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密室蜊蛄 -推理編

「花もほころぶ十九歳、大学合格決まって良かったねおめでとう・依川恵子は、ついさっき、恐ろしい事件に遭遇したのです……て、あれれ、おこたつは撤去しちゃったんですね。最近はずいぶん暖かくなりましたからねえ。桜のつぼみも膨らんできましたよねえ。お花見シーズン到来、ってなもんです」

 いくらなんでも、という速度で本題が横道に突っ込んでいくが、速見は隣人にハンドルを持たせたままにしておいた。下手に操縦を代わろうとするのは事故のもとだ。

 依川は布団の消えたテーブルに無遠慮に陣取っている。以前のようにテレビを点けることはなく、天板に肘をついて、足を伸ばして、好きにくつろいでいるようだった。台所でヤカンを火にかけている速見を横目で見て、にこにこして手なんかをふったりしている。まるで、六畳一間の主にでもなったかのようなふるまい。

 どういうつもりなのか?

 ……おそらく、何も考えていない。

 速見はヤカンの口から白い湯気が上がる様子を見て、心を落ち着けることにした。

 コンロの周囲で熱せられた空気が揺らめく。

 シュンシュンと音が聞こえてくる。

 もうすぐ沸騰する、というところで火を止めて、二つ並べた湯呑に、推定九〇度のお湯を注ぐ。湯呑から急須に二杯分のお湯を移して、今日選んだ銘柄の香りにひとりうっとりする。南九州の山間で個人農家が作っているという茶葉で、一つの茶葉を何通りもの飲みかたで楽しめるというふれこみだった。普通にお湯で淹れてもいいし、水出しでもいいし、ぬるま湯でほぐした茶葉をそのまま食すことだってできるらしい。冷凍庫の住人の話をそのまま鵜呑みにするならば、奥ゆかしい甘みが舌先に広がるのだとか。速見はまだ試していないので、それがどういう甘さなのか知らない。

 湯呑をテーブルに置くと、隣人依川が手をぱちんと叩いて喜んだ。そういえば、前も茶を淹れてやったときにも何か言っていた気がする。存外、この道に通じているのかもしれない。

「うふふ。速見さんちに来ると、おいしいお茶が期待できるんですよね」

 依川はさも遊びに来る常連の友人めいたことを口走っているが、速見はこの隣人と友情を築いた記憶はないし、そもそも期待させるほどの実績もない。依川を部屋に入れて、茶をふるまったのは、二月の寒い日のただ一度きりだ。今日で二度目、と考えて、速見は腑に落ちなさを感じた。ただの隣人にしては距離が近すぎやしないか?

「人の家に二度までも勝手に……。ずうずうしいとは思わないんですか」

 思ったときには、そう訊いていた。依川の向かいに腰をおろそうとして――とんでもない女だ、テーブルの反対側に足を出していて、なおかつ速見がいるのに引っ込めようとしない――思い直して正面からややずれた、はす向かいに座る。

 依川は湯呑をふうふう吹いてずずっと啜った。

「そういうガードをしても、無駄ですよ。いま速見さんは圧倒的に不利な立場にあることを自覚するべきですね。それはそれとして、今日のお茶は、粉茶として抹茶を足しているんですか? 味が濃くて、わたし好みです」

 好みなんて訊いてない。……それより。

「不利な立場?」

 徐々に自分が苛立っていることを速見は自覚していた。頼むから、と思う。頼むから、さっさと用事を済ませて、さっさと帰って欲しい。隣人が余計なものを見つけるか、俺が余計なことをしでかしてしまうか、――その前に。

「実はわたし、浪人生活をしている間、いろいろなものを我慢して節制に努めていたんですが、三時のおやつタイムだけは例外でしてねえ。お茶とお茶菓子、これだけは欠かさずいただいていたのです」

 どうでもいい個人情報をつまびらかにしつつ、隣人依川は湯呑をなめている。速見はぼんやり壁時計を眺めた。午後三時三十二分。そういえば、まだベランダに布団を干したまま回収していない……。

「それで、今日のおやつはきんつばを予定していたのです。くよくよマートで鹿児島物産店が開催されていたと知ったときの喜びったらないですね!」

 それは知らなかった、と速見は投げやりに考えた。くよくよマートというスーパーマーケットは速見も利用している。月に数回の頻度でなんらかのイベント特売をしてくれる、なかなか楽しいチェーン店だ。壁時計から隣人の顔に視線を戻すと、何が面白いのか、依川はへらへら笑っていた。頭痛がしてくる。

「午前中は春からお世話になる尾名中大学の下見に行って、お昼ご飯を大学近くの定食屋で食べて、いい気分で帰路について、途中で寄り道して新生活に備えた買い物なんかもして、ああ四月が楽しみだなあー、なーんて考えていたんですよ」

 隣人依川の与太話の中に、聞き逃せない情報がまぎれていた気がする。尾名中大学? それは、つまり、このアパートからほど近い場所に位置するあの大学のことだろうか。だとすると浪人生活を終えて以後も、この隣人は隣人として速見の部屋の隣に座り続ける可能性が高い。速見は眉間を指で揉んだ。これは試練なのかもしれない。速見が成体になるために、遠い遙かな先祖が万能の目で予見して、未熟な彼によこした試練なのかもしれない。……そんな馬鹿な話があるか?

