこととか。
「チャイムを鳴らして、反応が無いとわかったら、普通に鍵を開けて中に入っていったみたいだった。きみ、誰かに合鍵を渡してるんじゃないのか。家族とか、恋人とか。その人が勝手にきんつばを食べていった可能性は? 床の水は、きんつばを食べる前に手を洗ったのかもしれない。……台所に手拭きタオルは備えてる?」
家族とか、と言ったときに隣人依川の目が面白いくらいに大きくなった。心当たりがあるのかもしれない。
「えっと、でもあの、排水溝の蓋がひっくり返ってたのは……?」
「でかいゴキブリが這い出てきたんじゃないの」
「ぎゃっ! やめてくださいよ!」
依川はその場でぴょんと飛び上がりどすんと着地すると、両腕を抱えてぶるぶる震えて――ふと思い出したかのように、あわただしい手つきでパーカーのポケットから携帯電話を取り出した。黒い、地味な折りたたみ式の携帯電話だ。
「もしもし。おかーさん? 恵子だけど。あのう、もしかして今日うちに来たりした?……」とやりはじめた隣人をドアの外に押し出して、速見は素早くドアをしめた。チェーンをかけて、鍵を施錠すると、ようやく肩の力が抜けた。誤解が解けたかどうかの確認は、たぶんもう要らない。仲間内でも良い方だと言われている速見の耳は、昼ぐらいに隣人の部屋を訪れた人物が、どことなく依川に似た声紋で、「恵子ったらどこほっつき歩いてるんだか」と独り言をこぼしたことを聞き取っていたからだ。
だが、問題は残っている……。
速見は部屋の水槽に大股で近づくと、ザリガニをわしづかみにして目の高さまで持ち上げた。暴れるザリガニは、速見が手に力を入れると、途端におとなしくなった。
「ガニお。おまえ、なに普通に怪しまれるような真似してやがる」
「悪かった。ごめん、ごめん。でも仕事はきっちりこなしたぜ。いろいろ仕込んできたし、探りも入れた」
ザリガニは触角とはさみを下げて、人間のする謝罪のポーズをとっている。速見はためらいなく甲殻を握る手に力を込めた。
「やめてくれ! おれは謝っただろ、ウォーター・ロウ!」
「排水溝の蓋を戻し忘れたな。たまたま来客があったからごまかせたが、あれがなかったらどれだけ面倒なことになっていたと……」
「このカラダ、動かしにくいんだよね」
弁解の余地のないミスをしたというのに呑気なことを言ってのけるザリガニに、速見は手に力を込めることで答えた。ザリガニがはさみを振りたててキイキイと鳴く。速見はザリガニを掴み上げて冷凍庫に向かった。戸を開けて、中に押し込もうとすると、今までで一番の抵抗を見せてザリガニが暴れはじめる。
「おい、おい、何する気だよ!」
「ガニおじゃ俺のサポートは無理だ。代わってもらうようにあいつに頼む」
ひんやり冷えた冷凍庫の空気が鼻先に届く。じたばたもがくザリガニを奥に押し込もうとしていると、冷凍ご飯の横で動くものが目にとまった。金属の球体の隣にいたそいつは、まばたきを繰り返して表面の霜を落とすと、水色の一つ目を速見に向けてくる。
『待ちなよ。ガニおも反省しているみたいじゃないか』
「そうそう! 反省してるぜ、おれ!」
冷凍庫の住人は一つ目をぎょろつかせてザリガニを見た。水色の視線の先では、ザリガニが動きの悪そうな関節をおして、せいいっぱい頭を上下に振っている。速見がとても優しい気持ちのときならば、ひょっとしたらその姿を見て健気と感じたかもしれないが、いまは白々しいとしか思えない。
「次はこんなヘマしねえよ。な? それに、いきなりおれがいなくなったら、隣に住んでるあの女がまた怪しむぜ。ペットのザリガニを食べたとか言ってよお。な、困るだろ? だから、早まるな!」
ザリガニの語る反省という言葉よりも、冷凍庫の住人のとりなしよりも、隣人が行方不明になったザリガニについて嗅ぎまわるかもしれないという示唆が、速見の決断をおおいに鈍らせた。もちろん、たとえザリガニを任務不適合で送り返したとしても、依川を部屋に上げなければいいのだ。知らなければ、いなくなってしまったザリガニのことには気づかないだろう。
問題は速見があれを拒めるかどうかだ。
異様に押しの強い隣人を思い浮かべて、速見はかぶりをふった。結論は既に出ている。とすると、速見はもうしばらくの間は部屋の隅の水槽を片付けられないのだ。
「……わかったよ」
ザリガニを床に下ろす。速見は冷凍庫の奥から銀色の球体を取り出して手に乗せた。息を吹きかけて通信機能を起動させる。金属球の表面で明滅を始めた青い光の向こう側では、ザリガニが元気よく飛び跳ねて、自らの水槽の中に戻っていく姿があった。