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毒入煎茶 -解決編

「もう帰ってくれませんか。外も暗いですし」

「うう、もう少し、もう少し待ってください……何か思い出せそうなんですけど……」

 相変わらず厚顔無恥な粘りを見せて、隣人依川はなかなか速見の六畳一間の居城から去ろうとしない。ここまで思い出させて、まだ納得できないというのなら、最後のカードを切るしかない。速見は短く息を吐いた。

「本当は、思い出さないほうがいいこともある」

「へ?」

「でも、それじゃあきみがいつまで経っても出て行ってくれない。だから言うしかない。お茶を飲んですぐに帰ったのは本当。その後を知らないって言ったのは嘘だ。……ぼくは警告したぞ」

 依川は疑問符を浮かべているようだ。速見は立ち上がった。玄関の扉の前まで歩いて、部屋の中を振り返る。開け放しの部屋の戸の向こう側に、テーブルにお行儀よくついている隣人依川の姿が見える。なんだか額に納められた絵の中の登場人物のように、小さくて、遠いところにいるような錯覚を覚える。

 速見は右手を自分の後頭部にやって、ちょいちょいと動かした。最初、速見の行動を不思議そうに見ていた依川が、しばらくして気がついたのか、恐るおそる速見を真似て後頭部に触れる。触れてすぐ、小さな悲鳴を上げた。

「痛っ……そういえば、昨日から、なんかたんこぶができてたんでした」

「真っ先にそれを気にするべきでしたね。昨日、きみは帰り際にガニおの這った跡を踏んで足を滑らせて、頭を打って倒れたんだ。なかなか起きなかったから、病院に連れて行こうかと思ったけど、元気な寝言を言っていたからやめた。かといって、別に恋人でもない女の子を自分の部屋に泊めたくはない。きみをきみの部屋まで連れて行って、布団を敷いて寝かせたのはぼくだ。鍵はポケットにあったのを借りた。施錠まではできなかったけど」

 とても一回では消化しきれない内容を一気に言いきった自覚はあったが、速見は敢えて捕捉も言い訳もしなかった。やがて依川がぽつんと言った。

「……ガニお?」

「ザリガニの名前」

「お部屋の中を散歩させてるんですか?」

「たまにね」

「なるほど、なるほど」

 うんうんと頷いて、依川はぱっと立ち上がった。と同時に、どんぐりまなこが怒りにつり上がる。

「最初からそう言ってくださいよ! 覚えていない間のあーんなことやこーんなことまで想像していたのに、そんなしょうもないオチだったなんて! なんで回りくどい嘘なんてついたんですか!」

 絵画の世界から荒々しく飛び出して、鼻息荒く詰めかけてきた依川を、手の甲でしっしっと追い払いながら、速見は呻いた。

「そのあたりのことは、覚えていないほうがお互いにとっていいと思ったんですよ。忘れるというか……なかったことにするというか」

「というと?」

「きみの部屋、汚いな。床で虫が三匹くらい死んでた。それから、机の上に『恵子のマイノートその五』って手書きされたファンシー文具が置いてたが、ありゃなんだ。枕カバーに涎のしみのようなものもあった……」

「忘れましょう!」

 依川は今日一番の笑顔を見せると、おじゃましましたあ、と言って鉄板入りのスニーカーを履くとさっさと玄関から出て行った。ドアがばたんと閉まる。ちょうど隣の部屋に移動したくらいの足音が聞こえて、ドアを開く音と、内鍵を施錠してチェーンをかける音が続く。しばらくすると、掃除機の音まで聞こえ始めた。……そこまで確かめて、速見は閉めた玄関のドアを背にしてその場に座り込んだ。着ていたシャツが引っ張られてずり上がるが、とてもそんな些細なことを気にする余裕はなかった。

 壁の向こうから掃除機の音だけが聞こえてくる。

 速見が両膝に頭を埋めるような格好でうなだれていると、テテテチ、という小さな生き物の足音が近づいてきた。目線を上げると、赤い甲殻と、床に反射する水の跡が見えた。ザリガニがまた押し込まれていた水槽から抜け出してきたのだ。室内灯の明かりをはじいて、小さな水たまりがにぶく光っている。目を閉じて思い出す――昨日のことを。

 昨日のちょうど今頃、ちょうどこの辺りに、依川恵子は倒れた。

 速見は、確かに茶に睡眠薬を混ぜたのだから。

 本人は探偵気取りで正しい湯呑を選んだつもりだったのだろうが、もともと茶葉に薬を混ぜていたのだから、どちらの湯呑を取っても変わらなかったのだ。速見はそういうたぐいの薬は効かない体質だから平気で飲んだし、隣人はすぐに呂律が怪しくなった。

