足音二人 -解決編
――犯人さん。速見がぶつけられた言葉の意味を斟酌するより先に、たたみかけるような依川の講談が続く。
「うふふ。おかしな真似はしないほうがいいですよ。なんてったってわたしは、実家に手紙を書いてるんですよ。万が一わたしの身に何かあった場合、それすなわち隣人速見さんの所業であるとしたためた告発文ですよ」
ほとんど早口でまくしたてる調子で言ってのけたあと、隣人依川はゆらりと立ち上がった。こたつ似テーブルの前で正座をしていた速見を、テーブル越しに見下ろしてくる。カーテンの隙間から射した夕日が、依川の頬を不気味な赤に染めあげている。これまでのふざけた態度を嘘みたいに消して、生真面目な顔で速見を断罪する。
「つまり……あなた、速見さんは、二日前に被害者女性を連れてこの安アパートに帰ってきたわけですよ。で、なんらかのトラブルがあって……あるいは前々からの計画だった?……いずれにせよ、彼女を殺害した。それから、彼女を包丁でバラバラにして、鞄につめて、人通りの少ない藪の中に捨てた。だから、この部屋からはいつまで経ってもあと一人の足音が出ていかない。うふっ」
隣人依川が、唐突に鼻の穴をふくらませて含み笑いを漏らす。
「まさか、隣の部屋で超絶頭の切れる浪人生が足音に着目して目論見を暴くなんて思いもせずに……これでお手柄浪人生なんて触れこみがつけば、わたしの面接点が倍率ドン! 世の中は平和に、わたしは希望大学に! ウィンウィンの関係ですよ!」
真面目な顔はあとかたもなく消え去り、自称十九歳の超絶天才にしてはエキセントリックさがにじみ出すぎている感のあるにやけた笑顔が表れる。小動物めいた造作の顔や体格は、まあまあ可愛いと言えないこともないが、と速見は投げやりに考えた。このキワモノ状況でさえなければ。
ため息を一つ。部屋の中でそれは白い吐息となり、速見は暖房器具の購入を真剣に検討しかけた。茶の取り寄せを控えれば、あるいは可能なのかもしれない。茶さえなければ……暖房器具だけではない。別れを告げられた、彼女のことも。
「用はそれだけですか。気が済みましたか」
速見は立ち上がった。背中を丸め、スリッパを引っ掛けて、大股で五歩しかかからない玄関のドアを開ける。寒風が顔に吹きつけてくる。部屋の中を振り返ると、隣人依川はきょとんとした顔をしていた。
「お疲れさまでした。帰ってください」
「えっ? いや、あのぅ」
依川はぱちぱちとまたたいて、手を上げたり下げたりしている。つまり、慌てているのだろう。速見がまさか一切取り合わないとは想像もしていなかったのかもしれない。
「速見さん、犯人でしょう。なんですかその冷めた対応は。もっとこう、悔しがったり、逆上したりとか、ないんですか? されたら、困りますけど」
この期に及んでまだ夢見がちなことをつぶやく隣人に、速見はいい加減に諦めることにした。潮時だった。わざと相手を威嚇するように、これ見よがしな重いため息を吐く。
「全部きみの妄想だと言ってるんだ。テレビの事件は俺じゃない。帰ってくれ。こっちが警察を呼んだって構わないんだ。不法侵入だろ、これは」
速見が語気を強めて言うと、依川の口元がふにゃふにゃと動いた。間抜けな顔が、不安げに曇る。こういう顔は卑怯だと思う。明らかに相手に非がある状況でも、まるで速見の方が悪者であるかのような錯覚に陥ってしまう。
「でも、じゃあ、なんで足音は帰って行かないんですか? きっとわたし、気になって夜も眠れなくって受験失敗しちゃいますよお」
それが最後の砦であるかのようになおも追いすがってくる隣人に、速見はめまいを感じた。もちろん、無視したって良いはずだ。隣人の受験の合否の責任を、一隣人に過ぎない速見が負う義務などないのだ。実際、心底どうでもいい。
