毒入煎茶 -推理編
「花も匂い立つたおやか十九歳、新生活にちょっと浮かれぎみ・依川恵子は、昨日の夕方、大学帰りにアパートの下の入り口で、お隣に住んでいる速見さんから、大学合格して良かったねとのお言葉をいただいたのでした。そういえば、速見さんエントランスで何やってたんですか?」
速見が台所でもう一度ヤカンに火をかけていると、てっきり奥の部屋でだらだら足を伸ばしてくつろぐばかりだと思っていた依川が近くまで寄ってきた。どんぐりみたいな丸い目を、ヤカンと、用意されている二つの湯呑と、急須と、沸騰を待つ手持ちぶさたな速見の手との間で、往復させている。ふーむ。手を顎にやって、いわゆる考えるポーズを取ったりしているが、いちいち動作がわざとらしすぎて、滑稽にしか見えない。最終的に、依川の視線は速見の顔に落ちついた。なにやらもの言いたげな目だ。
「あのう。話、聞いてます? 昨日、下で何やってたんですかって訊いたんですけど」
「……郵便受けを見に」
「なるほど!」
何がなるほどなんだ?
速見の困惑にまるで気づかないそぶりで、依川はうんうんと頷いている。
「えーと、つまり、昨日の速見さん的には、郵便受けのチェックをしている最中に、今年大学に合格できた努力家で尊敬に値する隣人が、というかわたしが、たまたま通りかかったので、おめでとうの意味を込めてお茶をふるまおうという気になってみたわけなんですね?」
枝葉を省いた大雑把な説明をするならば、確かにそういうことになるな、と速見は考えた。間違っても、こいつに尊敬の念なんて抱いちゃいないが。
「三月の時点で合格しましたって報告したつもりだったんですけど、まあ一ヶ月の空白期間は大目に見ても良いです。えへっ」
依川は的外れな恩着せがましい発言をしつつ手を頭にやってコツンなどしているが、速見の思惑は別にあった。
要は、隣人依川恵子を部屋に誘う口実があれば何でも良かったのだ。そういうわけで、昨日の速見は特に深く物を考えずに、アパートの共同玄関で待ち伏せをして、のこのこ大学から戻ってきた依川に声をかけた。実際、お茶をふるまうと言えば、依川は少し迷った様子を見せたものの、ほいほいついてきた。
視線をコンロに戻すと、良い具合に湯が沸騰しかけているようだった。火を止めて、しゅんしゅんと鳴いていたヤカンを下ろす。いつものように、まず湯呑にお湯を二杯分移して、それから急須に改めて注ぎ直す。隣人依川はといえば、速見から少し離れた位置に立ち、茶を淹れる工程を一挙手一投足見張っている。そういえば、昨日この部屋に来たときも、依川は同じことをしていた。
「座りませんか」
急須から湯呑に茶を淹れたあと、速見は目線で隣人をうながした。依川はむむむと謎の唸り声を漏らしたものの、結局は奥の部屋に入ると、部屋の電気を点けて、テーブルの前に膝をついた。正座だ。速見は両手に湯呑を持って、テーブルの真向かいに座った。二つの湯呑をテーブルの上に並べる。依川は手をつけなかった。野球帽は脱いでいた。きょろきょろ辺りを見渡して、へへっと笑う。
「うーん相変わらずの殺風景。忙しいなんて嘘ですよね。ザリガニちゃんがいて良かったですねえ。カニカニ……あっ、いまこっちにハサミを振ってくれましたよ! 見ました? 見ました?……あれ。何の話でしたっけ」
それをこっちに訊くのか。
「あ、そうだ、そうだ。実は、昨日速見さんのお部屋におじゃまして、お茶をもらったあたりから、わたしの記憶がどうもあやふやだっていう、そういう話なんですよ。気がついたら目覚まし時計の声が聞こえてきて、今日の朝になっていたとゆうか……。わたしは自分の部屋に戻っていて、お布団も敷いてあって、でもそういう覚えがないんですよね。速見さん家からおじゃましましたーっ、てやった記憶もないし」
依川のまた長い話を聞き流しながら、速見は横目で部屋の隅にある水槽を見た。ザリガニが好奇心丸出しで水槽の壁にかじりつきになっているのを確認して、頭が痛くなってくる。どいつもこいつも。
「お風呂に入ってなかったし、歯も磨いてなかったし、なんだか後頭部も痛いし、朝ごはんの準備もしてないしで、午前の講義に遅刻しそうになってそりゃもうさんざんな感じで。やれやれですよお」
依川の愚痴めいた話を聞くかぎり、結局、かけておいた二つの保険のうち片方を切らざるを得ない状況になったのだと速見は悟った。そう何度も使える手段ではないが、少なくとも今回はこのどちらかの手段で追い払えるはずだ。そうと決まれば、与太話に付き合う義理もない。手を振って依川の講釈をさえぎって、一息に言う。
「で、訊きたいことって何ですか」
「速見さん、お茶に一服盛りませんでした?」
打てば響く明快さで、依川はそのものずばりを指摘した。よく動く黒い目が、速見の動向を見逃すまいときらめいている。速見もこれまた恒例になりつつあるが、表情を動かさず、依川の嫌疑を否定した。
「やってないです。すぐぼくに疑いをかける癖、なんとかしてください。迷惑です。きみは覚えていないなんて言うけど、寝て起きたら忘れてただけなんじゃないですか?」
物覚え悪そうだし、と速見が続けるよりも先に、隣人依川が首を振って否定する。ご丁寧に人差し指まで立ててちゃかちゃか振ってみせる始末だ。
