幕間 -ベランダ
冬の晴れた日の夜にベランダに出ることは、速見の習慣になりつつあった。
ベランダの手すりに肘を重ねて、ぼんやり星空を見上げる。寒さに弱い速見だが、このときばかりは多少の無理をしても平気だった。数多の星がまたたく濃紺の空の中から、いつもの手順で航路をたどる。
起点は目印となる一等星から。
方角を定める二等星。
街道のように導く三等星。
道ばたに立つ目印の灌木は四等星。
森に分け入って、秘密の在処を教えてくれる青い鳥は五等星。
埋めた宝物を教えてくれる小さな積石――六等星。あの星の方角に。遙か彼方、見えないくらいの遠く。幾千光年を越えた向こう側に、確かに、在るのだ。俺の太陽がガラガラガラーッ、ピシャッ!
速見はベランダからほとんどよろめくように足を引いた。非常扉の向こうから聞こえてきた思い切りのよい網戸の開閉音が、そうさせた。
いったい誰が、と自問するのもばかばかしい。隣人依川に間違いないのだから。速見が手すりから身を離して息をひそめていると、勢いの良すぎる感のあった網戸の音に比べて幾分か控え目なベランダを閉める音がすぐに聞こえてくる。続いて、スリッパを引っ掛けるような音。足音。んーふーんふふふんふふふんふーふー、んーふーふーんふふんーふーふー。
なんだ、この、変な鼻歌……。
故郷へと馳せる郷愁の念はどこかに行ってしまった。速見は聞こえないように小さくため息を落として、一度見失ってしまった六等星をもう一度探しに向かった。非常扉越しに聞こえてくる鼻歌が歯を磨くわしゃわしゃという音になったときと、洗いたてのシャンプーの匂いがほのかに漂ってきたときに、多少道を外しかけたものの、もう一度小さな光を見つけることに成功する。
固く凍りついた冬の星々は、暖かい季節が巡ってくれば去ってしまうだろう。この惑星の太陽の明かりに隠されて見えなくなってしまう。だから今のうちに見ておくのだ。たとえ、眼に映らないのだとしても。
どれくらいそうしていたのか。非常扉の向こう側から、ひゃむい、ひゃむい、という声と窓の開閉音が聞こえてきて、速見は隣人がベランダから去ったことを知った。
腕時計を確認する。二十二時の少し前。
次から、星の許す限りはこの時間は外に出るまい、と心に決めて、速見もまた部屋の中へと戻った。
ろくでもない一日が終わる寸前、眠る少し前に、一つだけいいことが速見を待っていた。歯を磨いている最中に無意識に自分の口にのぼった言葉から、「ひゃむい」が「寒い」だと気づいて、速見は鏡の前で、一人得心して頷いたのだった。