だがこの女は答えるまでこの部屋を出ていかないだろう。
不気味な粘り腰で、調査と称して居座るに違いない。速見にとって、それは都合が悪かった。彼の居城に他人が滞在することに起因する不快感とはまた違う理由だ。この部屋に人を入れてはならない。万が一にでも、気づかれてはならないものがばれてしまうことがあっては……。
「答えたら、帰ってくれますか」
「えっ、あっ。それはもちろん」
なぜ自分が下手に出てお願いをせねばならないのか……理不尽に対する反発を、わきあがる端から内心に埋め立てて、速見は言った。隣人依川が文字通りぴょんと跳ねあがる。一階の住人は、こたつの下に敷いているカーペットでは吸収しきれなかったどすんという着地音を聞いたかもしれない。速見はおのれを責めた。狭すぎる六畳一間のアパートに、不用意に人を入れてしまった自分が迂闊だったのだ。例外でもないくせに。
「で、あの足音のもう一人さんはどこに行っちゃったんですか?」
隣人依川がとことこと玄関まで歩いてくる。帰る気になったのは本当らしいと見て、速見は少しだけ安堵した。この安堵を得るために速見の恥を引き換えに売り払わねばならないというのは、やはり理不尽という気もするが。
「翌朝の二日酔いが酷かったから、ぼくがおんぶしてバス停まで送ったんですよ。だから帰りの足音は一人分」
「ほうほう。古典的ですねえ」
隣人依川が、無責任な相槌を打つ。
「酒が入って、話がこじれて、……結局別れ話になった。何事もなければ、彼女の体調が良くなるまで休ませても良かった。でも、元彼女を家に置いておくなんて、ぼくはいやだった。朝までが限度で、あとはお帰りいただきました」
「ははあ。ご愁傷様ですう。あ、犯人なんて勘違いしてすみませんでした。えへへ……」
「きみも帰ってくださいね」
「いたたっ」
手の届く距離まで来ていた依川の腕を捕まえて、速見は早々に玄関の外に放り出した。申し訳程度に謝るそぶりの照れ笑いをドアの外に閉め出して、チェーンをかけて、内鍵を施錠する。冷え切った腕をさすりながらこたつ似テーブルまで戻って、つい一時間前までそうしていたように、天板に頬をつけてまぶたを閉じる。疲労がのしかかってくるのを感じる。
しばらくその姿勢でじっとしていた速見は、こたつから何の熱も得られないことを思い出して、腰を上げた。玄関の廊下にある台所に向かい、冷凍庫の戸を開ける。外の寒風とはまた違う冷気が鼻先にかかる。冷凍庫の中身が速見に話しかけてくる。
『ふられたすぐあとに、災難だったね』
「うるさいな」
冷凍庫の声に速見は毒づいた。部屋の中で起きた全てが筒抜けになっていることは、納得済みでもやはり腹立たしいのだ。
『二日酔いとは、上手く逃げたね。だんだん人間種族がわかってきたようで何よりだ』
声が嬉しそうに言う一方、速見は暗い気持ちになった。隣人に訊かれて答えた二日酔いはでっち上げの嘘でも、他のことは本当だったからだ。この人ならと決めた相手に真実を告げて、受け入れてもらえなかったこと。
速見は無言で冷凍ご飯の奥の物を取り出した。
『元気出しなよ。次があるよ』
「しばらくは、そういうのやめたいって言ったら、怒る?」
『怒るよ。職務怠慢は許さない。まさかふられたのが私たちのせいだなんて思ってないよね? 君の甲斐性が足りんのだ。励みたまえ。あと、茶葉をくれ』
「わかってる。説教はきらいだ。茶葉は、あとでな」
手のひらに取った冷え切った銀の球体に息を吹きかける。
金属の表面でチカチカと明滅する光に、速見は今日の出来事をありのまま報告した。