 自分の身に起きつつある危険を察したのかもしれない。依川は這って玄関まで逃げようとして、たどり着けずに廊下で倒れたのだ。もがくように動いていた手足がだんだんにぶくなってきて、死んだ虫みたいに動かなくなるまで、速見は立って隣人を見下ろしていた。

「やっふぁり……はんざいひゃ……」

 その言葉を最後に、依川は眠ってしまったようだった。深い呼吸に合わせて規則的に胸が上下していることを確認して、速見は眠る隣人の横に腰を下ろした。右半身を下にして横たわっているので、右頬がつぶれてちょっと面白い顔になっている。

「どうだい、ウォーター・ロウ。いけそうか?」

 廊下が静かになったことを察したのか、カサコソ音を立ててザリガニが寄ってくる。とがったハサミの先端で、依川の鼻先をつつくと、むにゃむにゃ言いながら依川の左手が追い払うような動きを見せた。

「げっ、まだ完全に寝てねえじゃねえか」

「もう少し待とう」

 しばらく待って、速見はザリガニに倣って隣人依川の髪を一房にぎって引っ張った。今度は特に反応しない。念のため、やわらかそうなほっぺもつまんでみる。閉じたまぶたがぴくぴく動いたが、それだけだ。たぶん、もう大丈夫だ。

 一つ頷いて、速見は冷凍庫から一丁の拳銃と一発の弾丸を取りだした。弾丸には唾を吐きかけて、装填する。トリガーの上に付いている二つのダイヤルを回して、これで三ヶ月分の、半径十メートル以内の、速見と同じ生体情報を持つ生物の記憶がすっかり消えることになる。拳銃の持ち手から氷点下の冷気がてのひらに染み込んでくる。速見は隣人依川の後頭部に向けて引き金を引いた。

 それで、終りのはずだったのに。

 速見は目をひらいた。掃除機の音はもう聞こえない。無人の廊下に、今はザリガニと二人きりだ。

「なんであの女、覚えてたんだ? ウォーター・ロウ。あんた、なんか、ミスったかい?」

「俺は間違えてない。……ただ、ときどき、記憶操作が効きにくい奴がいるとは聞いたことがある」

「ははーん。そりゃ残念」

 玄関のドアにもたれる格好の速見をハサミで指して、ザリガニがきしゃきしゃ甲殻を揺する。笑われていると分かっても、ザリガニをつかまえてお仕置きするだけの気力が回復するまで、まだ時間がかかりそうだった。速見はもう一度ため息を落とした。ガチャッ。「ひえーっ!」ドアがいきなり後ろに開いた。それから、なぜか依川の間抜けな声。

 もたれかかっていた姿勢が災いして、速見はごろんと後ろに転がって、ちょうど仰向けのような体勢から、こちらを見下ろしている依川と目が合ってしまった。ドアを引き開けた姿勢のまま、速見の顔を覗きこんでいる。虚を突かれたような驚いた顔が、すぐに笑顔に変わる。

「帽子忘れちゃったので、取りにきましたあ」

「ノックくらいできないんですか……」

「おじゃましまあす」

 頭だけ外にはみ出した速見を避けて、隣人依川は我がもの顔で六畳一間の居城へやすやすと侵入を果たし、野球帽を回収すると、手をついて身を起こした速見に「では!」と元気よく挨拶して、そのまま去ると思いきや、ドアに手をかけたままぴたりと静止した。くるりと振り返って言う。

「そういえば、速見さんて下のお名前、うおたろうっていうんですね」

「……ウオタロウ?」

「えへへ。昨日の、頭打ったときのことを、もう少しだけ思い出したんですよ。速見さん、電話か何かで誰かとお話ししてませんでした? 相手の人、ウオタロウって言ってたみたいだったので。魚に太郎? 古風なお名前ですね!」

 と、上機嫌で告げたかと思うと、今度こそ依川は去って行った、かと思いきや、閉まりかけた玄関のドアの向こう側で、依川は笑いをこらえるような表情で、ちょっとした仕草をした。

 髪を一房手にとって、ほっぺをムニムニつまんでみせた。

 直ぐにドアは閉まり、隣人の姿が見えなくなる。

 やがて、足元にいたザリガニが小さな声で言う。

「アレ、おまえの真似じゃね?」

 速見はぞっと身震いした。依川はどこまで覚えているのだろう?

 まずい事態が起きつつある。一刻も早く、冷凍庫の住人にこの六畳一間の拠点の状況を報告しなければならない。

 速見の器は震えている。だというのに、頬だけが熱い気がするのが不思議だった。

 なんだあれ。

 なんだあれ……。

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