足音二人 -事件編
――いつのまにか寝てしまっていた。
冷えて固くなった背中と、恐ろしいくらいに無感覚な指先を自覚して、速見はまぶたをひらいた。一見こたつにも似た、その実ただの四足テーブルにふとんを被せただけの冷たい居城に突っ伏していた姿勢を起こす。
刺すような二月の冷気に、六畳一間の安アパートは凍りついていた。カーテンの隙間から切り取られた夕日が覗くが、まるで暖かくない。
下じきになっていたA4のレポート用紙を顎からはがして、ぼんやりと赤く染まる室内を見渡して、めし、と速見が考えたとき、玄関がぴんぽろりんと間抜けな音を発した。
速見は反射的に眉間にしわを寄せた。
そのぴんぽろりんが明らかに人間の声によるものだったからだ。
玄関の扉を眺める。無視するかどうか。口頭でチャイムを告げる馬鹿の相手などしたくなかったが、居留守を使うことに気の咎めを感じる程度の善良さを持ち合わせてはいるつもりだ。ぴんぽろりんぴんぽぴぽぴぽぴんぽろりん。
これは連打したときの声真似まではじめたということだろうか? うすら寒い思いで速見は立ちあがった。これ以上玄関に馬鹿に居座られては迷惑だった。近所付き合いを重視していない彼でも、悪評はその限りではない。
玄関へと向かい、チェーンがかかっていることを確認して鍵を開け、ドアノブを捻る。
長細くひらいた隙間からこちらを見上げていたのは、比較的まともな――ぴんぽろりんを恥ずかしげもなく連呼する割に、という意味で――若い女だった。速見の部屋は二階にあるので、この季節、ドアの外はいつでも風が吹きすさんでいる。コンクリートの廊下に堂々と仁王立ちした彼女は、しかし風などまるで気にした様子はなかった。歳は大学三回生として生活している彼と同じか、ひとつふたつ下というあたり。染めていない肩までの黒髪に、小作りの顔。ぶくぶくにダウンを着込んでいるので体型の詳細はわからないが、速見より頭ひとつ小さな体は、とりたてて太りすぎているようでも、その逆のようでもなさそうだ。ぐりぐりとした大きな瞳が特徴的といえばそうなのかもしれなかったが、いまは、それ以上にくっきりと残る隈が目を引いた。……どこかで、見た覚えがある顔。
記憶から訪問者の正体を探り当てるよりも先に、速見はふと自分が彼女に品定めするような目を向けていたことに気づいた。内心の動揺とわずかな罪悪感を打ち消そうと、彼が反射的に言葉を押し出そうしたとき、前触れなく女が口をひらいた。
「あのー、わたしはあなたの隣に住んでる依川とゆうものなんですが、あなたはわたしの隣に住んでいる速見さんで間違いないでしょうか」
舌足らずな口調のくせ、妙にはきはきと女は言った。
――隣人。
そういえばこんな顔だったかもしれない。ちょっと考えてから、速見は頷いた。
「それは良かったです。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
そう言いながら、隣人依川はダウンから細い手首を伸ばし、ドアの隙間に差しこんだかと思うと、やおら器用にチェーンを外してみせた。
「その間、実に一秒」
嬉しそうな顔で依川がドアの隙間に体をねじ込んでくる。唖然とする速見をまるで無視して、ドアの隙間に半身を入れた女は、もう一度、お時間よろしいでしょうか? と訊ねた。
チェーンを破っておいてこれである。速見はぼんやりと考えた。いまどきセールスマンもここまではするまい。ドアを蹴って閉める機会を失ったがための、現実逃避気味の思考だった。
「ことは緊急を要するんです。可及的速やかにかつ取り急ぎなんです。ほんの少しでいいので、お時間をわけてくださいませんか」
そう言ってこちらの反応を窺うように首を傾げるさまを見せられても、速見にとっては疑惑の念がいや増しになるだけだった。すぐさま無理やりにでもドアを閉めたかった。目の前の人物が女で、自分より(たぶん)年下で、邪気のない顔をしているのが邪魔だった。これでは強引に閉め出しても、後味の悪さが残ってしまいかねない。
そこまで考えて、ふと、目の前のこいつは、という疑問が浮かびあがった。顔もろくすっぽ知らなかった隣人(自分のことだ)の住居に突然押しかけ、口頭でチャイムを鳴らし、現在進行形で時間を融通してもらおうとしている、この女。寒々しい玄関にもかかわらず、こちらは部屋着で相手はダウン。彼女にも後ろめたさというものがあるのだろうか。
「あのー、聞いてますか? わたしのお隣さんであることが電撃的に確定した速見さん」
遠慮を一切取り払った形で、あらためて速見は女を眺めた。そうでなくてはフェアでない気がしたのだ。
速見がただ静かに自分を観察しているということに気づいたのか、依川はようやくそれまでの能天気な態度を崩して不安げな顔を見せた。
――これでちょうどいい。
初対面――ではないにしろ、それに近い――人間どうしはかくあるべきという、気まずい独特の空気が戻ってきたことに速見は内心安堵した。安堵した直後に俺は馬鹿か、と自問する。こんなことをしても意味がない。この場を気まずくしても、彼ひとりの自尊心がわずかに慰められるだけで、目の前の女を追い払うにしろ、話を聞いてやるにしろ、なんの足しにもなっていないことは明らかだった。
「あ! わかりました! わかりましたよ、エウレーカですよ!」
唐突に依川が叫び、反射的に後じさりかけた体を速見は押しとどめた。これ以上の後退は、依川のそれ以上の侵入を許すことに同義だ。外見上は身じろぎひとつしただけといった体で、速見はぴょこぴょこ跳ねだした女を見やった。玄関のドアに半分挟まれた状態で跳ねる隣人というのはひどくシュールな光景だったが、本人は気にしていないのか、ただ嬉しそうな顔で古代の賢人が全裸で叫んだとされる名言を連発している。
「つまり、いきなり説明もなしに話をするから駄目だったんですね! なんでどうしてわたしが交流ゼロだった隣人速見さんの家に来ていったいなんの用があるのかわからないから警戒されても仕方なし詮方なしという、つまり……」
途中で自分でもなにを言っているのかわからなくなったのか、依川はひとつ首を捻った。
「つまり、説明が必要なんですよね、この訪問の目的の、倒置法の修辞法の蛇足の補足の」
速見の忍耐がぎりぎりにきそうなところで、タイミングよく依川は言葉を切った。
「えー、では、ごほんごほん」
わざとらしい咳払いのあと、凛々しいとしか表現のしようがない表情で、依川は天に拳を突き上げた。そのまま、くるりと速見に背を向け、叫ぶ。
「説明しよう! 花も恥らう十九歳、一人暮らしの浪人生・依川恵子は、」
アパート階下を通りすがりの主婦が唖然とした顔でこちらを見ていることに気がつき、速見は反射的に依川を部屋に連れ込んでしまっていた。