「そういう短絡的かつ論理的でない結論はノーですね。いくら小学生の頃にランドセルを持って帰り忘れたわたしでも、そこまで物忘れはひどくないです」
どうでもいい過去のエピソードを披露されてしまった。
「だからぼくがお茶に何か混ぜたって?」
「そうです! いよいよ犯罪者予備軍こと速見さんが尻尾を出したその瞬間を、わたしは正義のいち市民として告発し、真実を白日のもとに明らかにせねばならないのです!」
「ぼくが飲み物に何も混ぜていないことは、きみ自身が確認したはずなんですけど」
鼻息荒く自説を主張する隣人がどうやら忘れているらしいことを指摘してやると、依川はきょとんとした顔でまばたきした。速見が辛抱強く待っていると、対面の依川の表情が突然変わった。疑問符をそこらじゅうに浮かべていた怪訝な顔が、ぱっと明るくかがやく。
「そうでしたっけ? そうだったような……そうかも。あ、そうだ。そうでした! ちょっと、思い出してきましたよ!」
「さっさと思い出して納得して、とっとと帰ってくださいね」
興奮気味の隣人に速見は水を注しておいたが、握った拳を上下にぶんぶんしている依川には、たいした効果はなさそうだった。
「花も匂い立つたおやか十九歳、新生活にちょっと浮かれぎみ・依川恵子は、昨日の夕方、大学帰りにアパートの下の入り口で、お隣に住んでいる速見さんから、大学合格して良かったねとのお言葉をいただいて、さらに合格祝いにお茶でもどうかと言われて……これは怪しいなあ、と思ったのでした。そうだそうだ」
やはり怪しいとは思っていたらしい。久しぶりに常識ぶった発言を耳にして、速見はほんの少しだけ隣人を見直した。
「あの速見さんがですよ、合格祝いにお茶って。びっくりするくらい適当で嘘くさい誘い方じゃないですかあ。これはお茶の誘いを口実に、すわ犯罪行為におよぶのではないか? 速見さんの隠されし犯罪性を白日のもとに暴き出し、いよいよお手柄女子大生デビウが近いやも……と期待に浮かれてしまったわたしを、いったい誰が責められましょう」
いつの間にか、水槽ごしにこちらを見ているザリガニの飛びだした目と自分の目線が交わっていることに速見は気がついた。テーブルの正面で正座している依川からつい目を逸らしてしまった逃避先が、ザリガニなのだ。今までにない疲労感が肩のあたりにのしかかってくるのを感じる。もう一度対面に目線を戻すのには、大変な労力が要りそうだった。
「……それで?」
なんとかザリガニから向かいの隣人に注意を戻して、速見が続きをうながすと、依川はまた手を顎にあてて唸りはじめた。
「それで、ええっと……、わたしは手始めにそのお茶が怪しいと思ったんですよね。部屋の中でふたりっきりで、ふるまわれた飲み物に睡眠薬が入っている。こーれはサスペンスの始まりですよ!」
うすうす分かっていたことだったが、隣人は事件の臭いを嗅ぎつけては興奮する性質らしい。部屋に吹きこんでくる四月の風は、夜の気配を含んで少し冷たくなってきており、速見は隣人との温度差を感じてうんざりした。
「そんなことをして、ぼくに何の得があるっていうんだ」
「ええ? 可憐な女の子にいかがわしい行為ができるじゃないですか。寝顔を無断で眺めるとか、口を勝手に開けて歯並びをチェックするとか。手足をバラバラにしてくるまのトランクに詰め込むことだってできちゃうじゃないですかあ」
じゃないですかあ、とにやつく隣人依川の目は、冗談とも狂気ともつかない怪しい光できらめいている。速見はテーブルから少しだけ身を引いた。
「そこで! わたしは! 速見さんがお茶を淹れる動作を見張ることにしたのです! うーんわたしってば頭がきれる!」
そこまで危険と認定している人物(速見のことだ)の部屋にあえてもう一度踏み込む理由はなんだ? 問いただすことすら馬鹿らしい。分かっていたことだったが……やはりこの隣人は、何も考えていない。
「見張った結果は?」
速見が言うと、途端にそれまでの勢いが急ブレーキされて、依川はしおれたようにうつむいた。
「……思い出しました。別に怪しくなかったんですよね」
しょんぼりしながら肩を落として言う。
「一回湯呑を洗ってくださいってお願いしたら、洗ってくれましたし」
そんなこともやった。
「見張っている間に湯呑に何かを入れたり塗りつけたりもしなかったし」
寒気がするくらいに見られていた。
「同じ水道の蛇口からひねった水で、同じヤカンと、同じ急須から、同じお茶っ葉でお茶を淹れてましたし」
普通は、そうする。
「飲む直前に、念のため速見さんの前に置いていた湯呑とわたしの湯呑、替えてもらいましたし」
そういえば、そっちの方が良い匂いがするとか言って奪われた。
「交換した後、速見さんが飲むときに躊躇するかなあ、と思ってたんですけど、普通に飲んでましたし」
飲んでも平気だと分かっていたからだ。
「だから安心して飲んで……でも、おかしいなあ。その後、どうしたんだっけなあ」
「きみは直ぐ帰りましたよ。その後のことは、ぼくは知りません」
速見はテーブルに置いたまま放置されていた湯呑を取った。ちょうど良いぬるさのそれを飲む。今日の葉はいつもより少し甘い。速見が時間をかけて素敵なお茶を飲み干したころ、依川はといえば、まだ頭を抱えていた。




