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密室蜊蛄 -事件編

 ――誰かに鼻先をつつかれた気がして、速見はまぶたを開いた。

 薄暗い部屋の中で、またテーブルに頬をつけたまま眠ってしまっていたらしい。上手く回らない頭で、寝入る前のことを思い出そうとする。……そうだ、三月になって気温が上がってきたから、無理やりこたつに似せていたこのテーブルから布団を撤去したのだ。押し入れに仕舞う前に布団をベランダで日干ししようとして、日曜日の午後の日差しが降りそそぐベランダに出て、……そこからのことを良く覚えていないが、どうせいい気分になって眠ってしまったというところだろう。

 カーテンの向こう側は明るい。壁時計の針は三時十五分を指しており、つまり三時間くらい眠っていたことになる。少し欲望に弱すぎやしないか、と速見は自分の身体に内心でけちをつけた。

「痛っ!」

 突然、テーブルについていた肘に鋭い痛みがはしる。反射的にそいつを振り払わなかったのは、ほとんど奇跡だった。速見の肘をチョキンとやったのは、つい先日からこの部屋の住人に加わったザリガニだった。速見の記憶では、彼がうたたねをする前までは、部屋の隅に置いていた水槽の中でおとなしくしていたはずだったが。先に鼻をつんつんしたのも、このザリガニの仕業だろう。

「勝手に出てくるなよ、ガニお。水槽に帰れ」

 寝起きの嗄れた声で蓋の空いた水槽を指して言うが、ザリガニは触角をゆらゆらするばかりで、テーブルの上から動かない。速見が背中の殻をつかもうと手を伸ばしたとき、玄関がぴんぽろりんと間抜けな音を発した。

 速見は反射的に眉をひそめた。その「ぴんぽろりん」が人間の声によって発声されたものだったからだ……というより、つい最近、これと全く同じ音を耳にした記憶があったからだ。速見がザリガニをつかみかけた姿勢で固まっていると、玄関の外にいるはずの誰かは、「はーやみさあーん、いますかあー?」などと名指しの呼ばわりを始めだした。無視しよう、と速見は決めた。ザリガニをつかみ上げて水槽に戻すと、できるだけ物音を立てないように、そろそろとテーブルまで戻る。

「お留守でしょうか?」諦めの悪そうな女の声が聞こえる。

「困りましたねえ」まったくそう思っていなさそうな、適当なぼやきが聞こえる。

 真実怖ろしいのは、と速見は思った。ドアの向こうにいる宇宙人は、部屋の中にいる速見に聞こえるくらいの音量で独り言を垂れ流しているという点だ。ドアを開け放って、迷惑だから帰れと言ってやりたい衝動に駆られるが、一度扉を開けたが最後、以前付き合わされたようなうんざりする茶番に巻き込まれそうな予感がひしひしとする。息をひそめて、速見はわざわいが去るのを待った。

「じゃ、大家さんにお願いして、お部屋を開けてもらいましょう!」

 妙に明るくはきはきとした声が聞こえた瞬間、速見は玄関にダッシュをかけていた。チェーンを外して内鍵を開けて、ドアを開く。ドアを外にいる相手にぶつけない程度の理性はまだ残っていたが、「どちらさまですか」ととぼける声に苦々しいものが混じってしまったのは、仕方ない。

 ドアの隙間から頭を出した格好の速見を迎えたのは、やはりというべきか、隣人の依川だった。あのぶくぶくダウンは着ておらず、安そうなパーカーを羽織っただけの姿だ。前に見たときより一回り身体が小さくなったような錯覚を覚える。目の下の隈は消えている。速見には関わりの無いことだったので流していたが、世間的には合格発表とかいうのが行われて一年間の刻苦勉励の成果が出ている頃合いなのだと、冷凍庫の中身が言っていたような気がする。

「こんにちは! 依川恵子です。速見さん、御在宅じゃないですかあ。次があったら、大家さんを出せばいいんですね。わたしったらひとつ賢くなっちゃいました」

 えへえへ笑っている隣人の傍ら、速見は次こそ無視を通そう、と投げやりな気持ちで決意を固めていた。このアパートの大家は遠く離れた他県に住んでいることは、事前知識で知っていたのだ。にもかかわらず、起きぬけの頭が寝ぼけた判断を下してしまった。

「何か御用ですか」

 隣人がしまりのない顔でにやにや笑いを続けているため、仕方なく速見は先をうながした。なんでもいいから、さっさと要件を済ませて、帰ってほしかった。言われた隣人は、そうでしたそうでした、と言って腕組みして頷きを繰り返す。無意味なポーズだった。

「速見さん、最近、スイセイセイブツを飼いはじめましたね? そのことでちょっと、伺いたいことがあるんですよお」

 語尾を伸ばすな、語尾を。上目遣いでもじもじしているどんぐり眼の女を見下ろしていると、普段はどこにあるかも分からないような苛立ちの感情が、無性にかきたてられるから不思議だった。

「すいせい……何?」

「水の中で生活してる生き物さんのことですよ。つまり、お魚さんとか、そうゆう感じの生き物です」

 水生生物、と反芻したあと、速見はひやりとした。なぜかは知らないが、この奇矯な隣人にザリガニの存在を知られているらしい。

「さあ。知らない」

 とぼけたのは、まずかったかもしれない。遅ればせながら速見は気づいた。表情に嘘の気配は表れなかっただろうという自信はあったはずなのに、知らないと告げた途端に含み笑いを漏らした隣人を見ていると、もとから根拠のなかった自信は、情けなくも砂の城のように崩れ去っていく。

「うふっ。ほーら出た。これ、これですよ。お決まりのおとぼけですよ。この知らんぷりこそが後ろめたさの証左、動かぬ証拠。お天道様を騙せたって、この依川恵子の目は騙せません!」

 隣人依川が、胸を反らせる。

「……話が見えないのですが」

「ふっふっふ。どうやら、説明が必要のようですね。ではご要望におこたえしまして。えー、ごほんごほん」

 わざとらしい咳払いのあと、雄々しいとしか表現のしようがない表情で、依川は天に拳を突き上げた。そのまま、くるりと速見に背を向ける。その背中を速見は知っていた。ごくごく最近、見た覚えがある。嫌な予感、としか形容の出来ない非科学的な直感が、速見の脳裏を走り抜けた。

「説明しよう! 花もほころぶ十九歳、一人暮らしの新大学生・依川恵子は、」

 隣人依川は引き寄せる才能を持っているのかもしれない。アパート階下を通りすがりの主婦が唖然とした顔でこちらを見ていることに気がつき、速見は二度までも依川を部屋に連れ込んでしまっていた。

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