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幕間 -完全生物と光より遠くに逃げる蜊蛄

 ある四月の晴れた午後の日、速見が物憂い気分でテーブルに片頬をつけて頭を伏せていると、水槽の中からザリガニが突然こんなことを言ってきた。

「なーんか噂と違うんだよなあ」

 六畳一間には春の暖かい風が優しく流れ込んでいる。窓はカーテンをはためかせ、布地の向こうには晴れ渡った青い空が見えている。人間の皮を捨てて星の重力に逆らわない形状に広がって日光浴をしたくなるくらいのいい天気だ。

「モノリスの百科事典とも一致しないし」

 頬をテーブルから引きはがして独り言をぼやくザリガニを見やる。ザリガニは水槽に薄くはられた水をハサミでかき混ぜていた。水の跳ねる音がする。

「あんたのことなんだけど。ウォーター・ロウ」

 うすうすそう思っていたが、無視していた。速見が無言のまま水槽を見ていると、ザリガニはやれやれとハサミを振って、ぴょんと一跳ねしてプラスチックの檻から飛び出した。水槽に蓋をしていないのは、ザリガニの強固な反対にあってのことである。あまりに下等生物すぎる扱いだと言われては、頷くほかない。

 赤い甲殻が跳ねてテーブルに登壇してくる。速見が頬杖をついている肘のそばまで這い進んで触角を持ち上げる。速見はまた水の足跡がそこここに残ってしまっていることに気をとられていたのだが、ハサミがしつこく彼の肘をつつくので、もう一度ザリガニに注意を戻した。

 あまり聞きたくないたぐいの話だ。それは間違いない。

 速見の予感を裏付けるように、はたしてザリガニは嫌な話を続けるのだった。

「完全生物ウォーター・ロウ。進化しすぎてあんまり形態として完璧だったから有性生殖をやめた挙句に絶滅危惧とか、それ以上自分たちのカンペキが欠けないように外界からの刺激を一切受け付けなくなったせいで生体と死体の違いが分からないとか、どんな姿形にも変身できてどんな環境にも適応できるけどそれは退化なのでやらないとか、眉唾モンだろっていう情報も多いけどよ。種の情報が誇張含めてのものにしても、あんたってぜんぜんそう見えないんだよなあ。優秀なカンペキ野郎かと思いきや、おれが見てるかぎりサンプリングも明らかにヘタクソだし……」

 頬杖をしていない方の手で速見はザリガニを捕まえた。背中の甲殻は水気で滑っていたが、もともと片手で充分わしづかみにできる程度しか太っていないザリガニなので、何の苦もなく持ち上げることができる。目の高さにぶら下げて、外に飛び出したおもちゃみたいなザリガニの目を見る。

「モノリスの百科で見たのなら、嘘は書いてない」

「おいおい、ウォーター・ロウって本当にあの通りなのかよ。とんでもない生物がいたもんだぜ……っていうか、っていうことは、じゃああんたが偽物のほうなの?」

 ザリガニが当然のように返してきた疑問は、速見にとって想定内だったので、あまり動揺せずにすんだ。

「俺は幼生体だから……それに今は人間の入れ物を被ってるから、余計に人間になってる。すぐ感情が動くし、ミスもする」

 我がごとながら、言い訳のようなものいいになってしまった。速見もモノリスから初めて百科事典を見せてもらったとき、ザリガニと同じことを思った。事実しか記さないモノリスだから、そこに嘘はない。だというのに、文面の中に息づくウォーター・ロウの生態は速見とあまりにかけ離れていた。

 速見は未熟な幼生体だが、確かにウォーター・ロウだ。本能が知っている。

 ただ、成体になれるきっかけがまったく掴めないだけで。

「あんたの話だけ聞いてると、言い訳なのか本当なのか分かんないんだよね……。変身すると退化するってマジかよ。嫌味な種族だぜ」

 と、ザリガニが空中で首を持ち上げた。

「そろそろ下ろしてくれねーかい」

 それもそうだ。

 速見は持ち上げたときよりも慎重にザリガニをテーブルの上に戻した。固いテーブルの表面で滑ったのか、ザリガニの脚が引っかくような音を立てて開いて、すぐ閉じた。本当のザリガニみたいだ、と速見は思った。だけど中身はガニおとかいう速見も知らないくらいに遠い星から来た住人なのだ。

「ガニおはなんでこの仕事を?」

 気が付いたら、速見はそんなことを訊いていた。

「おれ?」

 速見はこの星の甲殻類十脚目の表情を見分けられないので判然としなかったが、ザリガニはきっと不思議そうな顔をしていたのだろう。

「おれはまあ、あれだよ。あんたほどじゃないけど、小さい入れ物に入れるくらいの能力はあったからな、ちょくちょくモノリスから仕事をもらってるんだ。サンプリング補佐っておいしい仕事なんだぜ。給料も良いしさ。おまけに、頼めば光より遠くに逃げられるし」

「光より遠く?」

 よく分からない言葉だ。速見が聞き返すと、ザリガニは体の向きを変えた。どうやら窓の外を見ているらしい。速見は少し緊張して探ったが、外に人の気配はない。

「いや、そんな身構えるなよ、外を見ただけだよ」

 おまけにザリガニにたしなめられる始末だ。

「この星はいいよな、こんな宇宙の端っこにあるんだぜ。もうずっと昔に無くなった星の光だって、ここくらいの辺境の星だとまだ残光が届いてる。悪名高い第十三次大戦で暗黒星雲に消された群星も夜になりゃ輝くし、第二十一次大戦で吹っ飛んだおれの太陽もここならまだ見ることができる。あの日から光の速さで死の半径が広がって、おれの太陽が見れない世界が大きくなってくるんだ。光よりも遠くに逃げられる職場なんてモノリスくらいしかくれないからなあ……」

 あーあ、とぼやくザリガニの目からは水滴が垂れていた。ザリガニは目から体液を分泌しないはずなので、あとで入れ物を仕入れた奴に報告を上げる必要があるかもしれない。ついでに、記憶操作の銃も点検してもらおうか……。

 赤い甲殻の輪郭がぼやけて、速見は眠気を感じた。少し寝て、報告は起きてからすればいい。

 ――こんなだから成体から遠ざかるんだ。

 内なる囁きに、その通りだと速見は返して、まぶたを閉じた。

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