足音二人 -推理編
「花も恥らう一人暮らしの依川恵子は、ある日突然、というほどに急場な話ではないのですが、隣に住む速見さんの生活に妙な点があることに気がついたのでした」
コンロに乗せたやかんを見るとはなしに眺めながら、速見は小さく息をついた。俺は何をしているんだ、と自問したが、突然の客に茶を用意している、というくその役にも立たない冷静な自分が見つかるだけだった。
「妙な点とは何か? それを語る前に、まずはわたし依川恵子と速見さんの関係を説明するところからはじめねばなりますまい」
それはいらない。
隣人依川はひとり演説をぶっていた。先ほどまで彼の居城だったこたつ似その実ただの四足テーブルにふとんを被せただけの物体に、濃い青のジーンズに守られた足を突っ込んでしゃべくっている。玄関のすぐ脇にある台所で作業している速見には目もくれない。こたつ似の対面にある十四型ブラウン管テレビの電源を(勝手に)つけ、ちょっとチャンネルをいじったかと思うと、あとはテレビに向かって話し続けている。一度も速見のほうを見向きもしないのだから、奇妙といえば奇妙な話だった。
しゅんしゅんとお湯が沸く。
ヤカンから湯呑みに熱湯を移す。
ふたつの湯呑みの間で湯を入れ替える。
よい頃合いを見て茶っ葉の入った急須に注ぐ。
一方依川は見えざる観衆に向かって熱弁をふるっていた。
「さかのぼること一年よりちょっと短い前、春の初めのまだ寒い朝、大学受験に失敗したわたしは傷心のガラスハートを抱えてこの街へやってきました。というか、まあ、予備校が近場になくてやむなしに」
速見がさえぎるように玉露の入った湯のみを目の前におくと、依川はちょっと驚いた顔を見せて、やがて「通ですね」と笑った。
脈絡のなさ過ぎるその言葉を受け、速見は痛いところを突かれたように顔をしかめた。
なぜだかはわからないが、この気に食わない隣人に、通販で取り寄せているただひとつの贅沢を見抜かれたのだいう予感がした。妙に落ち着かない気分のまま、自分の湯のみを持って依川の向かいに座る。こたつ似テーブルに足を入れることはしなかった。やる前から、目の前の人間が中で足をくつろげていることがどうしてもわかってしまうからだ。
「ふー、あつあつ。……おいしい。軽やかーに春を連れてこの街にやってきたわたしは、この一年間、そりゃあもう鬼神のごときあれな感じで勉学に励んだのです。このお茶、本当においしいですね。あとで銘柄教えてください。んで、一年間予備校とこのアパートを往復したわたしは、先月ついにセンター試験という第一の難関をくぐり抜け、猛者どもが集う魔の二次試験へと――」
茶が旨いという感想以外を聞き流しつつ、早く本題に入らないだろうかと速見はこたつ似テーブルの天板に目を落とした。人の話を聞くのは得意ではない。ましてや、この依川のように思いついたことを端から口にするような、整理整頓とは無縁の手合いの話は特に。
目を上げると半開きのカーテンの向こう側、窓の外は徐々に暗くなってきていた。
まだ大学の課題も終えておらず、晩飯の買い出しもしておらず、あいつらの世話もしてないし、借りたDVDも見ていないというのに、俺は何をして――
「要約してくれ。ぼくは買い物へ行きたい」
口に出したあと、奇妙な間が六畳一間台所ユニットバス付きをつつんだ。部屋の主であるはずなのに、そうふるまえないことに速見は気が滅入るのを感じた。
依川が、ぎぎぎ、と速見へ顔を向けた。
「つまり、受験のストレスで不眠になっていたわたしは、ここんとこの三日三晩、起きどおしでした。覚醒したままだったので、自然とご近所さんの外出時間と帰宅時間がまるわかりでした。静かな部屋には案外足音がよく響くのです。もちろん、速見さんの足音も。速見さん、帰宅時にドアの施錠をするときはチェーンからかけるタイプなんですね。ちなみにわたしは内鍵からかける派です」
薄気味悪い観察結果をさりげなく開帳した隣人依川は、たしかめるように間をおいて、続けた。
「で、ですね、二日前、わたしは速見さんの家にふたりの人が帰ってきたのを知りました。女の人の声がしたから、そのときは普通にカノジョを連れてきたんだなあと思ったのです。ところが、それから二日間足音をずっと聞いていても、回数が一致していなかったんです。速見さんの家に来た誰かはぜんぜん帰っていかない。隣の部屋で話し声も聞こえない。……そのひとは何処へ行ったんだろう、不思議だなあっと思っていたときに、ほらこれですよ」
と言って隣人依川は、得意げな顔でテレビに向かって顎をくいっと持ちあげた。夕方のニュースの中では、この地方特有の男前祭の様子がレポートされている真っ最中であり、寒気厳しいこの時節に猛々しい裸体を晒すふんどし姿の男たちが蠢いている。速見は目を逸らして、茶をすすった。オクラを買おう、と思った。オクラと豆腐を買って、ポン酢でいただくことにしよう。冷凍ご飯がまだ残っていたはずだ。今日のところは、それでしのげばいい……。
「あっ! これ、これ、こっちでした!」
また突然の声を上げた隣人は、どうやら今度こそ本当に見せたかったニュースに当たったらしかった。ローカルニュースの局アナの顔を指差して、興奮気味にこたつ似テーブルの中で足をばたつかせる。湯呑の水面がさざめいた。
『――今日の午後十三時過ぎ、西区尾名中町の藪の中で、二日前より行方不明として警察に届け出がされていた尾名中町の大学生、行田香織さんの持ち物と見られる鞄が発見されました。行田さんは二日前、友人と遊んでくるなどと両親に告げて自宅を出て以降、行方が分からなくなっており、家族によって捜索願が届けられていました。鞄には切断された女性の身体の一部が入っており、警察は行田さんがなんらかの事件に巻き込まれたものとして――』
画面が切り替わり、ヘリコプターが空撮したらしき現場の様子がテレビに映る。撮影したのは昼間だったのだろう。鞄が見つかったとされる藪は、速見にも見覚えがあった。最寄り駅の裏手にある山の裾野だ。夜になると人気がほとんどなく、大人の男でも一人で近くを通るときには少しためらいを覚えてしまうかもしれないくらいだ。ニュースが流れている間、同時通訳よろしく「西区尾名中町の藪!」「二日前から行方不明の女性!」「何らかの事件!」と復唱をしていた隣人依川は、次のローカルニュースになった途端にテレビを消して、振り向いた。どんぐりのような目が速見を見つめて怪しく光る。
「ね。これですよ。分かります?」
「全然分からない」
にべもなく答えたつもりだったが、依川の反応は速見の予想を越えていた。変にしまりのない顔で、速見に向けて指をつきつけ、こう言ったのだ。
「やっぱり、とぼけますよね。……犯人さん」