 速見の疑惑の目などにまるきり気づかぬ様子で、隣人は立て板に水の如くぺらぺらお喋りを続けている。

「部屋に帰ったときには、ちょうど三時のおやつの時分。外出して歩き回った疲れもあったので、さっそくきんつばをお茶と一緒にいただこうと思って、テーブルの上を見たら、置いていたはずのきんつばが失くなっていたんですよ。楽しみにしていた、わたしのきんつば。薩摩きんつば……」

 隣人依川の目がきりりとつり上がり、どんぐりからアーモンドに変化する。そんな目もできたのかと速見はちょっとだけ感心した。

「部屋中をさがしてもきんつばは見つかりませんでした。テーブルの上から移動させた覚えはまったくありません。となると、誰かが私の部屋に勝手に入ってきんつばを盗んでいったとしか考えられません!」

 それは飛躍しすぎじゃないか、と速見は思ったが、依川はそういう疑問にまったく関心がないらしく、熱弁をふるう勢いはちっとも衰えない。

「で、ここからが問題なんですよ。わたしはお出かけのときは家に鍵を必ずかけますし、現に、帰ってきたときにちゃんと鍵を開けて中に入ったんですよ。つまりこれは、恐るべき密室殺人、ならぬ密室きんつば消失事件なのです!」

 隣人は高らかに宣言すると、右手に掴んでいた湯呑の茶を一息に飲み干そうとして、むせた。

「うえっ、げほげほ。慣れないことはするもんじゃあないですね」

 涙目で言い訳めいたことを言ったあと、仕切り直しのようにわざとらしいエヘンとかいう咳払いをして、隣人依川はふたたび厳しい顔つきを作った。

「密室きんつば消失事件を解決するべく、わたしは部屋のありとあらゆる場所を検分しました。盗人の手掛かりを探し続けて約十分。わたしは気づいてしまったのです」

 自分があほだって?

「そう、犯人の手掛かりです。手掛かりは台所にありました。わたしでさえ自分の観察眼の鋭さに戦慄を禁じ得ないほどだったのです、速見さんなんか、これを聞いたらびっくりしちゃってとびあがっちゃうかもしれません。覚悟はいいですか?……なんと、流し台の排水溝の蓋。それが、ひっくり返って外れていたんですよ」

 それがさも一大事なのだと言わんばかりの深刻な顔つきで、依川がおごそかに告げる。

「それが、ぼくと何の関係が?」

 速見が思わず訊いてしまった瞬間、待っていましたと言わんばかりに、鼻息荒く依川が立ち上がる。速見は座ったままフローリングの床を後ずさった。依川は、すっと腕を持ち上げると、指先を、ゆっくりと部屋の隅へと移動させた。指し示した先にあるのは水槽だった。水槽のなかではザリガニが素知らぬ顔で赤いはさみをカニカニしている。

「ところで速見さんは、かつてモルグ街と呼ばれる異国の町で痛ましい猟奇的な殺人事件が起こったことをご存知でしょうか」

 突然飛んできた質問に速見が首を横に振ると、依川は「そこは知っていると答えてもらわないと……」などと言ってため息をついた。

「鍵のかかった密室と、殺害現場から聞こえてきた謎の異国語が、事件解決の鍵を握っていた古典的な事件ですね。蓋を開けたら、犯人はオランウータンで、常人にはまず不可能な侵入経路を使っていたってやつなんですけど……人はそれをフィクションと呼び習わしているかもしれませんが、わたしは作り物の中にも一筋の真実があると信じているのです。――つまり」

 依川の指の先では、ザリガニが触角を揺らしていた。

「密室きんつば消失事件の犯人は、このザリガニなのです。排水溝を通ってわたしの部屋に侵入して、きんつばを食べて、また排水溝を通ってこの部屋に戻ってきた。証拠はひっくり返った排水溝の蓋と、あと、情報の後出しになっちゃうんですけど、台所からテーブルまでの間の床がなんとなーく濡れていたんですよ、あたかも排水溝から出てきた生き物が、そこを這ったかのように」

 言葉を切ると、依川は指先をいきなり速見のほうに向けた。

「で、ここからがわたしのすごいところなんですけど。そういえば、何日か前に、速見さんが近所のホームセンターのシールを貼った水槽を大儀そうに部屋に運び入れている姿を見た覚えがあったなあと思い出して、なおかつ今回の事件と結び付けることができたんですよ! 水槽を買ったってことは、水生生物を飼い始めたってことじゃないですか。排水溝がつながっているのはこのアパートの中だけだろうし、そうすると、きんつば事件の犯人はペットの監督不行き届きの速見さんでしかありえません!」

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